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息をするように本を読む120〜早見和真「笑うマトリョーシカ」〜

 今月末の自民党の総裁選。立候補者が先日の都知事選ばりに乱立している。
 ラジオや新聞のニュースも、その話ばかり。
 結果的に首相になると決まってはいても、あくまでも一政党の党首の選挙。部外者があれこれ言ってみても、下馬評の域を出ないだろうが、次回選挙を戦うための顔になってもらうためには国民受けがいいのがいいとか、後々のことを考えて自派閥に有利なコネのあるのがいいとか、政治的手腕は関係ないんかい、人気投票じゃないんだよ、とちょっと言いたくなる。

 
 でも、およそ、政治家を志し、ひとかどの地位につけたなら、やはり一度は首相の座に就きたいと思うのは当然、なのかもしれない。

 
 政治家に必要なものとは。

 人心を慮り、さまざまな階層、立場の国民の気持ちや生活に寄り添うことが出来る想像力。
 必要とあれば誰に何と言われようと、大ナタをふるうことが出来る鉄の意志と決断力。
 自分のことよりも、他者のこと、国のことを優先する、無私利他の志。
 より良い未来を構築するために、遠きも近きも社会や世界の先行きを正しく見通せる、洞察力と先見の明。

 思いつくままに書けばこんなところだろうか。

 しかし、この物語に登場するある人物は言う。
 政治家に必要なのは、有権者や支援者、周囲の優秀なブレーンたちの意向を、あたかも自分自身の意思として受け入れるための空っぽの心。
 邪魔になる『自我』は、無くていい。
 自信に満ちた笑顔のその中身は、マトリョーシカのように空洞でいいのだ、と。
 

 物語は、若くして衆院議員に初当選し、そのままずっと政治の表舞台を歩いてきた清家一郎が、47歳の現在、内閣官房長官指名を目前にして、議員会館の自室で新聞記者の道上香苗のインタビューを受けるところから始まる。
 
 香苗はいわゆる政治記者ではない。文化部所属で、このインタビューも政局の話ではなく、清家が長くある雑誌に連載していたコラムがこのたび加筆修正を経て書籍として出版されたので、その著書についての取材だった、のだけど。
 
 終始笑顔を絶やさず、自信と活力に満ち溢れた清家の立ち居振る舞いに、香苗は、不思議な違和感を覚える。それが何かは彼女にもよくわからない。
 この人は何か変だ。話しぶりも声ももちろん選ぶ言葉も申し分ないのだけれど、その目は? 清家の目は、どこを誰を見ているのだろう。
 まるで優秀な人工知能を相手にしているような、この気持ち悪さは何?。
 
 実はこの会見の少し前、ある事情により、香苗は清家が大学時代に書いた卒業論文の草稿を読む機会があった。
 そのテーマは、エリック・ヤン・ハヌッセン。ナチス台頭の黎明期、アドルフ・ヒトラーのブレーンのひとりで、彼の演説の制作者であり、陰でヒトラーを操っていたとも言われている人物。後には、その存在をヒトラー自身に疎まれ、謎の死を遂げている。
 なぜ、高校生の頃から政治家を目指していたという清家が、こんな人物を卒論のテーマにしたのか。
 
 ジャーナリストとしての純粋な興味と、先輩記者のアドバイス(焚きつけ?)により、香苗は清家とその高校時代からの友人であり、現在は清家の筆頭秘書を務める鈴木の過去及びその周辺の人物たちの調査を始める。

 ここからは、清家の回想録『悲願』からの思い出話の抜粋と、それを裏から補完する鈴木のひとり語り、それに香苗の視点が加わって、物語が展開していく。

 読み始めて、まず戸惑うのは、清家の著書『悲願』で彼が自ら語る鈴木や他の仲間たちとの学生生活と、鈴木の回想の中の彼らとがあまりに乖離していることだ。
 そりゃ、政治家の著書なんて支持者に読ませるためのものだから、いいことしか出てこないのだろうけど、それにしてもまるで別人のことが書かれているように思える。
 現在の、世間一般が見ている清家は、やっぱり本当の清家ではなく、何か、たとえばヒトラーにとってのハヌッセンのような誰かによって巧みにプロデュースされた存在なのか、もしそうなら、それはいったい誰なのだろう、と読んでいる読者は考え、もちろん調査している香苗も思うのだけど。
 
 最初、香苗は清家のことを誰かに作られた「ニセモノ」と呼んだ。
 彼女の言う「ニセモノ」とは、どういう意味なのだろう。
 およそ、生きている人間全てが、生まれたての乳児でもない限り、成長する過程でさまざまな物、人、言葉、事象に出会う。思わず知らず、それらから受けた影響が、その人間の人格や思考を形造る。
 それを、あなた自身ではない、ニセモノだ、と言えるのか。
 逆に問えば、「ホンモノ」とはどんな人のことを言うのだろう。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 
 香苗は清家が誰かに操られていると考え、彼を支配している人形遣いを探す。
 現実の政治家たちもどれだけ自分自身を見せ、どれだけ自分の言葉で話しているのだろう。
 みんな、多かれ少なかれ、誰か名軍師の下でプロデュースされているといえば、そうなのではないか。
 かつて、そして現在も、歴史に残る数々の名演説がある。
 それらの演説は、本当にその政治家本人の言葉なのだろうか。


『私はシーザーを愛さなかったのではない。よりローマを愛しただけだ』
 
『人民の人民による人民のための政治』

『国民よ、立ち上がれ。嵐を起こせ』
 
『国が君たちに何をしてくれるかと問うのではなく、君たち自身が国のために何が出来るかを問いたまえ』

『強いアメリカを再び』

『そう、私たちは変えられる』

『自民党をぶっ潰す』 

 
 それぞれの時代、それぞれの立場で、民衆はこれらの言葉に酔い、熱狂した。

 ……操られているのは、誰?

 

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