息をするように本を読む112〜「ハリーポッター・シリーズ」J・K・ローリング〜
今さら…という感じではあるのだけれど。
言わずと知れた、イギリスの作家ローリング女史による世界的な超巨大ベストセラー。
第1巻が日本で翻訳され出版されたのは1999年。それから2008年までに全7巻(日本語版は上下巻がある巻もあるので、単行本では実際には全11巻)が出版され、累計発行部数は2360万部。世界的に見ると、実に6億部を超えるという。
現在では、本や映画だけでなく、世界中の遊園地の、いや、今はテーマパークというのかな、そこここで、ハリーポッターの世界観を体験できるエンターテイメントエリア(言葉の使い方合ってます?)がある。
もはや、小説というより、ひとつのコンテンツ(これも使い方、合ってるかな)となっているようだ。
我が家とハリーポッターシリーズの出会いは、長女が小学生の頃、20年くらい前だったと思う。
最初の映画「ハリー・ポッターと賢者の石」が日本で公開されてから2年ほど経っていた。
義理の姉から、義姉の子どもたち、つまり甥っ子たちが通っている小学校の夏休みの夕涼み会で映画上映があるから、見にこないかと誘いがあった。その演目が「ハリー・ポッターと賢者の石」だったのだ。しかも、無料。
これは行かねばなるまいと家族で出掛けた。
小学校の体育館で板の床に直座りとはいえ、大きなスクリーンで見るハリーポッターの世界はものすごく魅力的で、長女はたちまち夢中になった。
彼女は家に帰ってから、いや、何なら帰りの車の中で、本が欲しいと言い出し、それを口実に(実は私も読みたかった)、この頃、既に日本で発売されていた1巻「〜賢者の石」と2巻「〜秘密の部屋」の単行本2冊を購入した。
手に取ると、なかなかに分厚い。小学生低学年の長女にはまだ無理ではないかとちょっと危ぶんだが、それは杞憂だった。
長女は瞬く間に2冊とも読んでしまい、私も追いかけるように読了した。
その後、1年か1年半に1冊のペースで発売されるシリーズを追いかけた。
追いかけ始めの頃はまだ就園前で映画のときはお留守番だった次女も小学生になってから同じように読み始め、みるみるうちに追いついてきた。
巻を重ねるごとにどんどん分厚くなり、4巻目の「〜炎のゴブレット」からは上下巻に分かれたが読むのは全く苦ではなかった。
それくらい、ホグワーツで繰り広げられる魔法使いたちの冒険の物語は、子どもたちだけでなく、ファンタジーを愛する大人(私のこと)にも、魅力的だった。
あまりにも有名なストーリー、説明の必要はないと思うが、一応、ということで。
物語は、現代のイギリスが舞台。
主人公はハリー・ポッターという11歳の少年。両親は彼がまだ赤ん坊の頃に亡くなっていて、ハリーは母親の姉、叔母の家で暮らしているが、お世辞にも歓迎されているとは言えない。というよりむしろ、虐待されていると言ってもいいだろう。
そんなハリーの元に、ある日、不思議な手紙が文字通り、舞い込む。
フクロウが運んできた、魔法学校ホグワーツからの入学許可証。
ハリーの亡くなった両親は実は魔法使いだった。
この世界にはもうひとつ、巧妙に隠された世界があって、そこでは魔法使いたちがマグルたち(非魔法族のこと)が知らない別の社会を形成している。
その世界には、魔法族たちの子女を集めて教育を受けさせる魔法学校があり、ホグワーツはその中のひとつ。ハリーの両親もそこの卒業生だった。
この後、まあ、いろいろと騒動はあるが、とにかく、ハリーはホグワーツ校に入学し、その寄宿舎に入って、7年間にわたりさまざまな魔法の技術や知識を学びながら個性豊かな仲間たちと仲良く、ときにはいがみ合いながら暮らしていくことになる。
1巻目の「〜賢者の石」の冒頭部は、魔法世界、及びホグワーツとは、どんな場所かという説明に終始している。
でも、次から次へととんでもなくワクワクするような出来事の連続で、それがいかにも生き生きと語られるため、決してだれることはない。
そして、ハリーも読者もホグワーツにだいぶ慣れてきた頃、ここからがメインストーリーになるのだが、ハリー自身も知らない、これまたとんでもない秘密が明かされ、否も応もなく、ハリーは闇の魔術との戦いに巻き込まれていく。
この戦いの中で、魔法界は敵と味方、2つの陣営に分かれるのだけど、そこで児童文学にありがちな勧善懲悪のみに終始しないところがこの作品の面白いところだ。
どちらの陣営の中にも、さまざまな性格、氏育ち、考えを持った者がいて、簡単に善悪、好き嫌いでは片付けられない。
それぞれに自分の主義主張、権勢欲、保身欲を振りかざす者たちがいて、両陣営いずれも一枚岩でないところが、妙にリアルだったりする。
そしてそれは大人だけでなく、子どもたちでも同じことが言える。
ハリーとその仲間たちは、11歳から17歳までの生意気盛り。
勇気と正義感と友情に溢れた胸熱な少年ジャンプみたいな話、ばかりのはずはなく、ときには、やっかみ、出し抜き、自慢し、足を引っ張り合い、罪のないあるいは罪しかないイタズラを仕掛け、悪巧みを画策し…。
あるある、こういうこと。
いるいる、こんなヤツ。
下手に魔法が使えるからこそ、よけいにややこしい、クソガキ、もとい思春期と言う名のギャングエイジたち。
耳からサボテンやネギを生やしたり、相手の姿をフェレットに変えて地面をバウンドさせたり、惚れ薬を調合したり、時間を遡ったり。
いやもう、カオス、めちゃくちゃ。
でも、一見めちゃくちゃに見えるが、これらにはちゃんと法則や法規の縛りがあって、それはどんなに優秀な魔法使いでも逆らえない。
魔法を使うのに、古式ゆかしく杖を使って呪文を唱えるのもまた面白いところ。
「アクシオ〜」
「アロホモラ〜」
「レパロ〜」
「ウィンガーディアム レビオーサ」
「エクスペクト パトローナム」
(何のことかおわかりでない方、ごめんなさい)
何度か出てくる呪文は、子どもらも私も覚えてしまい、日常生活でよく唱えた。
残念ながら、全く発動しなかったけど。
本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。
前にも散々書いたと思うが、私は基本的に単行本は買わないことにしている。
ただ、文庫になるかどうかはわからないもの、例えば児童文学などは、仕方がないので単行本で買う。
もっとも、最近になって、ハリーポッターシリーズも、前に記事に書いた「精霊の守り人」シリーズも「天山の巫女ソニン」も、いつのまにか文庫になって書店に並んでいるのを見て、びっくりした。
えー。そんなん、文庫になるんやったらもっと早く言うてよー。
などと思うが、あのときに買わないで今まで待っていたら、娘らは大人になってしまう。
まだ幼かった彼女たちと一緒に、何ならそれまであまり本を読まなかった家人まで巻き込んで、家族みんなでワクワクしながら競い合って読めたこと、それを考えたらやっぱり単行本で買ってよかったのだと、思っている。