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”私”を生きていて

私という人間を生きていて一番辛いのは誰でもない私だ。
こんなことを言うのは自分でもどうかと思うが、誰だってそうじゃないのか。

疲れて、人と話したくなくて、とりあえず寝て、とりあえず愛想良く話して、最後の1杯だったカルピスをこぼして、タッパーを落として玄関まで飛んでいって、一応拾って。
そんな日でも心を確かに強く持っている日は、疲れなんて何も感じないし、明日が楽しみだし、もっとたくさん人と話したいし。
カルピスがこぼれたって、拭く時にちょうどキッチンもきれいに掃除できるじゃんと前向きになれる。
タッパーが飛んでいっても笑えただろう。

よく考え込んでしまう癖を自分自身で一番良く知っているからこそ、病みたくない、病むのにすら体力を使いたくない、勿体無いと思い、無理矢理にでも違うことをする。それでもダメな時は寝る。明日になって、朝日を浴びたら、ちょっとは楽になっているかもしれないという期待を込めて。
何も感じずに朝の身支度をしていたが、最近は体か心か、だるさを抱えたままの状況が続いている。だからと言って学校に行かなかったら余計必要のないことまで考えてしまって辛いから、無心で準備をする。学校についてしまえば、ある程度は大丈夫。友達と話していれば、授業を受けてれいばいつの間にか1日が終わっている。
いろいろ考えてはいるけれど、考えることにも疲れて、どうすればいいかわからなくなる時もある。唯一、こうやって文章を書いているときは本当に心が楽だ。自分の頭の中を整理することもできるし、自分だけの空間で、自分の気持ちだけに集中できる。


でも、私を生きていていちばん幸せなのも私だ。
周りからはわからない幸せを心の中でそっと感じていることも多々ある。
大きな幸せももちろん嬉しいけれど、私は小さな日常の幸せこそ、心を、私という人を支えてくれる肥料になっていると思う。猫を見て可愛いと心が喜んだり、ご飯が美味しかったり、晴れていたり、きれいな月が見れたり、大切な人と話せたり。
そういう心がほかほかするようなものを見落としたくない。

タッパーが落ちて腹が立つ日も泣きたくなる日も拾わない日があったっていい。大事なのは、拾わない日を生きて、明日か明後日か、来週か来月かに笑って拾える日が来ることを信じておくことだ。


10/23

お昼に起きてウーバーした日のモス🍔🥤


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