風の谷のナウシカから人類としての私を考える
今思ってみれば、私が生きていることや社会に出ることに疑問を感じ始めたのは大学受験が終わった夏休み風の谷のナウシカを読んだ時からかもしれない。
私は大学には高校を卒業して半年のギャップイヤーを経て入学したので、夏休みは誰と遊ぶでもなく、実家で引越しの準備と勉強に追われていた。時間はあったので、風の谷のナウシカの原作漫画を某通販サイトで安く買って、読むことに夢中になっていた。
風の谷のナウシカといえば、映画が有名だが、原作は漫画である。映画以上に多い情報量を処理しながら、宮崎駿の素晴らしい作画を楽しむ脳みそフル回転漫画と思っている。ストーリーは映画と漫画で大きく違う。映画では、少女ナウシカがいかにして風の谷の民を救ってトルメキア、ペジテの民との融和を築くかという勧善懲悪美少女ヒーロー映画だが、漫画は戦争漫画だ。映画はかなりファンタジーだが、漫画はリアリスティックでいかに世界が複雑で、常に次の波が準備をしていることを思い知らせてくれる。
全七巻。読み終わって思った感想は「生きてる意味ってなんなのだ?」だった。無事大学に受かり、更なる学びへのモチベーションを探していた私の心にこの質問は大きくのしかかってきた。
なんで私は生きているんだ?
まず、私はそれまでに私がどこかのコミュニティーに属して生きているという自覚が全くなかった。日本で生まれて日本で育ったが、日本人として生きる義務はないだろうと思っていたし、家族に対しても家族だからどうしなきゃいけないとかそういうしがらみが鬱陶しかった。言ってみればものすごい個人主義だったと思うのだ。他人が自分の人生に干渉してくると、気にかけすぎてしまう、気にしすぎてしまうのでできれば自分1人で決めて行動したいと思っていたのだと思う。しかし、自分が自分のために生きていると考えるのは時に苦しく、自分を責める。それに、私が生まれたのは1人でに生まれたのではない。親がいて、生まれてきた。
この世に生を受けた以上、何か役割があるのではないか、と風の谷のナウシカを読んで思った。
それなら、その役割とは何か?
一番に思い浮かんだのは、自然とともに生きることだった。
確かに、夏は冷たいクーラー、冬は暖かいストーブの着いた部屋でスーパーで買ったお菓子をむしゃむしゃ食べる人生もいいかもしれない。それでも私は知っている。
それが一生続くことはないということを。
こうして文章を書いているのだって、自然を少なからず壊している電気を使っているのだから、ダラダラとyoutubeをみ続けることなんてしないで地球上の一部の動物として食べて寝て狩猟して農耕をする方がはるかにエコなのである。
文明とは果たして善なのか?
私は生を受けた意味を全うできるような人生を歩んできただろうか?
その瞬間、金を稼ぐために大学に行こうとしていた自分に嫌気が差した。良い大学、良い会社、良い給料、そんなことを夢に見ていた。悪夢だったということに気がついた。誰のためになるかわからない生活をして人生を棒に振ろうとしていたのだ。
あれから五年経った。問を続けて、自分の納得するような答えを見つけようともがいている。
紆余曲折したおかげで、文明にも人類にも意味があるということがわかった。人類が体の進化ではなく、種をそのままに広い地域に生息できるような柔軟な脳みそを手に入れたことで、私たちは内省し、文化、社会、文明を築いてきたのだ。頭脳が人類の強みだとしたら、知識を広げ、思考を深めることが地球、宇宙に生を受けた個としての役割、責任なのかもしれない。
なんとなく進むべき道がわかってきたようだ。しかし、まだその答えを探して一歩が踏み出せないでいる。このままだと、なんとなくで生きてしまう。なんとなくで生きると、雑念に心を揺さぶられるので良くない。思っていることがあるのならそこに静かに鎮座して、自分のやるべきことを静かにこなせる人にならなければなるまい。それがわかっているのできていない今。毎日、悔しいじゃないか。今こそ、五年も続けている生きていることへの逃避をやめるべきだ。
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