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あたまのたいそう0928-被写体と構図

中学生になりスマホを買ってもらってから、9年ほどが経過した。当時のスマホの写真フォルダを見返すと、そこにはゲームのスクショ画面やら教室に掲示されている試験範囲のプリントを撮影した写真など、思い出を蘇らせる起因にすらならないなんでもない写真で溢れている。そんな私もここ最近で、写真を撮るようになった。人の写真は全く撮らないが、主に散歩している時に、良いと思った構図を写真に収めるなどしている。
構図とは、色や形、遠近法や比率などの構成を指し、構図の良さを引き出すためには被写体が必要なのだ、と最近思った。被写体とは、必ずしも人である必要はなく、植物や動物、建造物、なんなら空ですら被写体になり得る。必ずしもそうであるとは言い難いが、写真とは被写体が明確に存在してこそ初めて成立すると思う。そう考えると、僕の撮影した写真には被写体となる存在がいなかった。被写体がない写真は退屈だ。眺めていても、その写真の意図が読み取れないし、つまらない。ゆえに僕の写真フォルダはあまりにも無機質でつまらない。
中高時代、同じ学年に、行事のたびにカメラを持ち歩き、事あるごとに写真を撮っていた人がいたことを思い出した。私は当時、写真を撮ることの意義が全く分からなかったし、写真によって想起されるような思い出に価値など無いと本気で思っていた。しかし、今になりようやく、思い出を写真という形で残すことの意味と価値、人を撮影することの魅力を理解できるようになった。ある人の姿を自分の手で写真に収めることは、簡単に言うと、相手のことを好きで興味が無いと出来ないことなのだと思う。その人は、同じ学年、同じ部活、と言うだけで周りの人に興味を示し、その関心をカメラに収めようとした。とても素晴らしいと感じた。人に興味を持って生きることが望ましいことであると断言はしないが、人に興味を持つことが出来ない人は、他者からも興味を持たれることがない。
ここ半年で、映画やドラマをたくさん見た。たくさん見たと誇らしげに言えるほど、たくさん見た訳ではないけれど、今までの自分と比較すると比べ物にならないほどだった。構図の良し悪しも少しずつわかるようになってきた。だからこそ、次は自分で写真を撮りたいと思うようになったのだと思う。
写真とは、紛れもない表現行為であり、日々動き続ける社会のほんの一部を切り取った様相だ。撮影者の意図を存分に反映した写真や、被写体の魅力を最大限に引き出そうとした写真や、何とも形容し難い魅力が溢れている写真や、なんでもないもの。その全てが、連続する時間からほんの一部を切り取る、とても儚い行為なのだ。

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