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阿寒町はかつて「炭砿」のマチだった!?   炭砿歴史が残る"雄別"の今と昔を写真で比べてみた!

森の中にコンクリートが!!

「森の中に急に建物の基礎!?ええ!?」

こんにちは。阿寒の森の中で驚きを隠せていない協力隊の崎です。

この写真は去年の12月、「消えたマチ"雄別"を巡るツアー」にモニター参加した時のもの。ご覧ください。突如、森の中にコンクリートの建物の基礎が現れるんです。しかもここだけではない。この森一帯にコンクリートの基礎だけがたくさん残されているんです。

まるでラピュタ?と思うようなこの不思議な世界に驚きを隠せないのでした。

ここにも無機質なコンクリートが!

なぜこんなにコンクリートだけが森の中に現れるのか…

そう、森に見えるこの場所は、かつて「雄別地区(ゆうべつ)」という9,000人以上もの人々が住んでいた大きなマチだったのです!
信じられませんが、50年前までここには数々の住宅が立ち並び、体育館や映画館などの施設などが建っていました。

今回はこの「雄別」について深く調べていくため、資料や当時の写真を集めた展示会などを通して"雄別"というマチの記憶を伝えている「古潭雄別歴史資料室(布伏内(ふぶしない)コミュニティセンター)」の三沢 悟(みさわ さとる)さんにお話を伺いながら、消えたマチの秘密に迫っていきます!


■阿寒町は炭砿のマチだった!

ー三沢さん本日はよろしくお願いします!さっそくなんですが、雄別というマチは一体どんなマチだったんでしょうか?

三沢さん:阿寒町は元々炭砿で栄えたマチだったんだよ。雄別炭礦という大きな炭鉱があった。その炭砿そのものがあったエリアが雄別地区だった。

さっそくたくさんの資料を見せてくださる三沢さん。全て三沢さん自身で制作したものだ。

ーなるほど。雄別には炭砿の関係者やその家族がたくさん住んでいたんですね。

三沢さん:そう。一番全盛期の昭和28年頃から約10年間は雄別地区と布伏内地区だけで14,000人以上が住んでいた。当時の阿寒町全体の人口が20,000人くらいなので人口の約7割がこのエリアに住んでいたということになるね。

ー7割!?

雄別・末広町の当時の様子。木造の住宅があズラリと立ち並ぶ。(提供:三沢 悟)

三沢さん:ただ、昭和26年以降、エネルギー政策の変更によって石炭の需要は急減してしまった。石油系燃料に勝てなくなった事や坑内事故の負債なども重なって、昭和45年(1970年)に雄別炭礦は閉山したんだよ。

ーなるほど…

三沢さん:閉山当時って、炭鉱以外の産業は大盛況で人手が足りなかったんだよ。自動車とか鉄鋼関係とか。だから本州からたくさんの求人担当者が雄別地区にやってきては企業説明会とかをやったんだ。離職者のほとんどは再就職先を道内希望としていたけど、道内の求人が少なくてやむを得ず故郷を離れる家族も多かった。

結果的に、閉山直前は6,000人ほどが暮らしていた雄別地区は、再就職による相次ぐ転出で、閉山後たった1年で人口が0人になってしまった。

ーたった1年で人口が0人に!? そんな怒涛の歴史がここにあったんですね…


■雄別の「今」と「当時」を写真で見比べる


ー実はこの前、雄別を自転車で巡るモニタツアーに参加したんです。森の中を歩いていると至る所にコンクリートの基礎があってびっくりしました。そこで今回は、私がモニターツアーで撮影した写真と三沢さんが集めていらっしゃる当時の写真を並べて比較したいと思っているのですが、いかがでしょうか?

三沢さん:いいですよ。

ーありがとうございます!
そもそもなんですが、なぜコンクリートだけが残ってるんでしょうか?

三沢さん:金属や木材って再利用ができるから売れたんだよ。お金になるものはほとんど売却されたんだけど、コンクリートだけは再利用ができない。とはいえ、取り壊すお金もなかった。だから今でもコンクリートだけが残ってる。


●人道橋

ーなるほど!そういうことだったんですね!
…では早速なのですが、この写真なのですが…

印刷してきたツアー中の写真を三沢さんに見せる

三沢さん:あー、ここは「睦人道橋」だね。

ーええ!これだけでわかるんですか!?

三沢さん:うん笑
この人道橋を渡った先に「睦アパート」と「白樺寮」があったんだよ。だから寮生たちやその他町民が頻繁に使っていた便利な橋だった。

当時の「睦人道橋」の写真。対岸に見える建物が寮だ。(提供:三沢 悟)
現在の「睦人道橋」の写真。木々が生い茂り、寮があったようにはまるで見えない。


●駅のホーム

ーへぇー!この先に寮とアパートがあったんですね!
こうやって比べるとめっちゃ面白い!!続いてこの写真なのですが、これは何の跡地なのでしょう…?

木が生い茂る中にコンクリートの基礎が見える

三沢さん:ここは「雄別炭山駅」の跡地だね。

ー(すごい…即答だ…)

三沢さん:釧路と雄別を結ぶ「雄別鉄道」がここを走っていたんだよ。旅客便と石炭を運ぶ貨物便ともにそれぞれ1日7往復運行されていた。
昭和43年には旅客が168万人が利用し、道内の私鉄でNo.1の実績を挙げたほど。国鉄根室線よりも利用者数が多かったと言われているね。

当時の「雄別炭山駅」の写真。木造の立派な駅舎だったそうだ(提供:三沢 悟)

ーめちゃくちゃ立派な駅舎…!今と比べると想像できないですね。

三沢さん:そうだね。

●健保会館

ー続いてこちらなんですが、ツアー中に見た中で一番大きく形が残っているコンクリートだったのですが、どこかわかりますか?

森の中で一際目立つコンクリート基礎が現れる

三沢さん:あーこの特徴的なコンクリートは「健保会館」だね!

ーけんぽ会館…?どんな施設なんですか?

三沢さん:正式には「健康保険体育会館」という建物で今でいうスポーツセンターみたいなところかな。1階には柔道場とか卓球場などの室内運動場があって、2階にはダンスホールとか集会場、展示場があった。
ちなみに残っているコンクリート部分にはシャワールームがあったんだよ。

当時の「健保会館」の写真。地下にあたる部分だけが今も残る。(提供:三沢 悟)


●神社前広場

ーちなみに何気なく森の中をこのように歩いていたんですが、ここは当時でいうとどの場所にあたるのかわかりますか?
先ほどの「健保会館」を右に曲がって、横には川が流れていてこの先に神社跡があるんです。

ここは当時のどこになるのだろう…

三沢さん:たぶん、この写真のところじゃないかな?

健保会館と神社の鳥居が見える。間違いない。(提供:三沢 悟)

ー間違いなくここですね!
めちゃくちゃ賑やかですが、これは何をしている時の写真ですかね?

三沢さん:これは「山神祭」という、炭砿で働く人たちの安全と安定生産を祈願して行われていた祭の様子。
雄別地区の中でも最も大きなイベントで、盛大な神輿が出て、町内をのし歩いたんだよ。

神輿を担ぐ男たち。町内を活気よくのし歩く。(提供:三沢 悟)


●共同浴場

ー続いてなんですが、個人的にこの場所がとても印象的で記憶に残っています。
なんせ枯れ草を除けるとお風呂タイルが出てきたんですから笑

森の中に急に現れる楕円形の物体。この形は間違いなく…湯船!
枯れ草を除けるとまさかのお風呂タイルが出現!

三沢さん:これは、坑口(炭砿内への出入り口)のすぐ近くの場所かな?
家にはお風呂が付いていないから、このような「共同浴場」が町内にたくさんあった。ここは坑口のすぐ近くにあって、作業を終えた坑内員が仕事終わりにたくさん入りに来ていたそう。
2階建ての大きな浴場で、ロッカーやシャワーも完備されていたと記録が残っているよ。

共同浴場の外観写真。大きく立派な建屋だったのがわかる。奥に坑口が見える。


●坑口

ー先ほどの浴場からすぐの場所に炭砿内への出入り口があるんですね。「安全生産」の文字看板が残っていて当時の面影を感じました。

山の斜面にコンクリートが剥き出しに現れる。ここが坑内へ通ずる出入り口だ。

三沢さん:残っている看板は実は平成20年に「雄別炭礦の産業遺産を守る会」が設置したものだから、当時の看板ではないんだ(笑)
当時のものはこれよりもっと大きい。その看板はここの資料室(布伏内コミュニティセンター)の外に展示しているよ。

資料室外に大きく置かれている看板が当時のものだ。

ーあ!そうなんですね!
写真展の時に見たあの大きな看板が本物だったんだ…!!

三沢さん:そうそう。
ここの坑口は「雄別通洞坑口」という坑口で、採掘された炭は全てこの坑口から出炭されていたんだ。

坑内へ続く出炭用の鉄道がここを走っていた。現在はトンネルは塞がれている。(提供:三沢 悟)

ーなんだかこの山の中に石炭がたくさん眠っていて、かつてその石炭を人々が採掘していたんだという実感のようなものが、この坑口を見てとても沸いてきました。不思議な感覚でしたね…


■消えたマチ「雄別」の歴史を伝え続ける

ー昨年に開催していた写真展「消えたマチ雄別の記憶1000写真展」では、今回のような現在の写真と当時の写真を見比べる「今昔定点観測」を三沢さんもされていましたよね。

三沢さん:この「今昔定点観測」は、閉山40年の2010年にも実施したんだ。そこからまた10年経った閉山50年の2020年にも同じように観測をやった。
その写真を写真展で展示していたんだ。

閉山50年の節目にあたる2020年から1年半開催された写真展
1000を超える当時を写す写真が並ぶ。写真は全て三沢さんが探し集めたものだ。

ー写真展は私自身にとっても雄別のことを知れるとてもいい勉強の場になりました。あの膨大な数の当時の写真はどう集められたんですか?

三沢さん:役場や「炭砿と鉄道館(雄鶴駅)」という資料館にあった写真を片っ端からスキャンして集めていったね。その他にも当時住んでいた方からも少しずつ集めたかな。町の様子の写真はそれで集まったんだけど、鉄道の写真がなかなかなくて。だから鉄道の写真は、本州の鉄道ファンから買い取ったりもしたね。
元々は、写真展や資料室をやるために集めたわけじゃなかったのよ。

ーえ!そうなんですか!

三沢さん:2008年に雄別を歩く「ウォーキング大会」を開催した時の参加者へのガイドブック作りとして集めたのがきっかけだったんだよ。ガイドブックは合計2冊作ったんだ。
で、3冊目を作ろうかと思った時に、雄別鉄道については詳しい本が1冊出版されているのに、雄別炭礦についてはまとまった資料や本が全くないということに気がついて。炭砿の歴史が少しでもわかる本を1冊作った方がいいなと思って、3冊目はガイドブック以外の資料を含めた本として制作を進めたんだ。

三沢さんが制作した3冊の本。(現在は配布していない)

ーなるほど、そういった背景があったんですね。ガイドブックもガイドブックとは思えない内容の濃さだと感じたんですが、それも「炭砿の歴史が少しでもわかるもの」という意識が組み込まれているからなのでしょうか?

三沢さん:うん、そうだね。

ー写真展自体はすでに開催は終わってますが、布伏内コミュニティセンター内の「古潭雄別歴史資料室」は今後も入場可能なんですか?

三沢さん:開けてますよ。写真展も終わって、そこで展示してたものを資料室内に移動させたりしたんで、レイアウトとか展示物とかが前とは変わってるよ。

ーそうなんですね!この後少し見てから帰ります!
雪が溶けて、森の中を歩けるようになったらぜひ三沢さんの案内で雄別地区を回ってみたいです。

三沢さん:うんうん、草木が生い茂っていない春がベストだからその時にできたらいいね。

ー本日はお忙しい中ありがとうございました!!



古潭雄別歴史資料室
開館時間:平日(月〜金)9:30〜15:30
住所:釧路市阿寒町布伏内22線北51 布伏内コミュニティセンター
電話:0154-69-2111


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