見出し画像

父と子のクリティカルアナリシスVol.1

うちの父はもともとエンジニアで、インターネットが普及し始めた頃からバリバリに勉強し、働いている。私が小さい頃から、周りの誰よりも早く、携帯や、ミニパソコンを持ち歩いていた。私は小さいことからミニ型パソコンが好きで、好きがあれば父の仕事用のカバンを除いては、おもちゃのような見た目の機械に並んでいる見にくい文字を眺めていたのを覚えている。
iphone(多分初代ではなかったと思う…でも新型が出た時)が発売された時も、いち早く飛びついて、使いこなしていた。当時中学生だった私はガラケーが画面だけの薄ぺら機械に取って代わられることがあるものかと横目で見ていた。数年後には私もiphoneを使っていた。
とにかく、うちの父は新しいもの好きで、何かあれば父に相談するといつの間にか解決していることがある。発信することが好きな父は、私が文章を書いたり絵を描いたりするのをいつも応援してくれていた。父曰く、「今のうちに自分の考えを書き残しておいたほうがいいよ。後になって、若い頃の考えに気づかされることもあるよ。」とのことだ。父の前では「フン、そんなのわかってるよはいはい。」なんて言ってしまうが、怠け者の私がちゃんと書き貯めることを始めたのだから父の力は偉大だ。

さて、今回は、父がお勧めしてきた父自身が書いた文章を娘である私が考察してみる。

取り上げるのは「シニアのためのスマホ超入門講座:第1回 ネット社会はどのようにして出来たのか」

第1回とあるように、父はネット関連の記事を自分なりにシリーズ化して連載している。ターゲットはスマホやネットを活用することを諦めかけているシニア世代だ。父自身、シニア世代に突入して、働きながら町内の活性化のためにオンライン化を推進しているのだ。我が父ながらものすごいエネルギー…。それでは、始めよう。
元の記事が気になる方は以下のリンクからどうぞ。

記事の要約:ネット社会の過去と現在

歴史
ネットといえば、いろいろな用途が今でこそあるが、父の記事によると、庶民的なものとしてまず最初に普及したのは電話だそうだ。父の幼少期に初めて登場した電話はダイル式黒電話。それから5年くらいで電話はかなり普及し、一般家庭でも買える値段で家電量販店で売られるようになった。今でこそ、電話と言うとスタイリッシュなシルバーや清潔感のある白といったようなシンプルな電話が多いが、一般的に出回るようになった時にはかなりカラフルなものだったようである。

名称未設定のデザイン

その後、持ち運びができる無線の電話ができる。持ち運びができると言っても弁当箱ほどの大きさがあったそうなので、携帯電話用にもう一つバックを持たなければならなかったであろう。その弁当箱が手のひらサイズになってPHS(パーソナルハンディホーン)という携帯に進化し、俗に言うガラケーが誕生。そしてスマートフォンの発売と現在まできている。

名称未設定のデザイン のコピー

昔は地域に一台での電話の共有ですら発明であったのに、今では1人何台も通信機器を持っているのだからテクノロジーの発展は驚くほどに早い。インターネットがない時代を経験したことのない私にとっては信じがたい事実である。

インターネットと現代
父によると、今は第4次産業革命と呼ばれる時期に差し掛かっているそうだ。(第一次産業革命:18世紀蒸気機関の発明、第二次産業革命:電力と大量生産、第三次産業革命:ネットやパソコンの発明と普及)父に言わせると、第4次革命は「すべてのものがネットにつながる時代」。ネットを使うことによりいろいろなことが効率化できるようになり、エネルギーも最小限で済むようになった。便利だが、なんだか恐ろしいような気がする。父はこの記事をこんな言葉で締めくくっている。

「このデジタル化の波は止めようがありません。この人類が作り上げたテクノロジーは人を幸せにするために考え出されたものだと理解しています。」

テクノロジーを作り上げてきた、インターネット大好き人間のように見える父でさえ、この文章をみると楽観的ではいられない、何か警告のようなニュアンスを感じる。

考察:「ネットがない時代を経験した人にとってのネット」と「ネットから逃れられない時代に生きている人にとってのネット」

私が父の記事を読んで思ったのは、主に2つある。
・インターネットの歴史の浅さ:インターネットは信号のない高速道路
・ネットがない時代を経験したことのない若者としての本音

まず、父の文章を見て思ったのは、インターネットの歴史の浅さである。私たちが日常でよく使っている検索機能などはンターネットの歴史の中でいえば、つい最近のことだ。ほとんどのサービスが私よりも若く、まだ試作段階というツールも多いだろう。しかし、この世界のほとんどの人がそのシステム上で生活をしているのだとしたら少し怖い。インターネットカオスとマインドの同一化で述べたように、インターネットの世界は信号がない高速道路のようなものだ。使う人も走る道もある。でも、その流れをうまく制御する交通整備がなされていない。なのでどこかでクラッシュが起きればその部分から情報が漏れてしまったり、大事な情報が跡形もなくなってしまうことだってある。クラッシュが起きないように信号を整備する、つまりある程度の規制を儲けることは必要だし、大切な情報を守るためのセキュリティーツールももっと普及すべきだ。
それから、スピード違反やあおり運転の取り締まりも必要だ。私はインターネットという高速道路でのスピード違反やあおり運転に当たるものは誹謗中傷だと思っている。最近、よく誹謗中傷からの心の傷について話題になるが、話題にするだけではダメだ。嫌な気持ちになる人もいるかもしれないが、厳しく言うと、誹謗中傷は殺人と同じだと思う。なんの根拠もなく人を攻撃したりすることがリアルの世界であったら無差別テロと同じだ。
これほどまでにネットの世界で生きることを選んでしまったのなら、未熟な道路を乗りこなすスキルをつけるだけでなく、それを取り締まる警察のような仕事がもっと前面に出てきてもいいのかもしれない。

ネットがない時代を経験したことのない若者の1人として意見を言わせてもらうと、実はネットがなかった時代が羨ましい。一日中パソコンの画面の前に座って何でもできるが、ネットがないとどことなく不安で外に出かけるにもwifiのある場所を無意識に探してしまう。できることなら、何も考えずに自然を楽しんだり、インスタ映えとか考えずに自分の目で世界を見て楽しみたいと漠然と思うときがある。
インターネットがあるのだから会わなくていいや、と思っていた友達と急に疎遠になったりすると、ネットの繋がりのもろさを確認したりする。人と人はやはり直接会って関係性が成長していくのだとやはり思うのだ。
もちろんインターネットやデジタル化を否定しているわけではない。インターネットがあることで、私たちの時間は長くなり、1日に膨大な仕事を越すこともできる。オフラインでは絶対に会えないような人数の人々と毎日会話することができる。素晴らしいことだ。しかし、そうじゃない世界を経験してみたいな、とも心のどこかで思うのだ。直接会って、話して、触れて、そうやって自分の世界を構築してみたい、と。

終わりに

いかがだったでしょうか?約40歳年が離れている父と私。そうとは思えない記事の書き方がさすがは父だな、と思う。私も父くらいの年齢になった時に、こうして文章を書き続けていればいいなあとぼんやりと思う。
ちなみに、将来の夢は、父の書き溜めているブログをまとめて本にすること。インターネットに保存している父の考えを私はアナログで読みたいというジェネレーション錯誤。叶うといいなあ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?