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彼女の死をうけて。

この記事は、私個人の考えによるものです。
私個人の考え方であり、私がリサーチした情報を元に記事を執筆していますが、すべてが必ずしも正しい情報とは限らないかもしれません。
その場合は随時、加筆修正をしていきます。
そして、彼女が亡くなった原因や、誰が悪いのか、何が悪いのか、どこに責任があるのか、といったことを言及、追及するつもりもありません。
とにかく、この記事は『私個人の感情、考え』をまとめるものであるということをおさえてくだされば、と思います。


はじめに


プロレスラーの木村花さんが亡くなった。
享年22歳、早すぎる死だった。
死因は、ご遺族の意向もあって発表されていないが、おそらく自死であろうと推測されている。
今回の件は、本当にかなしく、悔しく、それ以外の感情が見当たらない。
彼女の死から、もう一週間以上が経った。(これを書き始めたのはちょうど彼女が亡くなって一週間の日だった)
彼女が亡くなって以来、私は、気づけば彼女のことを考え、悔しくなり、虚しさをおぼえ、涙を流し、途方に暮れる時間が多くなった。
直接会ったわけでも、友だちでもないのに、ずっと考えていた。
私自身、婚約者を自死で亡くしており、その当時の状況を今でも鮮明に覚えている。
私自身とても驚いたのだが、今回の彼女の死をうけて、婚約者を亡くした当時の色々な感情や記憶がフラッシュバックし、私の日常生活にも多少の影響を及ぼしている。

ここでお伝えしておきたいのは、私は誰かに訴えたいわけではないし、誰が何が悪いのかを言及したり、追及したりしたいわけでもない
ただ、私自身が、今考えていることを文章にしないと、このなんとも言えない感情と、崩れかけている私の生活リズムに歯止めが利かなくなりそうなので、記しておきたい。記すことで、多少は昇華できるような気がするから。
それだけのことだ。
なので、私個人の感情であったり、個人の考えが入ってくるので、無理に読まなくても大丈夫です。

私について

まずは、彼女や『テラスハウス』と私自身の距離についてお話しておく。
説明しておかないと『テラハを観ていなかったのか』とか『彼女の何を知っているんだ』という意見があるかもしれないので。
(必要ない、興味ない方もいると思いますが、念のためです)

彼女が出演していた『テラスハウス』以外にも、私は一番最初のシリーズから全て観ていた。単なる一視聴者であり、テラハのファンであり、毎週普通に楽しく観ていた。
そしてもちろん、メンバーが喧嘩したり、何かアクシデントが起きて険悪なムードになってしまったときは、ハラハラしたり、え、このまま卒業しちゃうのかな?仲直りできるかな?と当事者でもないのに心配したりもした。
メンバー同士が恋仲になりそうな雰囲気のときは私もドキドキしたし、あ~ときめきたい~!なんて思ったりもした。
ちなみに、テラスハウスについての感想や意見などをSNSやその他媒体に書き込んだことは一度もない。

そして同時に、私は大のプロレスファンでもある。
某プロレス団体のファンクラブにも入っているし、気になる号の週刊プロレスは購入して熟読している。
後楽園ホールや東京ドームなどにも通って、実際に試合を観たり、写真を撮ったり、買ったTシャツにサインをもらっては部屋に飾ったりしている。
特に試合中の写真を撮ることが好きで、そのために12万もするミラーレスのカメラを購入したくらいである。
ファン歴はまだ4年程だが、なかなかどっぷりハマっている。

彼女がテラスハウスに入居してきたとき、感じたこと

だから、彼女がテラスハウスに入居してきたとき、とても嬉しかった。
プロレスラーもこういう番組に呼ばれる時代になってきたのか…と。
しかし、同時に少し心配にもなったのである。

プロレスファンの私は、彼女が画面に出てきたとき、こう思った。
『あぁ、きっと女子プロレス界を盛り上げるために、女子プロレス界の認知度を上げるための役割も担って出演したんだろうな』と。
100%自分が入りたい!という気持ちだけではないな、多少は仕事がらみだな、と感じたのを覚えている。

実際、仕事やその他の理由のために、自身の認知度を上げるために出演を希望する子もいるはずだし、それはまったくもって悪いことではないと私は思う。
能力がある人や、実力がある人。
あとは人目に触れればいいだけ…という最後の一押しが必要な人が、日の目を見るために、こういった番組に出演することを、うまく利用すればいいと思う。

話が逸れたが、彼女の場合は、それが『彼女個人』を売り込むためだけではなく、彼女が所属する『スターダム』という女子プロレス団体、ひいては『女子プロレス界全体』を売り込み、世間一般の認知度を上げることを目的として入居してきたのでないか、と私は考える。

理由は(これはまったくもって私の個人的な感覚であるが)女子プロレス界が徐々に盛り上がってきているタイミングであったからだ。
プロレスを知らない、興味のない方は、そんなこと知らなくて当然だと思う。

ガチで話すと本当に長くなってしまうので…軽くプロレス界のことを話させていただきたい。(あくまで私の視点であり、もっと詳しいプロレス史などは、多くのプロレスファンが語ってくださっているはずなので、検索していただければと思う)
新日本プロレスのテレビ番組は、実はかつて毎週金曜日の夜8時にテレビ放映されていた。
家族団らんのゴールデンタイムであるということは、おわかりかと思う。
ゴールデンタイムにテレビで放映されるということは、それだけ視聴率が取れる(=人気がある)ということである。
しかし現在は、土曜日の深夜2時半から、たった30分のダイジェスト番組になってしまった。
知り合いには『プロレスってまだテレビでやってるんだ』と言われる始末。
つまり、プロレス人気は衰退していたのだ。
しかしここ数年、ファンは確実に増えており、後楽園ホールでの試合なんかは札止めも多々あるようになり、プロレス界は再び盛り上がりを見せてきていた。
地上波のクイズ番組やバラエティー番組にプロレスラーが出ている場面を見たことがある人も少なくないだろう。
会場に行けば、可愛い女の子のファンも多くみられ、親が子どもを連れてきている光景もみられる。
老若男女に愛され始めている―――私はそう感じていた。
しかしこれはあくまで『男子』のプロレス界の話であった。

男子プロレス界からは、何人かWWE(アメリカ最大級のプロレス団体。野球でいうメジャーリーグのようなものだと思ってもらえればいいかと)に移籍して、活躍するようになった。
それを追うように、女子プロレス界も着実に盛り上がりを見せ始めていた。
日本の女子プロレスからも、WWEに移籍する選手が出始め、活躍を見せるようになった。
そして女子プロレス界の中でも勢いがあり、選手も豊富な団体『スターダム』が、男子プロレス界でナンバーワンのネームバリューを誇る『新日本プロレス』の親会社である『ブシロード』の傘下に入ることも発表された。
これは、スターダムが経営が難しいから、とかいう理由ではなく、さらに認知度、人気度を加速させるためのブースターとして、ブシロードの傘下に入ったのだと考えるのが妥当だと私は思う。
そしてスターダムは、TOKYO MXにおいて毎週土曜にレギュラー番組を放送するまでになった。
(実際、新日本プロレスもブシロードの傘下に入ってから、メディアやマスコミへのアプローチ方法が大きく変わり、新規ファン獲得や様々な変化に大きな影響を与えている)

結局長くなってしまったが、こういった背景があって、女子プロレス界は盛り上がり、成長している最中であった。
このタイミングで、彼女の入居。
まさにタイミングはばっちりであった。
彼女が入居した数か月後、2020年1月、正月明けに東京ドームで行われた試合(『WRESTLE KINGDOM』という新日本プロレス主催の毎年年明け一発目に東京ドームで行われる、団体最大規模の大会。本来であれば、他団体にあたるスターダムの試合が組まれること自体、今まではなかった。ブシロード傘下に入ったことで実現したと言っても過言ではないと思う)も予定されていたし、試合のプロモーションにももってこいであった。

彼女はとても華のある選手であった。
母親も元プロレスラーであり、2世レスラーとして、親子タッグを組んだり、何かと話題性のある選手でもあった。
見た目はもちろん、繰り出す技やファイトスタイル、何なら入場・退場、そしてマイクパフォーマンス、すべてにおいて彼女は『お客さんを楽しませる』という才能もあったし、それについての努力を惜しまない人であったと感じる。
地上波やメジャーなメディアに出すには、もってこいな人材であったと思う。

彼女は『ヒールレスラー』であった
簡単に言えば、悪役であった。
しかしそれは、団体の中におけるポジショニングであって、実際の私生活で悪事を働いたり、そういうことをするわけではない
本人の性格によってその役割を決定しているわけでもない。
所属する選手の数が多いプロレス団体のほとんどで、各選手に
・ベビーフェイス(正義)
・ヒール(悪役)

という役割が与えられている。また、それに準じたユニット・グループが組まれたりもしている(彼女の場合は『TOKYO CYBER SQUAD』という悪役ユニットを組んでいた)(もちろん、ベビーフェイスやヒールに属しない選手もいると思う)。
そしてベビーフェイスVSヒールの試合が組まれ、まさに日曜の朝にやっている仮面ライダーや戦隊ヒーローもののように、正義と悪の戦いが繰り広げられる(トーナメント戦などの総当たり戦などにおいてはヒールVSヒール、ベビーフェイスVSベビーフェイスの試合も組まれることも、もちろんある)
毎回正義軍が勝つわけではなく、時には悪のチームが勝つ。
それに負けじと、また正義軍が戦いを挑んでくる…つまりストーリーがある
そのストーリーを観て、観客は沸くのだ。
ヒールに足蹴にされ、踏みつけられているベビーフェイスを『がんばれ!』と応援したくなる。
会場をあおり、相手をこれでもかと挑発し、逃げずに技を受け止めるヒールが心底かっこよくて、思わず歓声をあげる。
プロレスは、ショーである
そこに台本があるかどうか、私は知らない。
あるのかもしれないし、ないのかもしれない。
けれども、避けようと思えば確実に避けられる技を、プロレスラーはきっちり受ける。
それは、技を受ける姿ですら、観客を沸かせるための『演出』のひとつだからだ。
(プロレスには『受けの美学』という言葉がある。これについては今回は割愛する)
ここで私が言いたいのは『ヒール(悪役)というのは、役割(ポジション)である』ということだ。
リングを降りたあと、日常生活やプライベートでは、ヒールレスラーも普通の人間である。
(もちろん、プライベートも徹底して根っからのヒールの人も中にはいる。プライベートでファンに声をかけられても、わざと冷たく当たったりする人もいる。それはキャラクターを守るためだ)

今では肝っ玉母ちゃん、鬼嫁、だけど涙もろくて可愛らしい一面も見せる北斗晶さんだって、かつてはデスメイクをしたヒールレスラーだった。
キャラをチェンジしたわけではなく、涙もろくて可愛らしい姿こそ、北斗晶さんの本当の姿なのである。
つまり、彼女もまた、『ヒール』という役割を『必要に応じて』演じているに過ぎないのである。

さて、前置きがとても長くなってしまったけれども、この項の本題。
『彼女の入居に関して、私は何を心配したのか』である。
それは、テラスハウスという場において、プロレスでの『ヒール』という役割が影響してくるのではないか、ということであった。
テラスハウスに入居して、彼女は『プロレスをもっと広めたい』『怖く思われがちだけど、そういう印象を変えられれば』という言葉を言っていた。
私も、そうなればいいな、と思っていた。

私が思う、理想と現実の誤差

いざ放映が始まってからというもの、彼女はとても魅力的に映っていたと思う。
異性にときめいたり、それをテラスハウスに住む女子メンバーや、レスラー仲間の女の子に相談したりする彼女は、いじらしい乙女そのものであった。
食事をサッと作ってあげたり、ケガをしているメンバーにはアイシングを用意して手当をしてあげたり、かわいらしい部分が大いに映し出されていた。
メンバーの話をうんうん、と聞いてあげる姿には、やさしさだって感じ取れたはずだ。

しかし、件のシーンが放映されてから、世間の反応は一変した。
その一変の仕方が、異常に感じた。

彼女が相手に対してキレたシーン。
彼女の言葉、行動を擁護するわけではないことを先に言っておくが―――彼女だって聖人君子ではない普通の人間なのだから、感情が昂って、ああなってしまうことはあると思う。それがたとえ、キツい言葉選びであったり、手が出てしまうようなことがあったとしてもだ。それくらい感情が昂ってしまい、昂ったまま引き返せなくなってしまうことは、人間なら多かれ少なかれあると思う。(もちろん生涯、ぶちぎれるようなことのない、心底穏やかな人ももちろんいると思うが…それは稀なのではないだろうか)
そしてこれは憶測だが、彼女はその後『言い過ぎたかもしれない』『やりすぎたかもしれない』と思っていたかもしれない。反省していたかもしれない。

最初のシリーズからずっとテラスハウスを観てきた私は、きっと『ちょっとやりすぎちゃったかな~』『このあと仲直りできればいいな』くらいの感想が飛び交うと思っていた。
もちろん、多少の炎上は予測していた。
どんな番組でも、喧嘩のシーンや険悪なムードのあとは、ネットの反応が多かれ少なかれ荒れることはある。
今回の場合も『やっぱプロレスラーだからキレると怖いね』とか、そういう感想が飛び交うのだと思った
そういう内容だったら、彼女は耐えられていたかもしれない。
だって、ヒールを演じることは、彼女にとって仕事であるから。
なんなら、そういう印象を持たれたことは『仕事を全うしている証拠』ともとれたかもしれない。

しかし今回は違った。
『喧嘩のときの言動が強かったこと』(=ヒールの役割)に対する意見ではなく、『死ね』『消えろ』等、明らかに行き過ぎた内容であり、喧嘩の内容に関係のない、いわゆる『誹謗中傷』がどんどん増えていったのである。

視聴者は、マヒしている――私はそう思った。
もちろん、視聴者がみんな、プロレスの構造を理解しているわけではないことは百も承知だ。
それ以前に、『リアリティーショー』であるということを、わかっているのだろうか
現実と、創造物は別であるということを、忘れてしまったのだろうか。
この番組は、あくまで『フィクション』なのである、ということを。

『リアリティー』は『現実』という意味ではない。
『リアリティー』の意味は『現実性・現実味』である。
『現実』ではないのだ。


『ショー』の意味は『舞台芸能などの見世物。特に、音楽・舞踊を中心とした、視覚的要素の強い芸能』とある(goo国語辞書より)
『ショー』とはつまり、『見世物』なのである。

つまり『リアリティーショー』というものは『現実味のある見世物』である。
『テラスハウス』は決してドキュメンタリーではない。
ノンフィクションでもない。


私は、視聴者は、これを理解して観ているものと思っていた。
少なからず私は、そう考えて観ていたから。

そして、テラスハウスの放映内容自体も、以前と変わってきている…と感じていた。
昔のシリーズも、確かに不穏な空気が漂ったり、喧嘩をしたり、そういうシーンは確かにあった。
けれど、それ以上も以下もなく、蒸し返すこともなく、まさに日常的にそれらの問題は流されていっていた。
そうして、なんだかあやふやな感じで、白黒ハッキリつけるでもなく、お洒落なデート風景やパーティーのシーン、彼らの仕事や日常のシーンが流れていたように思う。
しかし、前シーズン(軽井沢編)あたりから、ちょっと『ん?』ともやもやが残るようなことが多くなっていた。
何と表現すればよいのか難しいところではあるのだが…それまでは住人がマイナスイメージに映る場面があっても、卒業するまでに挽回や改善するシーン等があったように思ったのが、この頃から少なくなったように感じていた。
つまり、視聴者にとって、マイナスイメージのまま卒業(降板)するということである。
卒業のタイミングは本人の申し出もあったかもしれないが、普通に考えて『マイナスイメージのまま卒業させる』ということは、出演者にとってリスクしかないように思う。
編集や、コメンテーターへの指示で、多少はどうにかフォローをしたり、ヘルプになったのではないかとも思う。
しかし番組側はそれをしなかったということなのだろう。
そして今回の場合は、一度Netflixで先行配信されたときに炎上していたのに、地上波で遅れてそのシーンが放送されるタイミングで追い打ちをかけるかのように、YouTubeでも『未公開シーン』として、そのシーンに関する動画がアップされた。
ここに、制作側の『炎上に拍車をかけよう』という意図があったという声もある。
もしそのような意図が無かったとしても、あのタイミングで未公開シーンをアップすればどのような効果が起こるか、ということは想像すればわかったことではないだろうか。
もし『炎上に拍車をかけることになるとは思いませんでした』という答えが制作側から返ってくるとしたら、番組制作には向いてない方なのではないだろうか。

かなしいかな、ポジティブな内容より、ネガティブな内容の方が確実に盛り上がるし、バズるし、炎上もする
他人の不幸は蜜の味、という言葉が存在する所以でもあるのかもしれない。
芸能界、メディア界というのは、盛り上がって、バズって、注目されてナンボの世界だ。
バズって、注目された内容は、どんどん加速度を増す。
人気のタレントが様々な番組に出ているのは、そのタレントを起用すれば注目される、バズるから。
似たような番組が増えるのも、トレンドであり、注目され、バズるから。
こういったリアリティーショーが増えたのも、注目度が高く、バズるのがわかっているから。
中でもテラスハウスは日本国内のリアリティーショーの中でも、世界的人気を誇るビッグコンテンツである。
だからきっと、制作側もマヒしたのだと思う。
『もっとバズらせなきゃ』『もっと注目されなくては』『どうすればもっと盛り上がるか』と。
ここで『盛り上がれば』よかったのだが、『炎上』した。
しかしきっと『盛り上がる』=『炎上』と勘違いしてしまっていたのかもしれない。違いがわからなくなっていたのかもしれない。
こうなると、どんどん炎上させる方向にいくしかなくなる。
燃え盛る炎は、大きくなればなるほど、鎮火することが難しくなっていく。

視聴者のとらえ方、観方、そして番組側の制作の意図、映し出し方。
それぞれお互いに理想があって、しかしながら現実はお互いすれ違っていたのだと思う。
そうしてそれぞれの誤差は、戻れないところまで開いていってしまった。

本当のノンフィクションは存在するのか

ない
私はそう考える。

『ノンフィクション』とは『虚構を用いず事実に即して作られた作品。紀行・ドキュメンタリーなど』(goo国語辞書より)とある。
『虚構を加えない』とあるが、ノンフィクションと名のついた番組は、確かに虚構は加えられていないかもしれない。
テラスハウスもそうだ(そもそもノンフィクションを冠していないが)。
『台本は一切ございません』と、毎回冒頭で説明している通り、台本はないのだろう。
この『台本は一切ございません』という一言が、視聴者に『ノンフィクションである』と錯覚させてしまうのだと思う。この番組はノンフィクションを冠していないのに、だ。

しかし、『編集』はされている。
誰かしらの手によって、何かしらの手は加えられている。
24時間密着したところで、24時間分の映像をすべて放映しているわけではない。
使っている映像は『ノンフィクション』でも、全編ノーカットのものはほぼなく、多少なりとも編集される。
その時点で完全なるノンフィクションではなくなると思う。

撮影された映像は、『編集』という作業によって、『フィクション』になる。
私はそう考える。
『編集』という作業によって、出演者のチェックなしに放映されているとすれば、制作側の意図は必ず反映される。
撮影された映像の、どのシーンを切り取って、どういう風に繋げれば、どういう風に見えるか。
そういった制作側の意図、目的を反映させるために『編集』するのである。
『編集』という作業は、つまるところ『演出』なのだ。

だから私は『編集』という作業がある時点で、いくらノンフィクションを謳っていても、虚構はゼロだったとしても、100%のノンフィクションにはならないと思うのだ。
前項でも述べたが、視聴者と制作側それぞれの番組に対する意図・目的がどんどんすれ違っていってしまった。
きっと、視聴者は『これはリアル(現実)だ、ノンフィクションだ』と捉えていたし、制作側は『使っている映像はノンフィクションだけど、編集しているからこれはあくまでリアリティー(現実味)のあるショー、フィクションの番組ですよ』と
制作側がはっきりと『この番組はあくまでフィクションです、編集しています』と明確に表記するなりすればよかったのかもしれないが、表記することによってここまでバズっているコンテンツから視聴者が離れてしまうかもしれない、と感じたのかもしれない。

(余談ではあるが、ノンフィクションやリアリティーショーに限った話ではないと考えている。これについては、後日別の記事を執筆したいと思う)

私はテレビが好きだ。
ノンフィクションを観て、涙することもある。
編集することが悪だと言いたいわけではない。
それがあるから、お茶の間の私たちは、テレビを観て笑い、涙し、驚いたりできるのだ。
編集があるから番組が成り立つし、面白いものができる。
でも、だからこそ、視聴者側も、それを踏まえて観ることが必要なのではないだろうか。

感想・意見・批判・誹謗・中傷のちがい

すでにあらゆる媒体等でちがいを説明されていると思うが、改めて記載する。

『感想』物事について、心に感じたことや思ったこと。所感。
『意見』 ある問題に対する主張・考え。心に思うところ。
『批判』1 物事に検討を加えて、判定・評価すること。2 人の言動・仕事などの誤りや欠点を指摘し、正すべきであるとして論じること。

『誹謗』他人を悪く言うこと。そしること。
『中傷』根拠のないことを言いふらして、他人の名誉を傷つけること。
(いずれもgoo国語辞書より)

人の行動や言動に対して、それはよくないんじゃないか、言い過ぎなのでは、やりすぎなのでは、と発言することは、前者3例にあてはまることがわかる。
しかしただ『ブス』『バカ』『消えろ』『死ね』と発言すること(もちろん単語だけではなく文章での発言も含む)は、後者2例にあてはまる。

どんなことがあっても、ただただ『人』を否定する、無意味に傷つけるということは、あってはならないことだと思う。
いくら嫌いな人間であったとしても、真っ当に真正面から顔を見せて『批判』するべきであって、ただただ刃物を投げつけるように、傷つける言葉をぶつける『誹謗』『中傷』はあってはならない。
そしてその行為を匿名で行う時点で、いくら相手に非があろうと、どれだけ嫌いな相手だろうと、あなたが卑怯になるのだ。
顔を見せて批判することは、相手と自分の話し合いになりうるのだ。
話し合いなんぞしたくない、顔を見るのもイヤだ、というなら、もう付き合いをやめればいい。その人の存在があることで、あなたの人生にどれだけの影響があるのだ。生死に関わるような影響があるのだろうか(もしあるとするなら、つらくてもしんどくても『話し合う』べきだと思う)
イヤなら視界に入れなくていいのだ、自分の人生なのだから、自分で必要なもの、不要なものを決めればいい。無理に嫌いなものを食べることはないと思う。

いくら『自分がされたら嫌なことは相手にしてはならない』と幼い頃から口酸っぱく親、保育園・幼稚園、各学校の先生、周りの大人などに言われてきても、実際に体験していないから、痛みがわからないのだろう。
そういう意味で、想像力に欠ける。
そして『自分には関係ない』『誹謗中傷されるようなことをするほうが悪い』と思うのかもしれない。
けれど、何度も言うが、どんなことがあっても、何があっても、『人』を否定し、名誉を傷つけることは許されないのだ。

とても簡単な言葉だが『自分がされて嫌なことは相手にしてはならない』という言葉を、今一度、考えてみてはいかがだろうか。

そして『テレビやメディアに出る人間なのだから、スルースキルがないなら出るな、それくらいの覚悟をしろ』なんて言葉を発する人がいるが、スルースキルというのは、兼ね備えているものではないと思う。
そして、能動的に耐性をつけるものでも、鍛えて育つものでもない。
誹謗中傷の波にもまれて、その波にのまれずに生きて帰ってきた人たちに、後付けで付けられたスキルにすぎない。
だって、こういった誹謗中傷というものは、過去には存在しなかった。
いわば、新型のウイルスみたいなもので、対処法がないのだ。特効薬がないのだ。新型のウイルスにかかったけど、薬もないし、処置の仕方も不明だけど、何で治せないの?って言っているようなものだと思う。
だから、新型ウイルスをまき散らさないようにしなくてはならない。
その新型ウイルスに罹患する人を減らす努力を、個人個人がしなくてはならない。
私はそう思う。


おわりに

彼女は、フィクションとノンフィクションの狭間で板挟みになり、身動きが取れなくなってしまったのかな、と思う。
もちろんそれだけが原因じゃなかったかもしれない。
コロナ禍におかれているというイレギュラーな状況は、彼女のプライベートはもちろん、心のよりどころであり、様々なポジティブな感情を与えてくれるプロレスという仕事にも、多かれ少なかれ影響を与えたと思う。
それが、彼女のつらさに拍車をかけたのかもしれない。
あるいは、もっと他に、我々には想像もつかないような理由があるのかもしれない。

私は冒頭で『私は誰かに訴えたいわけではないし、誰が悪いのかを言及したり、追及したりしたいわけでもない』と述べた。
いくら誰が悪いとか、責任はどこにあるのかを追求したところで、彼女が帰ってくることはないからだ。

彼女がこの決断をくだした本当の理由は、私はもちろん、誰にもわからない。
今日まで様々な媒体で報道されてきた内容がすべてかもしれないし、そうではないかもしれない。
こればっかりは、本当に誰にもわからない。
周囲の友人や仲間、そして肉親でさえも、本当の理由は、わかりえない。
わかろうとしたところで、わかることもできないのだ。
いくら考えても、考えても、わかることはできないのだ。
そしてわかったところで、どうしようもないのだ。
だって彼女は、もういないのだから。

私は、婚約者を亡くしたとき、原因を考えた。

彼はどうしてこの決断をしたのか
何が彼を苦しめたのか
何が原因なのか
誰が原因なのか
誰の責任なのか
私はどうにかできなかったのか
彼を止める方法はなかったのか
なぜ一番身近にいたはずの私が気づけなかったのか
私しか彼を止められなかったのに

本当に、毎日毎日考えた。
話を盛っているわけではなく、本当に、24時間、常に考え続けた。
しかし、いくら考えたところで答えなんて出てこなかった。
見つからなかった。

そしてあるとき、思った。
『答えがみつかったところでどうなる?
 彼を苦しめた責任がわかったところでどうなる?
 それがわかっても、彼は帰ってこない』

私の今の心境は、彼を亡くした当時の心境にとても似ている。
その決断をした理由や、原因の矛先を探しているということは、私は彼女の死を受け入れることができていないということだ。
いくら理由や原因を追及したところで、彼女は帰ってこない、ということを理解したとき、やっと『彼女の死』を受け入れることができるのだ。

もしかしたら、興味や好奇心で、彼女の死の理由や原因を知りたい人がいるかもしれない。
けれど、残念ながら、真の答えは見つかることはない。
世に出回っているのは、あくまで憶測・予想でしかない。
真の答えは、彼女の胸の中にしか存在しない。
そして彼女はもう、帰らぬ人となっているのだ。

私は婚約者を亡くして8年が経とうとしているが、未だに彼の死を受け入れられていない。
今でもふと『帰ってくるかも』『どこかで生きてる気がする』と考えてしまう。この目で彼の亡骸を見たし、骨になった姿も見たのに。
そして『助けることができたんじゃないか』と考えてしまって、涙を流す日もある。
8年経っても、頭では理解しているつもりなのに、彼の死を受け入れることはできていない。


いつになく、支離滅裂な内容であるし、結局何が言いたかったの?という内容になってしまったことを、お詫び申し上げます。
彼女の死は、毎日の新たなニュースの上書きにより、すでに風化され始めていることを、身に染みて感じています。
しかしながら、風化されてはいけないと思っています。
そして、一番いけないのは、この件が美談にされてしまうことだと思います。
自ら死を選ぶことは、決して良いことではありません。
けれど、いたずらに死を選ぶ人はいません。
何かしら理由があって(それは本人による理由かもしれないし、第三者の加害行為による理由かもしれませんが)、耐えきれなくなって、追い詰められて死を選ぶのだと思います。

私の個人的な話を混在させてしまって、余計な混乱を招いてしまったかもしれませんが、自死した本人の一番近くにいた人間としての思い、考えを共有できれば、と思いました。


自死した人のご家族、身近な人、ご友人、恋人…その人に関わりがあったすべての方へ。
決して自分を責める必要はありません。
とはいえ、私も婚約者を亡くして8年経った今でも、自分を責めてしまいますが…それでも『責めてはいけない』のではなく『責める必要はない』のです。
自分を責めてしまってもいいです、でも『自分を責める必要は、ほんとは無いんだよなぁ』ということを、心のどこかに置いておいてもらえれば、と思います。

自死することを決断した人は、残念ながらもう正常な判断能力は持ち合わせていません。
隣に誰かがいれば、力ずくでその行動を制止することはできるかもしれませんが、ほとんどの場合、それはひとりきりで、誰もいないときにやり遂げます。
私の婚約者は、亡くなった瞬間が防犯カメラに映っていました。
警察の方に言われたのは『自死をする人は、ほとんどの場合、何の迷いも、ためらいもなく、行う』ということでした。
『意識』というものが、もうすでにないのかもしれません。『正常な判断』もできない状態なのです。
いくら声をかけても、電話をしても、メールやLINEをしても、その人は正常な判断ができなくなっているということを念頭に置いてください。
もちろん、あなたの声が届いて、正常な判断を取り戻すこともあると思います。我に返ってくれることもあると思います。それは決して無駄なことではありません。
でも、やっぱり声が届かなくなってしまっているときもあります。
もし、手遅れになってしまったとしても、自分を責める必要はありません。
その人は『正常な判断』ができなくなってしまっていたのです。
そして、あなたのせいで亡くなるわけでは決してありません。

結果的にうまくまとめることもできず、気づけば12,500字を超えていました。
この記事を書き始めてから3週間になろうとしています。
書いている途中で涙が止まらなくなって、キーボードを叩けなくなったこともありました。
なかなか公開ボタンが押せないまま、こんなに時間が経ってしまいました。
あふれる思いは日に日に増えていきます。
けれど、もうどうしようもありません。
今は、彼女のご家族、親しくされていた方々の心への心配が募ります。
私自身、未だに心がざわついて、心臓のあたりが苦しくなって、うぅ、と締め付けられる気持ちになります。

どうか、世界が、もっと平和になりますように。
隣の人に、やさしくできる世界になりますように。
彼女のご冥福を、心よりお祈り申し上げます。
できれば、もっとあなたの笑顔を見たかった。
あなたの笑顔から、言葉から、パワーをいつももらっていました。

どうか、やすらかに。

2020年5月29日、執筆開始
2020年6月11日、執筆終わり


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