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自分を構成する3つのこと

昨日、録画しておいたNHKの番組「追悼 高田賢三~純粋に服を愛し 純粋に人を愛した~」を観た。

視覚に入った、たったひとつの情報に心が動き、上京する。

上京したあとのエピソード。

またひとつの転機でパリへ。

その後の、若さ溢れるバイタリティーと挑戦の数々、

デザイナーとしての頂点と、「ブランド経営」という視点での挫折や喪失。

私の世代で、物心ついた時にはすでに「KENZO」は”中高年の方が好むブランド”というようなイメージだった。

タオルや、マフラーがまあまあそこそこの値段でよく売られていて、デパートの1回の小物売り場で目にする、といったイメージで、深く考えたことも調べたこともない。

けれど、私は、「KENZO」の商品を自分自身で購入したことがある。

ただ、新品ではなく、池袋の骨董品屋で見つけた花柄のバッグ。

普段から古着やアンティーク、ヴィンテージ、新品、こだわらずに、「素敵!」と思ったものを自分の価値観で購入するタイプなので、その時も「KENZO」を意識することは無かった。

他には無い色の組み合わせの花柄だったので、あまりに素敵で、今も大切に使っている。

そんな日々の中、飛び込んできた「高田賢三 コロナウイルスで死去」のニュース。

そしてそのニュースの中で、今ブランド「KENZO」は、高田賢三さんのものではないということを知る。

驚いた。

最近、パリのご自宅がテレビで放映されているのを見て、齢を重ねても美しいものを探求している姿と、細部へのこだわり方に感銘を受けたばかりでもある。

そして何より、

自分で立ち上げて、自分の名前が冠になっているブランドなのに、「手放している」というのは一体どういうことなのだろうか。

その事が胸の中に残ったまま、追悼番組を観た。

合点がいった。

芸術とビジネス、自分の感情のバランス、そんなもの丸く収まる訳がないのだ。その部分の高田さんの感情について、本人からのお言葉は収録されていなかったので、憶測でしかないけれど、私には到底計り知れない大きな葛藤があったのだろう。

その渦から、いっそ抜け出る。

それもまた、賢三さんしかできない英断だったのかもしれない。

自分が、物心ついた頃に抱いた、ブランド「KENZO」のイメージは、もしかするとこの頃、市場に出回ったものから受けたイメージだったのではないか。

なにか、高田賢三さんに、とても失礼な気がしてならなかった。この番組を観てからは「失礼」というか、自分が「浅はか」だったかのような気さえしてくる。

高田賢三さんの盟友たちが声をそろえて言う。

「ケンちゃんは純粋」

賢三さんは、享年81歳。

81歳の際のお姿も、とってもダンディーで素敵。

けれども、葬儀の際の遺影が、若いころの写真だった。

ご自身の中で、最も素敵な1枚だったのだろうか。

それとも、人生の中で一番輝きを放っていて、天国に行くときはこの姿で・・という思いが込められているのだろうか。

実は、僭越ながら、私も、自身が送り出されるときには

人生で1番最高の瞬間の写真を使いたい、と考えている。

死ぬ間際まで、その「人生最高の瞬間」はいつなのか、分からない。

賢三さんは、無くなる直前も、インテリアの分野に挑戦し始めたばかり。

「80歳超えても、仕事って楽しいよ」と語っていた。

番組冒頭、こんな自己紹介のシーンがあった。

「1939年2月27日生まれ 高田賢三 職業は ”デザイナー” です」

生年月日、名前、職業。

その3つが自分を構成していること。

その3つで自分を表現できること。

その3つで、誰しもが世界を渡り歩ける可能性がある、ということ。

大きなものを得た1時間だった。

賢三さん自身が振り返る、「高田賢三」をもっと知りたくて、自伝を読んでみることにした。

そして、賢三さんが心から楽しんで製作していた頃の洋服を、1着でも良いから、私のハレの日に着てみたいな。


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