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息をするように本を読む97〜浅田次郎「中原の虹」全4巻・「マンチュリアン・リポート」〜

 私は、およそ歴史物と言われるものはなんでも大好きだ。
 いつの時代でもどこの国の話でも、それは全てワクワクドキドキハラハラする物語ばかり。

 少し前から夢中で読んでいる歴史小説があって。
 今のところ、15巻まで刊行されている浅田次郎さんの「蒼穹の昴」シリーズ、と呼ばれる中国の歴史ドラマだ。

 初めの4巻「蒼穹の昴」については以前に感想文を書いた。
 

 実はこの後、この小説世界に飲み込まれてしまった。

 続編の「珍妃の井戸」(これは1冊のみ)を読んだあと、さらにその次の「中原の虹」4巻と「マンチュリアン・レポート」(これも1冊のみ)を買い込み、首や肩の凝りに悩まされつつも読み終わった。
(白状するとこのまた続編の「天子蒙塵」全4巻も購入、しばらくは積んでいたのだけれど我慢できずに読んでしまいました。全部で14巻…肩バキバキ…)
 
 以前にも書いたが、私は中国史には興味はあるのだけれど少なからず苦手意識があった。
 あの、あまり見たことのない漢字が並ぶ人名や地名には馴染めないし、それぞれの地域の情勢が複雑でややこしくて、学校の歴史の時間で習った(はずの)知識ではとても追いつけない。
 特に近代史は、学校での授業は時間が足りないのかいつもバタバタと進んでしまい、結局よくわからないままになっているところがたくさんある。
 
 そして、今、私が夢中になっている小説、浅田次郎さんの「蒼穹の昴」シリーズは、あろうことか清代末期から第一次大戦、日中戦争、第二次大戦まで続く、まさに中国の近代史そのものが舞台だ。
 
 うーん。
 よりにもよって私の一番苦手な時代。
 登場人物がどんどん増えて、それによって、当然だが名前がどんどん増えて(しかもどれも読み方が覚えられないので頭の中で勝手に音読み。それでも無理な場合は字面で覚えているという)、その上、ときどき過去に遡って清代肇国時代の話まで出てきたりする。(この場面の人名にいたっては、音読みすら出来ない)

 ときどき頭を抱えてしまったりもしたのだけれど。

 でも見方を変えてみれば、この時代が苦手ということは、この時代のことをあまりよく知らないということ。
 歴史を先入観なく、物語として楽しむには絶好の状況じゃないか。
 しかも著者は、ドラマ作りの天才、浅田次郎さんだ。
 登場人物は虚実取り混ぜ、ファンタジーの要素も多分にあり、これは本当に、本当に遠大で壮大な物語だ。

 先に読んだ「蒼穹の昴」「珍妃の井戸」は、どちらかというと清王朝内の話がメイン。
 かの有名な西太后が権勢を奮う中、西欧諸国が虎視眈々と豊かな中華の文化と国土と財宝を狙い、それを阻止せんと日本の明治維新を成功例として見習いつつ何とか清国を立て直そうと奮闘する若き中華の志士たち、そこからの改革の失敗、そして、義和団というカルト集団なのか愛国集団なのか判然としない輩による暴動、それに口実にした各国列強の侵攻からのやりたい放題、もう清帝国の命運は風前の灯か、という辺りまで。
 
 そして続編「中原の虹」は、ほぼ死に体となりつつある清帝国を横目に、清王朝草創の地、長城の向こうの満州と呼ばれる地域で、この時勢の混乱に乗じて力をつけて成り上がってきた、馬賊と呼ばれる人物たちに焦点が当てられている。

 馬賊とは元々、満州の地に点在していた村が治安の悪化に伴って(とにかく中央政府がボロボロなので)増加する野盗から村を守るために作った自衛団が発祥だ。
 それぞれの集団のリーダーたちがお互いに協力したり反発したり、どんどん淘汰、あるいは統合されていき、やがて大きな集団となった。
 
 馬賊たちは皆、欧米やロシア由来の銃で武装して、満州の野山を逞しい馬で駆け巡る。しかし、奇妙なことに彼らの多くは元々この地の住民であった満州民族ではなく、ほとんどが食い詰めて、地の果てまで流れてきた漢民族なのだ。
 かつて馬を駆り広大な満州の大地を疾走した愛新覚羅の勇者の子孫たちは父祖の血を忘れ、中原と呼ばれる中華の真ん中の都でもう数百年も贅沢な暮らしに明け暮れてきた。
 一方で、その暮らしを踏襲したのが被征服民である漢民族というのは、時代の神の悪戯、とでも言おうか。

 そして、その馬賊集団の頂点に立ったのが張作霖。(この名前、学校の授業でちょっとだけ聞いたことがないだろうか)
 出自ははっきりしないが、遼東半島の根元あたりの村で生まれ、継父と揉めた挙句に家を飛び出し、あちこちを転々としていたという。
 彼はいろいろ、本当にとんでもない。
 人を殺すことなど何とも思っていないし、無教養で傍若無人で自分勝手で、めちゃくちゃだ。
 しかし、その行動には彼なりの美学?拘り?があるようで、そこにはブレがない。
 それが余人を引きつけてやまない、らしい。

 彼の束ねる馬賊集団はどんどん力をつけて、もはや軍隊と呼んでも遜色ないまでになった。満州は、その軍隊が統治する独立国家のようになり、中央政府もそのように遇するようになる、のだが。

 歴史に興味がおありの方々は、この後の顛末はよく知っておられると思う。
 かつて、満州の地から長城を越えて中華の中央、中原に向かった清王朝の祖と同じように、満州の王、張作霖は都を目指し、中原の虹を掴むのか。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 歴史小説はあくまでフィクションだ。
 その題材を歴史的事実から取っているとはいえ、それだけでは物語は成立しないから、そこに著者が想像力を働かせる余地がある。
 なので、歴史小説を全てそれが現実だと受け止めるとさまざまな弊害がある、と言う人もいる。
 坂本竜馬の(一般の)歴史的評価が極端に高いのは、司馬遼太郎氏の作品のおかげであるのは否定できないだろう。そのせいで史実が大いに誤解されてきたという批判もあるようだ。
 確かにそういうこともあるかもしれない。
 
 そんなことを考えると、たくさんの資料を元に書かれた小説、ドラマ、さらにはいろんな視点で書かれたノンフィクション、などさまざまな目線に触れることが大事なのだろう。

 でもやはり、難しいことは置いといて、歴史という物語を存分に楽しみたい、とも思ったりする。あくまで小説だということを忘れずに。
 
 歴史上の人物は、かつて本当にこの世に実在していた。(当たり前だが)
 でも彼らに実際に会ったことがある人は、今はもう誰もいないだろう。
 
 西太后、李鴻章、袁世凱、張作霖、張学良、袁金鎧、馬占山……。
 まるで目の前にいるように生き生きとした彼らに私たちが会えるのは、フィクション、ノンフィクションを問わず、物語の中だけだ。

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以前にも書きましたが、こちらの記事がきっかけでこのシリーズを読むことができました。
千世さん、本当にありがとうございました。

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