甘い痛みの記憶
近くにきたらサイレンを止めてもらえますか?と言ったら「それはできません」と断られた。
融通きかない。
でもかまわない。
お願い、早くきて。
それは決まって生理の初日だった。
まだ薄暗い夜明け前、目が覚める。
ああ、まずいな。これはまずいやつだ。
観念すればいいものを、わたしはささやかな抵抗を始める。
すぐに薬を飲み、気休めに足湯をする。
良くなるどころか刻一刻と症状は悪化する。
そのうちに我慢できずに、トイレで吐く。
人はあまりの痛みで吐くことをこの時初めて知る。
薄暗い部屋に一人。痛みが体を通り越して壁に天井にこだまする。わたしは無力だ。
誰か。
誰か。
たすけて。
スマホに119と打つ。でも最後のCALLが押せない。
呼ばなくても済むならそうしたい。なんとかなる。まだ大丈夫。そうして番号を消す。
これが毎回決まって、痛みをさらに加速させる。
1分もたたないうちに、今度は迷わず119にかけることになる。そしてサイレンを鳴らさずに来てほしいという望みは、あっさりと却下されるのだった。
でもそんなのどうでもいい。誰かがわたしを目指してやってくる。もうすぐドアをノックする。わたしは息も絶え絶えに這いずりながら、ドアのロックを外しにいく。
そして到着までの10分間、生き生きと広がる痛みの奴隷に成り下がるのだ。
子宮の伸縮と痛みが連動し、無痛と激痛を行ったり来たりするのがわかる。よし、いまだ、と楽になった瞬間を狙って財布と保険証をバッグにセットする。そしてまた、のたうち回る。
出産ってこんな感じなのだろうか。
汗でびっしょりになりながら思考する。
出産ならいいよ、出産ならね。
でも、ここまで痛い思いをしてるのに何も生まれない。割があわなさすぎる。
わたし、いま何をしているんだろう?
そうして遠くからサイレンを音が耳に届いた瞬間、初めて痛みが和らぐのだ。
担架で降ろしてもらい、救急車の天井を眺める。名前やあれこれ答えるうちに、いつのまにか痛みは半分になっている。
あ。これ、もう大丈夫なパターンだ。
でも言い出せないまま、自宅からはるか離れた知らない病院に毎回きちんと搬送された。そして病院についた頃には、痛みはほぼひいていた。それを言い出せないまま点滴を受けたり寝かされる。
医師の診察をうける。毎回結果は問題なし。
そんな風に規則正しく、秋になると救急車を自分で呼んでいた。
思えばそんなことを3年も繰り返していたのだ。
今ならもうちょっと日々の生活なんとかしろよ、と思う。でもその頃の私にはそんな発想はなかった。この体験でさえ問題とは感じていなかった。治ったらそれでOK。全部そうして済ませていたのだ。
自分の感情にも、体にも、心にも無感覚で生きていたことにさえ気づいていなかったのだから、改善なんてできるわけがない。
そういえば、最近救急車呼ばなくなったな。
ふと気づいた頃には全てが終わっていた。
仕事も、男とも、住むところも変わっていた。
いま自分が何を感じていて、どこにいるのかさえもわからず、まるで溺れるように、ただ沈まないようにと必死で犬かきをしながら笑っていたあの頃を思うと、胸の重力がブン、と増す。
感覚全てを閉ざしていたわたしの鉄壁を軽々と飛び越えて、その痛みは規則正しく訪れた。
後悔はない。自分を憐れむこともない。
ただ、あの壮絶な痛みを甘く美しく感じる自分がいる。
痛みが生きている証しだと無意識に信じていた時代。
痛みの中でだけ、生き生きと自分を生きていた時代。
痛みに生きる自分を恥ずかしいとさげすみながらも、いとおしく抱きしめ、大切にしてきたわたしの生き方。
それが凝縮して現れたのが、あの日の夜明けだったのかもしれない。
心の痛みも喜びも体を通して現れる。
世界の誰もに見えるように表現をしたいと望んでいる。
あの日の痛みを感じきった自分を、いま少しだけ誇りに思う。
なぜならわたしは、それを感じたかったのだから。
感じきって生き延びた自分を、いまとても誇りに思う。
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