見出し画像

SOMPO美術館「シダネルとマルタン展」に結構おごそかに腕をくむ

 地元の美術館の常設に「フローラ」という名画が飾られてある。
 花の女神が種をまいて花を咲かせているさまが、額縁のなかに非常にしっかりとおさまりよく構成された絵画であり、ラファエル前派にあたるそうだが、サンボリスムの人物の造形、ふっくらとしながらも渺茫とした影がさした特徴的なそれを、何よりもこの絵画とくりかえし出会うことで、私は学んできた。

 絵描きというのは不可思議な存在だ。オカルトも神話も私は大嫌いだが、後期印象派や象徴派の絵描きがオカルトにかぶれて、それを絵にしてみせてくれるのは大歓迎である。小説家がオカルトにかぶれていたら、べつに目にみえるように神秘やら女神やらをそこに現出させてくれるわけでもないのだったから、まあ大概、話にならない。
 上野に来ていた「糸杉」をみて大いに驚倒したりしたものだったのだけれども、ゴッホをはじめとした大文字の印象派、印象派然とした印象派、というのは、私は好みではなく、それが後期印象派になると、俄然好きになるのはなぜであったか――たぶん、理由を詮索するだけ野暮なのだろう。それについてはさまざまな絵をみているうちにそうなっているのであったし、そしてこれからも絵画との出会いをくり返していくうちに、また変わっていったりするものなのだったろうから。
 SOMPO美術館「シダネルとマルタン展」は、「最後の印象派」と副題にあるように、というよりも「あるように」なのか「それだのに」なのかは知識不足で判然しないが、世紀末美術的な渺茫としたその、闇を排した、闊達な光の庭を捉え続ける展示であった。

画像1

 らしくもないアナロジーではなく、実際に、果樹園を所有してその庭を絵画のモチーフに、たくさん描いているのである。
 ただのガーデニング好きのおっさんじゃねえか、と近ごろは美術館というものに食傷している私は、毒づくのであったが、いっぽうでどこか夕闇が押し寄せ、世界に暗闇が落ちはじめると、そしてそれが描かれていると、そっちもそっちで庭同様、上手く描けているから困りものである。
 もしも万が一、その闇の絵のほうだけをポンと目の前に呈示したら、この画家のこと私好きだよ、となるのに相違もないのであって、文字通りその時に、明暗分かたれることになる。すると質の話うんぬんを抜きにして、画家の目というやつは、こちらをハナから欺しにかけて来るのであったから、まあやはり、怖い。
 今回の絵画がその手の恐れに足りるのであったか否かはおくとしても、どうあれ、それはそうである。

静かに本を読みたいとおもっており、家にネット環境はありません。が、このnoteについては今後も更新していく予定です。どうぞ宜しくお願いいたします。