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方向転換

神はあなたがたに、あらゆる恵みをあふれるばかりに与えることがおできになります。

聖書 コリント人への手紙第Ⅱ 9章8節


1.御言葉から思ったこと

この御言葉みことば(聖書のことば)は

コリントの教会へあてた

使徒パウロの手紙の一説であり、

奉仕について書かれた章です。


ですがこの御言葉を詠んで、

神様が良いお方であることと、

自分の身勝手さが明らかにされました。


というのも、最近

神様に立ち返る機会をください、

この頭の考え事をどうにかしてください

と自分勝手に祈るくせに、神様に期待せず、

何もしない日々が続いたからです。


神様は遠隔操作で私を動かさないので、

「祈ったら自分は何もしなくてOK♩」

ではありません。


それでも、

頭の中でぐるぐると考えてばかりで

動かなかったのは、

神様に対して、やはり心の奥底で

次のようなイメージがあったからでしょう。

神様は私にあまり関心がないんだ

どうせ祈っても聞かれない

罪を犯したら怒られる

このような、

神様に対する勝手なイメージを信じる。

それは明確な私の罪です。

疑問に思うなら神様に聞けばいいから。

私は神様が悪いと決めつけ、

自分が行動しない理由にしていたと

気付かされました。


2.聖書にでてくる、神様を疑った人

さて、聖書には神様を疑った人がでてきます。

それは、エバという女の人です。

エバは神様によって作られ、

夫アダムとともに

神様と一緒に生活していました。

エバは、アダムから聞いた神様の約束

――即ち、いのちの木から

実を取って食べてはならないという約束を、

悪魔*のささやきにより破ってしまいます。

さて蛇*は、神である主が造られた野の生き物のうちで、ほかのどれよりも賢かった。蛇は女に言いった。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」

2 女は蛇に言った。「私たちは園の木の実を食べてもよいのです。

3 しかし園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを取って食べてはならない。それに触れてもいけない。あなたがたが死ぬといけないからだ』と、神は仰せられました。」

4 すると、蛇は女に言った、「あなたがたは決っして死にません。

5 それを食たべるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者となることを、神は知っているのです。」

6 そこで、女が見ると、その木は食べるに良さそうで、目に慕わしく、またその木は賢くしてくれそうで好ましかった。それで、女はその実を取って食べ、ともにいた夫にも与えたので、夫も食べた。

7 こうして、ふたりの目が開かれ、自分たちが裸であることを知った。そこで彼らは、いちじくの葉をつづり合わせて、自分たちのために腰の覆いを作った。

聖書 創世記3章1-7節

エバは悪魔のささやきにより、

神様イメージが悪くなったのでしょうか。

”触れてはいけない”とは言われていません(創2:16-17)。

食べる前に神様に聞かなかったのはなぜでしょうか。


3.神様を疑う人に対して神様が何をしたか

私もエバも、ともに神様に対して

疑いを持ったのかもしれません。

神様を疑う私たちに対し、神様がとった手段。

それは、神の一人子イエス・キリストが

すべての人の罪、

即ち、

疑いや恐れ、偶像礼拝、敵意、

憤り、争いなどの元となる性質を

すべて背負い、

十字架で死に3日目によみがえり、

これを信じる者に、

罪とは無縁の永遠のいのちを

与えることでした。

神様を疑い、

争い嘘をつくような

罪人を、愛するがゆえに。

一人の人のいのち。

これは、あり得ないほど高い、

一方的な神様からのプレゼントです。


ですから、

何か神様への疑問があったり、

恐れたりする時、

「頑張って神様に立ち返らなきゃ」

と思い過ぎなくても

良いのではないかと思います。

むしろ、

一人子イエス・キリストを与えるほど

私たちを愛し

信じる者に永遠のいのちを与え、

罪から自由にしてくださった、

そんな神様の偉大な愛に

目を向けてみてはどうでしょうか。


偉大な神様の愛に信頼するからこそ、

私たちは安心して、

神様のもとに立ち返れるのだと思います。


4.最後に

ある詩をご紹介したいと思います。

この詩はニューヨークにある

リハビリテーション研究所の受付にあり、

ある患者が書き残したとも言われています。

成功したいと思い、 強さを与えてくださいと神に願った。しかし、私は弱くされた。

それはへりくだって従うことを学ぶためだった。

何か大きなことをし、成し遂げたいと思い、

健康にしてくださいと神に願った。

しかし、私には病弱な体が与えられた。 それはもっと良いことをするためだった。

幸せになりたいと思い、富をくださいと神に願った。

しかし、私は貧しくされた。それは賢さを得るためだった。

称賛を得たいと思い、権力を与えてくださいと神に願った。

しかし、私には無力さが与えられた。

それは自分には神が必要であることを知るためだった。

人生を楽しみたいと思い、あらゆるものを 与えてくださいと神に願った。

しかし、私には命が与えられた。 それは、あらゆることを楽しむためだった。


私が神に願ったものは何一つ与えられなかった。

しかし、望んでいたものはすべて与えられた。


全く思いもかけず、言葉にならなかった数々の祈りがこたえられていた。

私は誰よりも豊かに祝福されているのだ。

「悩み苦しむ者のための告白」(Prayers~詩と祈り~, いのちのことば社オリーブス)


受けるに値しないものが受け取ることを、

キリスト教では「恵み」と言います。

神様を疑う私のためにも、

主イエス・キリストは十字架にかかり、

復活されました。


自分たちの行いや、傷、頑張ること以上に、

今与えらえている神様からの恵みに、

私たちがなお気づくことができますように。

そして神様からの愛に信頼して、

立ち返ることができますように。



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