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尊敬する金文淑さんとの思い出

 日韓歴史問題を取材して9年の月日が経った。多くの人と出会い、いろんな言葉を探す旅として僕は日韓歴史問題を追うようになっていた。韓国政府には僕は批判的ではあるが、「嫌韓」という気持ちは一切持ったことがない。何故かと言うと僕の取材を助けてくれた多くの人は韓国の方だったからだ。時に語り合い、友情を深め、もしかするとそれが楽しいからこそ日韓歴史問題を僕はずっと追うようになったのかもしれない。

多くの方にお会いするなかで、忘れ得ぬ人の一人となっているのが金文淑さんだった。金文淑さんは正義連(旧挺対協)の創立メンバーであり、慰安婦問題に最も詳しい人物と言っても過言ではない方だ。正義連の金とウソに塗れた実態は近年明らかになったが、金文淑さん私財を投じ慰安婦問題に半生を捧げた方だった。僕の取材テーマの重要なピースを埋めてくれたのが金文淑さんであり、何より取材時に僕たち来訪を喜んでくくれた優しさが強い印象として残っている。厳しいが優しさの人、それが金文淑さんに持っている僕の印象だ。

SNSを通じて金文淑さんが亡くなったという報を聞いた。

体調がよくないとお聞きしていたので心配はしていたところだった。もう一度お会いしたかった方だけにとても残念な思いがある。コロナがなければ渡韓してお会いできたのに、再会が叶わぬままで終わってしまったの無念で仕方ない。

僕は2020年に韓国取材をまとめた『韓国人、韓国を叱る 日韓歴史問題の新証言者たち』(小学館新書)という本を出した。「反日」を標榜し続けるたいがために、そして私利私欲のために歪んでしまった日韓歴史問題に異を唱える韓国の人たちの姿をルポルタージュした、自分では”旅行記”だと思っている一冊だ。そのなかで金文淑さんは重要なパートを担って頂いた一人だった。

金文淑さんという人をもっと多くの方に知ってもらうために、彼女について書いた本の一節を当noteで公開をしたいと思う。書籍になる前の原文原稿なので多少荒い表現はありますが、より当時の実感をお伝えできると考えてそのままにしています。

金文淑さん、釜山の取材は本当に感慨深いものでした。ありがとうございました。「こんどは、食事をご一緒しましょう」という約束を果たせず寂しい限りです。先生が慰安婦問題に尽くされた半生を僕はとても尊敬しております。

心からご冥福をお祈りしております。


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筆者と金文淑さん。取材を歓迎してくれた


○慰安婦問題と決別した彼女の物語(拙著より)

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韓国映画「HERSTORY」は金文淑さんをモデルとしている。

慰安婦支援の重鎮の言葉

 慰安婦問題を取材するなかで一人ぜひ会いたいと思う人物がいた。
 2019年夏、その人物を訪ねるために私はソウル発のKTX(韓国高速鉄道)に乗り込んだ。目的地は釜山。週末だったせいか車内は満席だった。
 フランスのTGVの技術を全面的に導入したKTXは、ある意味韓国のプライドを象徴しているといわれている。台湾では日本の新幹線が導入されたが、彼の国はフランス製の鉄道を選んだ。韓国を縦断する基幹鉄道を日本製にはしたくなかったのだ、と言われている。「どんなに故障が多くともKTXに拘る」とある韓国人は話していた。


 釜山で下車すると、潮風が吹き、明るい太陽が降り注ぐ南国の風景が広がっていた。


 私はまず市内中心部に位置する釜山市役所に向かった。


一階のエントランスには「YES I LOVE KOR NO BOYCOTT JAPAN」と書かれた看板が設置されていた。

市役所内でも堂々と政治的なPRが成されていることに、少し驚いた。釜山がソウルと並び反日運動の拠点となっている事実を改めて目の当りにした気分だった。

 8月12日のこの日は、「キリンの日」と題された従軍慰安婦関連のシンポジウムが同所で開催されていた。
 数百人は収容できると思われる会議室はほぼ満席だった。中、高校生などの姿も目立った。教員の引率により学習の一貫として参加しているようだった。

 釜山市長のスピーチに続いて、登壇したのは金文淑(ルビ/キム・ムンスク)氏だった。メインスピーカーの一人として講演したものの、その表情はどこか冴えないように見えた。

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シンポジウムでの金文淑さん

 金文淑氏は挺身隊問題対策釜山協議会(挺対協)理事長として長く慰安婦問題に取組んで来た重鎮的存在だ。


 1927年、慶尚北道永川に産まれた金文淑氏は、植民地支配のもと日本人としての教育を受ける。彼女は1992年刊行した著書『朝鮮人軍隊慰安婦』(明石書店)で、自らの尋常小学校時代の様子をこう回想している。
「毎朝、「皇国臣民の誓い」と「教育勅語」を暗唱させられました。校庭の一住み隅に天皇、皇后の写真――御真影――を祀った泰安殿というのがあって、その泰安殿に敬礼してからでないと校舎に入れません。(中略)年に一度、大丘市で行われる「国民精神高揚大会」がありました。これには全市の学生・児童生徒が集まってきて、中央通りを行進、「天皇陛下万歳」を叫ばされました。その他、防空訓練、私たち女学生には「看護訓練」もありました。四年生になると、軍手・軍靴・軍服の補修なんていうことをやらされました〉

 金文淑氏は当時から「女子挺身隊」のウワサを聞いていたという。
彼女は韓国の名門大大学梨花女子大を卒業した後は教員を務め、結婚後は旅行会社経営をしていた。それと同時に弱者救済のための地域運動を志していくなかで、過去に自らが眼を背けていた歴史への関心を深めていったという。あるとき「従軍慰安婦問題」を知り、彼女は「挺身隊申告電話」を開設し情報を集めるようになる。元慰安婦を探すために各地を訪ね歩き、資料を収集する活動を始めた。

現在、金文淑氏は釜山市内で私財を投入して設立した「日本軍慰安婦のための民族と女性の歴史館」を運営している。90歳を超えたいまなお、歴史館での教育活動等を精力的にこなし、講演活動に勤しむ。
韓国映画『her story』は、釜山従軍慰安婦・女子勤労挺身隊公式謝罪請求訴訟(通称・関釜裁判)を起こし、日本政府の責任を追及した金文淑氏の物語がモデルとなっている。釜山市役所でのシンポジウムでも彼女のもとに多くの人間が挨拶に訪れている様子が見え、地元の名士として敬意を持たれている様子が垣間見えた。

慰安婦問題の生き証人ともいうべき金文淑氏はいま何を想うのか。

 イベント後に話を聞いた。彼女は流暢な日本語でこう語った。
「今日のイベントに挺対協の尹美香(ルビ/ユン・ミファン)が来ていた。私は彼女が来るならイベントには出席したくないと釜山市に言っていたのよ。それでも市からお願いされたから出席はしたけど、本当に気に食わないわ」

 挺対協は前述したように慰安婦問題を支援している韓国の市民団体だ。尹美香氏は同団体の女性代表で、慰安婦問題では韓国内で最も影響力があるとされる人物である。

支援活動の原点

 金文淑氏は厳しい口調でこう続けた。

「そもそも挺対協は尹貞玉(ルビ/ユン・ジョンオク)先輩と私で始めた団体だったのよ。キリスト教をベースにした女性の集まりだったの。尹美香はそのときは使い走りよ!」

 その怒りが鎮まったところで、改めて慰安婦問題に取組むことになった経緯を聞いた。

「きっかけは戦後のキーセン観光への疑問だったの。その反対活動から私たちの運動はスタートしたの。いわゆる買春ツアーに来る人達に対して、プラカードを掲げて阻止したりもした。

 ある時、観光客にこう言われたの。

『戦時中、私はお金がなかったから、貧しくて身売りされた慰安婦の人にお金をあげられなかった。いまはお金をあげられるようになってキーセンに来ている。なぜ反対するのか?』
 私はそこで慰安婦問題を知ったの。それから、元慰安婦のおばあさんを助ける活動を始めた。戦後もみな貧しい境遇にいた。薬を配り、お小遣いをあげた。全て自費で行動をしたの。慰安婦問題に取組むようになったのは、愛国心から。私に愛国心がなかったら慰安婦問題に取組むこともなかったでしょう」

  キーセン観光とは、1970年代に日本人観光客で流行したとされる、いわゆる“買春ツアー”である。弱者や女性問題への関心が深かった金文淑氏は、何か導かれるように慰安婦問題への取組みを始めることになる。
 
先に紹介した著書『朝鮮人軍隊慰安婦』では、彼女が掘り起こした元慰安婦たちの証言が綴られている。

 警察の手先に騙され、台湾で慰安婦になったという李玉粉(仮名)の証言を引用する。
〈私の地獄はその日から始まりました。
学校を思わせる建物の板の間の上に畳をのせ、カーテンで仕切りをした慰安所の前に軍人が並びました。
軍人たちはキップを持って来ました。土曜日は特に大勢きました。何十人もの軍人を機械的に受け入れ、死んだように寝ころがっている女たちは、彼らの共同便所でした。枕元には、ちり紙が花と咲きました。月に一度検診を受け、六○六号注射をされました。性病(梅毒)予防注射だとかーー。ほとんどの人が子宮はボロボロになっていきました〉
女衒に騙された女性、十二歳で慰安所の送られた者――、多くの痛みと苦しみの物語りが綴られている。

 金文淑氏は同書のあとがきで、こう記している。
〈植民地の女であるが故に犠牲にされ、男尊女卑世代の女であるが故に差別され、家父長的時代の女であるが故に泣かされた歴史は、私たちの世代でもう終わりにして、洋の東西、男女の性別、民族・文化の違い、経済発展の度合い、皮ふの色の違いを乗りこえて、支配と被支配から解放された、すべての人が人間らしく平和に平等に生きる社会を、次の世代に譲り渡すことこそ、今度の「歴史掘りおこし運動」の真の意義だと思います〉
 当時の慰安婦支援が、純粋な思いから行われていた活動であったことが、平和や平等という言葉遣いからも読み取れる。

挺対協(正義連)の欺瞞

慰安婦を支えた続けた半生から見えてきたものとは何なのか。


金文淑氏は「慰安婦問題については、日本は(公式に)謝ったことがないので謝るべきだ」と強く指摘する。

それと同時に、挺対協の変質についても語気を強めて批判を続けた。
「安倍首相は(日韓合意により和解・癒やし財団の設立で)10億円を支払うというが、私は元慰安婦のおばあさんは大きいお金を貰うべきではないと思っている。
 ただそれは、挺対協がハルモニに『貰うな』という意味とは違う。彼女ら「日本からお金を貰うな」と言いながら、慰安婦のために寄付されたお金を自分達で自由に使ってしまっている。許せないことです。

 水曜デモで金をかき集め、世界中の人から寄付を募っている。いまの挺対協もナヌムの家も、金儲け一途の団体でしかありません。全てはカネ・カネ・カネ。いずれお金に敷かれて彼女らは死ぬわ。何が正義(挺対協は『日本軍性奴隷制問題解決の為の正義記憶連帯』と名前を変えた)なのと思う。
 挺対協は行くつくところまで行き着いてしまった。口ばかりで金儲けばかり。本当は詳細な記録や証拠を残す仕事をしなければいけないのに、それらを疎かにしている。これ以上、慰安婦問題をおかしなものにしてはいけないと思う」

彼女は90歳を超える高齢とは思えない、情熱的な口ぶりで語り続けた。
そこには自らが人生を賭して取組んで来た慰安婦問題が変質してしまったことに対する、憤りを感じとることが出来た。特に「挺対協は詳細な記録や証拠を残す仕事をしなければいけない」という言葉に彼女の誠実さを感じた。
じつは慰安婦問題については、日本政府や私たちはその実態についてよく知り得ない部分が多い。慰安婦が何人いて、どのような生活を送っていたのか。それらの情報は挺対協や韓国政府のよってのみ管理され、日本側には公開されていない。日本政府はその実態を把握してないまま、――あるいは把握しようとせずにーー、問題解決に取組んでいるのだ。日韓で共通認識や事実の共有がないわけだから、議論がかみ合わないのも、ある意味当然だともいえる。

 未来、同じ過ちを犯さないためにも歴史に学ぶことは重要だ。そのためには記録や証拠を残し、実態解明を行うことは必要不可欠なことだと思われる。だが挺対協はその重要な仕事を疎かにしていると金文淑氏は嘆くのだ。

 近年、慰安婦問題において、スポークスマン的な役割を果たしてきたのが、金福童(キムボクトン)さん(享年92)さんや李容洙(イヨンス)さん(90)だ。元慰安婦として世界各地で証言を行い、日本の罪を告発した。金福童さんは15年の日韓慰安婦合意に反対する象徴的存在でありシンボルだった。彼女が亡くなったときの葬儀には文在寅大統領も駆けつけた。

 李容洙さんは米国訪問時に面会したトランプ大統領に抱きついたことでも有名になった元慰安婦で、現在も活発に慰安婦問題について発言を続けている。昨年、日本政府相手起こされた慰安婦訴訟でも法廷に立ち、こうパフォーマンスを繰り広げた。

 日本においても元慰安婦として彼女らを支持する団体もいれば、その経歴や派手な言動を批判する日本人識者もいる。

 良くも悪くも慰安婦問題の象徴である彼女らについて、金文淑氏は苦々しい思いを抱いているのだという。

「私は金福童を掘り起こしました。彼女が海岸で雑貨屋をしながら一人暮らしをしているところを訪ねて行って最初に話を聞いたの。彼女は慰安婦問題があることも知らなかったし、純粋なハルモニだった。それが挺対協や尹美香とくっ付いてからおかしくなった。私とあっても目も合わせないし挨拶ない。ありがとうも言わないのよ。
李容洙(イヨンス)みたいのも嫌い。彼女はトランプに抱きついたり、カメラの前でパフォーマンスをしたりして、“世界の李容洙”になっているかもしれないけど。その虚栄心が嫌なの。
彼女らは『私は英雄よ』というような振舞をするようになってしまった。立派な着物を着て、カメラの前でパフォーマンスをする。このように慰安婦を変えてしまったのも、尹美香や挺対協なの。そんな姿勢に耐えられなくて、私は彼女らとは縁を切ったのよ」

そう語ると金文淑氏、悲しそうな表情を見せた。彼女が支え続けた元慰安婦の一部は、市民活動家に唆されてしまった。金が人間を変えてしまったという悲しい物語に、彼女は絶望と怒りを感じているようだった。

「いまは市民団体とか慰安婦とは会わずに、資料館で歴史を後世に残す仕事をしているの」

そう語ると、「少しごめんね」と言い、資料館を訪れた若い女性のもとに足を運んだ。私がふと様子を伺うと、金文淑氏は嬉しそうに若者と談笑し、抱き合っていた。

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 再び取材に戻ると、金文淑氏は旧日本大使館前の少女像への不満を語り出した。

「少女像は闘争のシンボルじゃないのよ。だから少女像の周りで大騒ぎするだけの市民団体は大嫌い。私たちの願いは平和、もう戦争をしないこと。少女像は、本当は平和の象徴であるべきなのよ」
 そう語ると、私の手を握り「また来てね。一緒に食事が出来れば良かったのに」と別れを惜しんでくれた。

 平和の尊さを伝えるための活動は、いつしか諍いのための道具にされてしまった。

元慰安婦を愛した女性の物語は、セピア色の哀しみに彩られていたーー。




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