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「気をつけて」といわれても。
今朝は2回、大きく揺れた。感じられないだけで、たくさん揺れている。時々Yahoo地震速報で確認している。
ここは梅田まで歩いて20分。大阪の北区にいる。ガスと電気は大丈夫。念のための食べ物・・・非常食に何がいいかを検索したら、レトルトのおかゆとあった。スーパーにいくと、キレイにそこだけなくなっていた。みんな考えることは一緒だ。奥に最後の3つを発見。店員さんに脚立で取ってもらった。水も劇的に売れていた。
持ち出すリュックをつくった。そこには通帳や大事なもの。サバイバル用のキャンプリュックには寝袋や水や避難所用。重いけどまあしょうがない。可愛いからという理由で、部屋で靴を履いているが、これもこういう時は便利。そのま外へ飛び出せる。
そんな風に粛々と用意しながらいつも通りに過ごす。
地震直後、思いつきでフェイスブックに状況報告の短い文章をアップしたのは正解だった。
離れている友人知人たちからの直メッセージがそこに集約されたからだ。
ただの報告気分だったけれど、こういう利点があるのは覚えておこうと思う。
そして、いろんな人がいろんなこという。
正常バイアスでたいしたことないと思う機能があるから、怖がるくらいでいいんだよ、とか揺り戻しがあるからね、とか。どっちも役に立つし、その判断さえも自分で取捨選択ができる。
でも「気をつけて」という言葉だけは、どうにも取捨選択しにくい。
そして一番多い。
一体何にどうやって気をつけたらいいんだろう。気をつけたいのはやまやまだが、地震が起きるのはいつかわからない。
寝てるときかもしれないし、自転車に乗っているときかもしれない。お風呂に入っているときかもしれないのだ。どうしようもない。
いま、やわらかく建物が揺れているのを感じている。
「気をつけて」この言葉を知らず知らずに受け取っていたことに今日気づいたのは、気心のしれた友人数名から、「気をつけて」という言葉のないメッセージをもらったからだ。
また揺れてる。
緊張と不安。「一週間以内に、同じ規模の地震がくるかも」という情報と文字。たった一日その情報で、こんなにもわたしは不安になれる。いま、なんの問題もないのにたくさん問題つくれる。問題づくりの天才になっている。
別に被災しているわけではない。ライフラインに困ってもない。
でも不安だし、こわい。わんわん一人で泣いては、ハッといまに戻ることを今朝から2回している。なんだろう、この違和感は。
「もっと困ってる人もいる」「亡くなった人もいるのに」それに比べたらわたしはましだ。こわいとか不安とか泣きたい、甘えてる。
そんな風に反応的に比較しているこころの動きにやっと気がついた。
こういった比較は馴染みがある。そして自分を痛める行為だ。3.11で散々やったのに、またやっている。知らず知らずに人にどう思われるかをとても気にしていることを、こういう形でまたも突きつけられたように思う。自分で自分に。
こわいものはこわい。不安なものは不安だ。涙がでるのも自然なことだ。
どこでまたあの揺れに遭遇しても、家に帰れるように「気をつけて」今日も生きる。わたしはいま、不安だし緊張している。それでいい。ここから今日が始まることをわたしは許す。
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