見出し画像

コラム 元週刊誌記者の呟き…

僕は短気だ。そして元週刊誌記者だけど、週刊誌の仕事が好きだった。

だからこそ同業の軽口にはカチンときてしまうのだ。

まぁ誰とはもう言わないが(終わったことなので、気になるかたは各自調査で)、同業がシノゴノ言ってきたなら、こちらはいつでも闘う覚悟はある。

新聞でもテレビでもそして週刊誌でも、記者はクズのやる仕事だと思っている。優秀な記者であるほど「好奇心」で取材をしている。その好奇心のなかから記者なり義が浮かび上がり、世間はそれを正義だと勘違いしてしまう。もちろん、正義感で取材に没頭することもあるけど、日々ニュースを追う記者は「好奇心」がまず第一の旗印となる。好奇心はときにゲスであり、クズでもある。でもクズのままでいてはいけないから価値ある仕事もしないとと思う。記者はベースはクズだと考えておくくらいが丁度いい。


不倫報道に意味があるのか。僕はフライデー時代に、それこそ1000回は考えた。それは僕はフライデー時代に政治班に在籍をしており、スクープ記事を出しても読まれないという現状にイライラを募らせていたからだ。

「くだらない」という意見がある。

僕も正直そう思ったこともある。

しかし、芸能班と共に張込みをする機会があると、そのプロの仕事ぶりに舌を巻くしかなくなった。どの有名人が何の車に乗っているか、ナンバーまでが頭に入っており。車を見失っても、いきなり鳥観図的な閃きで道をショートカットして追いついてしまう。僕に出来るのか、いや出来ない。くだらない、と思う前にプロの仕事をリスペクトしないといけないと思った。

それからフライデーで僕が政治報道を出来るのも、芸能班が雑誌を売ってくれるからだと考えるようになったのだ。そして芸能に負けない記事を出さなねばと頑張り、いくつかスクープらしきものが書けた。

記者の根源には「好奇心」がある。その意味でも芸能は「好奇心」の集大成のような業界であり、そして読者をも惹きつけるエンタメ要素がある。

記者としてあれこれ考えて、推察される回答は、けっきょく政治であっても事件であっても芸能であっても、読者が興味を持つのは「人間」だというシンプルな事実だ。

世間は広末涼子というタレントのヒストリーを知っているから、その不倫劇に「熱狂」というほどの反応を示すのだ。

「週刊誌はやり過ぎ」

そんな声も聞こえてくる。

それを言う人はたいてい雑誌を読んでなくて、ネットニュースしか読んでない人だ。週刊誌に書いているのは不倫の事実だけだ。CMを降板しろとか、社長を辞めろとなんて一文字も書いてない。それを要求するのは、主婦が購買層となっているCM企業、代理店、テレビ局、ワイドショーやコタツメディアといった、”世間”を作る人たちなのだ。

日記を出したことで、やり過ぎという人もいる。プライバシーの侵害だし、犯罪的であると。日記につのいての前段として、広末氏、鳥羽氏の両者が不倫を否定したという状況がある。週刊誌は真実相当性を証明するために、不倫の証拠を提示する必要があった、ということだと思う。


それを読者や視聴者が批判することは仕方ないと思う。人にはそれぞれ意見があり、文春が商品としてそれを出す以上はレビューを受けるのは必然だからだ。

正直、週刊誌記者は「ゲス」「意味がない」「ハエのような仕事」と散々罵声を浴びてきたし、「不倫報じていいのか」とか仕事をする意味があるのかを死ぬほど考えている。誰しもが。

責められる気持ちになってみろ、という意見もある。それも飽きるほど受けてきた。名刺を晒され、名前を晒され、SNSで記者のスキャンダル募集なんて日常茶飯事だった。僕も漫画にされ、写真をさらされ、記事への抗議で軟禁されるなど胆を冷やす経験を何度かした。

週刊誌は生体解剖だと言われる。生体解剖というのは比喩で、それだけ生々しく人間を記事で描くということだ。生身の人間を解剖するかのような記事を書くからこそ、刺激的で、血まみれで、グロテスクで、返り血も浴びる。そう返り血を浴びるのだ。

そんなメディアも、お上品さを求める風潮なかで、なんとかアジャストしようと日々骨身を削ってきた。試行錯誤し、試行錯誤し、結局辿り着く結論がゴシップとジャーナリズムの両輪で週刊誌を回していくしかないということなのだ。世間の望むものを提供しない、という選択肢はやはり持てない。

「やりすぎてないか?」、編集部では毎週のようにその議論が繰り返されている。熟慮のうえで、記事がウソだと言われないようなギリギリの線で勝負する。みな週刊誌を好きだから、真実を追い求め、あらぬ批判を受けぬよう突き詰めて仕事をするのだ。

だから、同業のメディア人が軽々と週刊誌批判をすることに、僕は「ちょっと待てよ」と言ってしまう。そんな指摘は死ぬほど考えてきた、いまさら何言ってんだ? と。

新聞、テレビ、週刊誌にはそれぞれ役割が違う。週刊誌は教養本じゃない。

多くの人が仕事の疲れを癒す時間帯に呼んでもらうメディアである以上、記事にはエンタメ要素がなくてはならない。

エンタメをしながら、ときに、たまに「この政権おかしいよね」、「芸能界っておかしくない?」という気づきを持っていただければ、記者は「やったぜ最高! 朝までのむか」と思うだけの仕事である。YouTube「元文春記者チャンネル」もそうした思想で取り組んでいる。


これは「元週刊誌記者チャンネル」LIVEでも語った話でもあが、雑誌ジャーナリズムのレガシーという記事がある。

それは「文藝春秋」が特集して田中角栄を退陣にまで追い込んだ「田中角栄研究 その金脈と人脈」(立花隆)、「淋しき越山会の女王」(児玉隆也)という2つの記事だ。

ジャーナリズム的には立花氏の記事の評価が高かったが、角栄を辞任の決定打となったのは「淋しき越山会の女王」だったと言われている。児玉氏の記事により愛人の存在が暴かれ、長女の真紀子が「こんなこと書かれて恥ずかしい!」と父親に退任を迫ったとされている。児玉氏の手法は週刊誌的なものであり、週刊誌はそのイズムを受け継がないといけない。

もし立花氏的な調査報道を「王道のジャーナリズム」、愛人をとことん取材して描いた記事を「感情のジャーナリズム」と定義するならば、瞬間的に感情ジャーナリズムが王道を上回ったことを児玉氏の記事は教えてくれた。だから週刊誌は感情ジャーナリズムと同義とも言えるゴシップを手放してはいけないのだと思う。

芸能ゴシップは感情ジャーナリズムそのものだし、ゴシップ取材のスキルは、ときに政治家を大きく追い詰める。

それを端的にあらわしたのが、いまの週刊文春である。いま業界を賑わせている広末涼子氏と木原誠二氏の不倫、この2つの記事は同じ記者が担当している。フライデー出身のパパラッチ一筋という敏腕記者だ。

読者のニーズを芸能記事で満たしながら、時にはそのスキルを政権中枢に向ける。木原氏の記事を他メディアでやるのは不可能だろう。なぜならば週刊誌が磨き上げてきた写真撮影のスキルを真似るのは難しい。ゴシップ記事で磨きに磨かれたスキルが近年の文春スクープ路線を支えてきたと言っても過言ではないのだ。

煎じ詰めればそれは週刊誌が「独立メディア」だから出来ることでもある。独立メディアとして刀を磨き続けているからこそ、芸能、政治の両面に忖度なく切り込める。

テレビ、新聞も芸能と無縁ではない。だからジャニーズに及び腰だし、利益も得ている。テレビであればドラマだし、新聞なら自社出版物の表紙だったりイベントだったり。そもそもテレビと新聞は資本関係で結ばれているグループ企業でもある。つまり、「独立メディア」と言えない部分がある。正直、新聞、テレビ記者の敏腕記者はとてつもないポテンシャルを持っているので、それを最大化させないのは企業として損失だと思うのだが――。

新聞記者は窮屈さを感じるからこそやりたい放題できる週刊誌に敬意を払ってくれるし、週刊誌記者もたまには新聞記者に負けない報道をしないとと頑張る。僕の周りの人間関係はほとんどそんな感じだった。ちっ笑

こんなこと書くと、よい記事出さないと引っ込みつかないなー笑 溜まっている仕事をやらないと。

(了)



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?