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息をするように本を読む87〜上前淳一郎「やわらかなボール」〜

 この本との出会いについては以前にnoteに書いた。

 小学校時代の思い出話を投稿しようとして、少し調べていたらこの本に行き当たった。興味が湧いて早速入手して読むとこれがまたとても面白かったのだ。
 こういう、本との思いがけない縁には本当にワクワクする。

 
 この本が書かれたのはもう40年も前のこと。

 当時、著者の上前淳一郎氏は新聞社勤務を経てノンフィクションライターをしていた。
 1973年のある日、彼は取材旅行の途中でニューヨークからサンフランシスコへ向かう飛行機に乗りこんでいた。
 
 離陸する頃になって、いつもならバッグの中に1冊は入れている本を忘れたことに気づく。サンフランシスコまで5時間、眠くなるまでの間、読むものが何もない。
 前の座席の背につけられている袋に手を入れて、航空会社のパンフレットでもないかと探した。
 すると、底のほうから当月発行の英文の雑誌が出てきた。「ワールド・テニス」。
 テニスにはあまり興味はなかったが、暇つぶしにちょうどいいと思い、パラパラとページをめくった。
 と、ある署名記事の中に、見覚えのある名前を見つけた。
 清水善造とビル・チルデン。

 これを読んでいただいている方々の中で、小、中学校の国語か道徳の教科書で「フェアプレイの精神」とか「美しき球」とか「名選手のおもかげ」とか、そんなタイトルの話を読まれたことがある方はおられないだろうか。

 清水善造氏とチルデン氏は1920年代のテニスプレーヤー。
 2人は共に極めて優れた選手であり、ライバル同士だった。そして、日本では有名なエピソードの主人公でもあった。

 あるテニスの国際大会のファイナルをかけたゲームで2人は対決した。激しいラリーが続き、緊迫したゲームが続いた。
 その最中に、チルデン選手がコートの芝に足を取られよろめいた。ゲームを見守っていた観客たちは、これはチャンスだと思った。しかし、清水選手が返した球は打ちやすい優しい球だった。
 結果的にはゲームはチルデン選手の勝ちとなり、ファイナル出場を決めた。
 しかし、相手の弱みにつけ込まず正々堂々と戦った清水選手と、更にはお互い死力を尽くした2選手に観客たちは惜しみない拍手を送ってその健闘を讃えた、という。
 
 当然、上前淳一郎氏もこの話は知っていた。しかしこの日、彼が読んだ「ワールド・テニス」の記事は、どうもこの試合のことについて書かれているらしいのに件の「優しい球」については一切触れていなかった。
 
 この記事に書かれていたのは、当ゲームのネット審判を務めていたフォーテクスという人物についてだった。テニスの審判という自分の職業にたいそうな誇りを抱いていたフォーテクスが、その生涯において唯一の誤審、いや、偽審をこの清水vsチルデンの試合において行ったという告白の手紙を、自らの死を前にしてこの記事の筆者に送ってきたというのだ。
 
 この記事を読んだ上前氏は眠るどころではなくなった。
 これはとんでもなく劇的な内容じゃないか。あの伝説の試合、あれは実は偽審で、もしかしたら清水選手が勝っていたかもしれない、とは。
 これを取材して、日本人なら誰でも知っている件の美談と組み合わせたら素晴らしいドキュメントが書ける、と考えた。
 
 そんなプロローグからこの本は始まる。そしてこの後、この事件(?)について取材を重ねるうちに、上前氏はとんでもない事実に辿り着くことになるのだが。

 打って変わって、次の章からはテニス黎明期の日本とアメリカの話になる。
 
 テニスの発祥はフランス。
 それが15世紀頃にドーバー海峡を渡り、イギリスで盛んに行われるようになって、やがて近代スポーツの形を成したのは19世紀のこと。初回の全英選手権がウィンブルドンで行われたのは1877年だった。
 それと前後してアメリカに伝わったテニスはあっという間に広まり、各地で盛んにプレイされるようになる。
 第一回全米テニス男子選手権がウィンブルドンの向こうを張ってニューポートで開催されたのは1881年のこと。
 その後も次々と優秀なプレーヤーを輩出し、ヨーロッパの大会でもアメリカの選手が活躍するようになった。

 一方、日本にテニスがやってきたのは明治の半ば頃。
 海外(主に香港やインドなど)に駐在していた三井や三菱などの商社マンが日本へ持ち帰り、東京を中心に広まった。その後、筑波大学(当時の東京師範学校)や一橋大学(当時の東京高等商業学校)に庭球部ができたのを皮切りにどんどん盛んになっていく。

 このあたりからは、日本の清水善造選手や他の優秀なプレーヤーたちの足跡と、アメリカのチルデン選手の話が交代で語られていくので、時代が行ったり来たりして少し分かりにくいところもあった。(年表とかがあったらよかったかな)
 でも、それぞれの国のテニス黎明期に、どうやって優秀な選手が何人も育っていったかを比較しながら読むのはとても興味深かった。

 日本にはこの当時、清水選手の他にも熊谷一弥選手や柏尾誠一郎選手などの優秀な選手がいた。彼らが世界で活躍できたのは、もちろん本人たちの努力精進もあったのだが、会社員でもあった彼らに三井や三菱などの大企業が莫大な費用を出資してくれたからだ。
 もちろん企業側にも、彼らの名前を使って自社の宣伝広報に役立てる思惑はあっただろうが、それにしても出張にかこつけての国際大会への出場手配といい、それに伴う費用への特別報償といい、今ではちょっと考えられない大盤振る舞いだ。
 日本経済がイケイケドンドンだったということもあるが、当時の大企業はとんでもなく太っ腹だったということだ。それがその頃のスポーツ振興に大きな役割を果たし、今の日本スポーツ界の礎を築いたのだろう。

 本を読むことは私には特別のことではない。生活の一部であり、呼吸することと同じことだ。

 さて、気になるのは上前氏が取材の末にたどり着いた、本人でさえも予想していなかったとんでもない事実、の話。
 
 まず、彼が飛行機の中で読んだテニス審判の記事については相当にどんでん返し的な結末となった。
 さらに、例の美談、と呼ばれる逸話についても、なかなかに興味深いことがわかった。
 これから本作を読まれる方々のために詳細は書かないほうがいいだろうと思われる。
 
 ただ、この美談の元ネタが清水選手の同郷人によって書かれた記事であり、それも本人が実際に試合を見たわけでなく又聞きの又聞き、くらいであったこと、そして、戦前戦中戦後と語り伝えられていくうちに、かなりの変遷(?)を経ていること、等等。
 と、このくらいにしておこう。
 
 そして、清水選手もチルデン選手も共に不世出のテニスプレーヤー、スポーツマンだった、それだけは間違いない、と明言しておかなければなるまい。

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