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短編小説「ボクの字」

 年末の大掃除で自宅の倉庫から埃を被った書道カバンが出てきた。僕が小学生の時に近所の教室で習っていた時に使っていたものだ。懐かしさに負けて掃除を中断し、カバンの中を探ってみた。渇ききった筆、墨の塊がこびりついた硯、ひとつひとつ取り出すたびに懐かしさが込み上げてくる。
 でも、当時の僕は書道が嫌いだった。


 毎週水曜日の放課後、みんなが友達と遊びに行く中、小学2年生の僕は2歳上の姉と一緒に書道教室へ行くことになっていた。
 書道を始めたきっかけは姉の「字を丁寧に書きたい」という願いからだった。それなら姉だけが教室へ通えばいいものの、「姉弟に対しては何事も平等にしてあげたい」という親の意向で僕も書道を習うことになった。
 当然、僕は書道に興味がなかったから、目の前に筆や硯を出されたからといって意気揚々と文字を書くなんてことはしなかった。
 書道の時間は午後3時から午後5時まで。その2時間の退屈をどうやって埋めるかを考えていた。
 先生は温厚なお婆さんだった。僕が書道に興味が無いと分かれば無理に書道を勧めるようなことはしなかった。
「ふうたくん、飽きちゃった?」
「べつに」
「おねえちゃん楽しそうに書いてるね。ふうたくんはどうかな?」
「うーん、あんまり」
 先生との会話に我慢ならない姉さんが僕を注意してくる。
「ふうた、ちゃんとやりなさい。字が下手になるよ」
「学校で筆なんか使わないもん。鉛筆だし」
 それを聞いた先生が僕に鉛筆を差し出した。
「じゃあ、鉛筆ならうまく書けるかな?」
 そう言って、教材を出しながら書写を勧めてきた。これくらいならば、と僕は渋々鉛筆を持ち、教材に書かれている俳句を専用の用紙へ書き出した。俳句の意味もわからないからただ字を真似しているだけで、その字の特徴を掴むくらいしかしなかった。
「おい、今週のアニメ」
 教室の隣の部屋から先生の旦那さんが顔を出した。姉さんは元気よく挨拶し、僕はよそよそしく会釈をした。
「はいはい、机の上に広告チラシでカバーしてるやつです」
 そう言われるとお爺さんは机を見渡し、チラシで包まれた分厚い本を手に取った。
「アニメ?」
 僕は不思議に思って作業の手を止め、お爺さんが手に取った本を覗き込んだ。そこにはワンピースのルフィやゾロが激しい戦闘を繰り広げていた。
「ジャンプじゃん。お爺ちゃん、それアニメじゃなくて漫画だよ」
「そうなの?」
「というか、お爺ちゃん大人なのに漫画読んでんの?」
「大人も読むんだよ。最近の楽しみ」
「変なの。子どもみたい」
「ふうた、口が悪いよ」
 姉さんが注意してくる。
 先生が言うには、お爺さんのボケ防止に漫画を読ませているそうだ。最初は小説を読ませていたが、文字だけでは飽きてしまうとのことで近くのコンビニで少年ジャンプを買って渡してみたところ、これが功を奏してハマったというわけだ。
「なんでチラシのカバーをしてるの?」
「うーん、やっぱりお爺さんが良い歳して漫画を読んでるってお客さんとかに見られたら説明するのも面倒だからね」
「ボケ防止にはなってるの?」
「なってるよー!ゴムゴムのピストル〜」
 姉さんと先生の会話を聞いていたお爺さんが隣の部屋から覚えたてであろうルフィの技名を叫んだ。
 こんな和やかな雰囲気の中で僕は書道を習っていた。


 書道教室に通い始めて2年が経ち、僕は小学4年生になっていた。相変わらず書道に対して身が入らない。
 それは大会の結果にも表れていた。毎年席書き大会という小学生の書道大会が冬にある。僕と同じように書道教室に通っている小学生が集まり、日頃の成果を発揮する1番の大会だ。課題となる作品を5枚書き、その内の1枚を提出して評価を貰う。下から銅賞、銀賞、金賞、特選、推薦という評価があり、僕はこの2年間で銅賞と銀賞をひとつずつ貰っていた。ちなみに姉は推薦を2つだ。
 たしかに僕のこの成績は良いものとは言えない。だってどんなに下手でも銅賞を貰えるし、そのひとつ上の銀賞だって初心者に比べれば上手いですね、程度のものだ。だけど、悔しいという気持ちは無く、当然だなと思っていた。頑張っていないんだから。
「おい、今週のアニメ」
「そっちの机の上にありますよ。チラシのカバー」
 お爺さんは相変わらず少年ジャンプのことをアニメと呼ぶ。お爺さんの読むワンピースのルフィは僕が書道教室に通っている2年間で仲間を増やし、数々の難敵を倒して成長していた。それに比べて僕はあまり成長していなかった。
 筆を使うことにもやっと慣れたが、書道には集中力が不可欠で、文字をひとつ書くだけで、もっと言えば一画書くだけでとても疲れる。それに比べて鉛筆で書く方は簡単だった。いつも学校で使っているからというのもあるが、鉛筆は筆よりも苦手意識がなくスラスラと書ける。筆よりは集中しなくても書ける。だから鉛筆の字は上手くなったと自信を持って言える。時間をかけて集中すれば、という条件付きではあるが。

 ある日、事件が起きた。
 ある放課後、友達と外で遊ぶことになり、急いで家に帰り、ランドセルから宿題の漢字の書き取りプリントを取り出して、乱暴に書き殴った。
 僕の家には、宿題を済ませてから遊びに行くというルールがあって、必ず守らなければならなかった。守らなかったら親に怒られるからだ。
 僕は早く遊びに行きたいがために、漢字の書き取りを雑にしてしまった。書き始めてから汚い字だなと思ったが、一筆書きのような繋げ字も悪くないなと誤魔化して、宿題を済ませたには済ませた。それから僕はプリントや鉛筆、消しゴムをそのままに家を出た。
 たくさん遊んで帰って来た時だった。プリントを見返すと綺麗に字が消えていた。僕は驚いてしまった。よく見ると机の上に消しゴムのカスがたくさんあり、消しゴムも家を出る前より小さくなっている。
 すると、親が僕を呼んだ。
「宿題と筆箱を持ってこっちへ来なさい」
 何の感情も無いように僕へ向けて放たれた言葉に、怒られるの文字が頭を駆け巡った。
 僕がリビングに行くと親が椅子に腰掛けていた。
「そこに座って。私の前で宿題をやりなさい」
「宿題はやったよ。何で消すの」
「あんな汚い字で?」
「やったことには変わりないよ」
「口答えしなくて良い。あんな汚い字じゃやる意味がない。せっかく書道教室にも通わせているのに」
「通いたいなんて言ってない」
 僕がそう言い終える前に親はテーブルの上にあったティッシュ箱を僕へ投げつけた。
「いいからやりなさい」
 僕はどちらにせよ宿題をやらなきゃならなかった。このまま提出はできない。
 親の前で鉛筆を持って、1字1字を丁寧に書いていく。とても長い時間が流れたように思えた。時折、僕の集中が途切れて字が雑になると親から注意され、自分の中では丁寧に書けたとしても消しゴムで消して再び書き直した。この繰り返しだ。
 やっと親が納得する字で宿題を済ませた。とても疲れて何もする気が起きなかった。他の家ではこんなに厳しく宿題をしているのか不思議に思った。

 次の日、宿題を提出する時、隣の席の子から声をかけられた。
「ふうたくんの字、すっごい綺麗だね」
 その声が集合の合図になった。
「見せてー、本当だ。綺麗」
「え、ふうたが?あ、本当だ」
「おまえいつも汚い字じゃん」
 僕の字が汚いのはササっと早く済ませるからだ。丁寧に書こうと思えば書けるんだ。そんなことを思っていると、耳を疑うことを言われた。
「これ、親が書いたんだろ?」
「そうだよ、ふうたくんがこんな綺麗に書けるわけないよ」
 そんなことを言われるもんだから、僕は反論して、この宿題は自分で書き上げたことを必死に伝えた。
「じゃあなんで普段から綺麗な字で書かないんだよ」
 それは疲れるから、と伝えたところでみんなは納得してくれなかった。
「おまえ、ズルは良くないぞ」
 親に宿題を消されたことを言おうとしたけど、なぜか言えなかった。言えばもっと惨めな気持ちになる気がしたからだ。
 すると、僕に言葉をぶつける友達の中に僕とは別の書道教室へ通う友達が口を挟んだ。
「ふうたって書道習ってるよね。わたし、席書き大会出てるから知ってるよ」
「え、じゃあ字が綺麗ってことじゃん」
「いや、それがそうでもないよ。銀賞とか銅賞だもん」
 席書き大会の結果は冊子になり、この地域の書道教室へ配られるため、誰もが分かってしまう。僕もそいつが推薦の評価を貰っていることをその冊子で知った。
「だからそこまで上手じゃないんだよ」
「ふうた、書道習ってるくせに下手って」
 そう言われながら笑われたのが僕はとても悔しかった。
 その日はずっとイライラしていた。僕は間違ったことは言っていないし、あの宿題も僕の字で書いたものだ。でもみんなは理解してくれない。
 家に帰り、僕はすぐにベッドへと潜り込んだ。こんな悔しくて惨めな姿を誰にも見せたくなかった。夕飯も食べたかどうか怪しかった。
 カレンダーを見ると明日は水曜日で、その2ヶ月後には今年の席書き大会が開催されることがわかった。

 水曜日になり、姉と書道教室へ向かった。
 僕は教室へ入るなり、すぐに下敷きや硯を用意した。
「あれ?ふうたくん、今日はやる気だね」
 先生が少し嬉しそうに僕へ声をかけた。
 姉さんも少し驚いた様子で準備を進めている。
「先生、席書き大会の課題って何?」
「席書き大会まであと2ヶ月もあるよ?もう練習するの?」
「うん」
 先生は課題を調べてくれて、お手本を僕に書いてくれた。「ふれあい」それが課題だった。
「どう?上手に書けそう?」
「余裕」
「よーし、頑張ってね。この前は銀賞だったから今度は金賞かな?」
「推薦取りたい」
 そう答えた僕を見て、先生は嬉しそうだった。
「おい、今週のアニメ」
「そっちの机の上にありますよ。チラシのカバー」
 お爺さんが顔を出した。
「こんにちは」
 僕は礼儀正しく大きな声で挨拶をした。
「お、ふうたくんこんにちは!今週のルフィはかっこいいぞ〜」
 お爺さんが腕を引いてルフィの技を真似しようとしていると、先生が無言で手を振り、お爺さんに出ていくように伝えた。
「お爺ちゃんごめんなさい」
 そう言って僕は頭を下げた。

 僕はそれから書道教室で練習するたびに何十枚と「ふれあい」を書いた。2時間の書道の時間だけは書道だけに向き合おうと意識した。はじめのうちは集中が続かず、疲れてばかりだったが、先生が励ましてくれるし、姉さんは僕に負けじと練習を重ねているから、字を書くことへの執着や体力は次第に付いていった。
 学校の授業や宿題も丁寧に字を書こうと意識した。もう怒られたり、誤解されるたりするのが嫌だったからだ。思えば、僕の日頃の行いがあの時の僕の字と違ったから説得力が無かったんだ。僕が頑張ったら、それは字に表れてくると思うし、それを見た周りの親や友達も納得するだろう。筆と鉛筆は違うけれど、何か通ずるものはあるはずだ。
 もうあんな悔しい思いはしたくない、そんな気持ちが僕を動かした。

 書道教室では何十枚も書いた後、先生に上手くかけたと思う作品を10枚ほど提出するようにしている。それらに先生が赤い墨汁で添削をしてくれる。それを見ながらまた次の練習に活かすようにしていた。
 赤字で書かれたバランスの整った字が僕の書いた黒い字の上に書かれていくことばかりだ。時折、先生が「この払いは上手に書けたね」と、その部分に小さく丸をくれる。それがとても嬉しかった。いつか僕の字全体に大きな丸を書かせたいと思うようになった。

 週1回の書道教室は席書き大会の1ヶ月前になると土曜日の午前中も開かれるようになって週2回となった。
 一昨年、去年も同じように教室は開かれたが、その頃の僕はただ時間が過ぎるのを待って何も成長していなかった。
 でも、今年の僕は少し違うはずだ。推薦の評価を貰うためにどうすればいいか先生に字の添削をしてもらいながら何十枚と書いた。先生に提出する10枚の「ふれあい」を選ぶのも苦労するくらいに字のバランスも整ってきていた。大会当日は5枚しか書けない。その5枚のために、全国の小学生は何百枚と練習をしている。僕を笑ったあの子も実は必死に練習していることだろう。

 土曜日の教室を終えて、僕が帰ろうとしていた時、お爺さんが話しかけてきた。
「ふうたくん、今度の席書き大会はどうだ」
「まあまあかな」
「よく練習するようになったよね」
「うん、まあ」
「アニメ読むか?」
「大会が終わったらね」
「立派だ」


 そうして、席書き大会当日を迎えた。
 会場は去年と同じだったが、この大会に臨む僕も雰囲気も違っていた。
 指定された席で「ふれあい」の課題を5枚書く。およそ1時間ほどの規定時間の中で僕は2ヶ月間の全てを詰め込んだ。一画一画を全身全霊で悔いのないように、墨を染み込ませた筆を紙へと運び、止め、払い、ひとつひとつに神経を注いだ。
 5枚を書き終えた後は何かが自分の中から抜けた気がして身体が軽くなった。
 僕は自分で1番納得いく1枚を選んで提出した。


 席書き大会の評価が発表される日はちょうど水曜日だった。
 教室へ姉さんと行き、先生から席書き大会の冊子をもらった。
 推薦、特選、金賞、銀賞、銅賞と分けられており、僕は推薦のページで自分の名前を探した。僕の名前を見つける前に同じクラスのあの子の名前を見つけた。姉さんの名前も推薦のページに載っていた。さすがだ。
 僕は僕の名前を必死に探した。

 僕の名前は、そのページには載っていなかった。その次の特選のページにも僕の名前は無かった。
 僕の名前は、金賞のページに記載されていた。

 冊子を持つ僕の手に力が入る。
 2ヶ月の僕の努力は去年よりもひとつ上の評価を貰うにとどまった。それを知って僕の中で何かが切れてしまったように感じた。
「ふうたくん、金賞おめでとう」
 先生はそう言ってくれたが、僕は納得できなかった。
「審査員の先生にふうたくんの字の感想を聞いてみたのね」
 僕は逃げ出したくなる気持ちを抑えて、先生の話に耳を傾ける。
「ふれあいの「あ」の最後の払い部分がもっと思い切り払っていれば特選にしていたそうだよ。とても悩んだんだって」
 それが本当かどうかはさておき、そう言ってくれたのがせめてもの救いだ。
「ふうたくん、今回の大会はどうだった?」
「べつに」
「頑張れた?」
「うん、たぶん」
「これからも頑張れそう?」
 僕は黙ってしまった。先生の顔も見れなかった。悔しくてたまらなくなっていて、先生の穏やかな顔を見たら泣いてしまいそうだったから。
「おい、今週のアニメ」
「そっちの机の上にありますよ」
 お爺さんがこのタイミングで入ってきてくれて少しホッとした。少し息を吐いて、今日の書道教室に向けた準備のためにカバンから硯などを取り出した。
 すると、お爺さんが教室へ入ってきた。
「おい、いつものアニメじゃないぞ」
 お爺さんの手には広告のチラシで作られたカバーがかけられた紙の束があった。大きさは少年ジャンプと同じくらいだが、厚さが少年ジャンプよりもずっと分厚い。
「あ、それはふうたくんにあげるの。アニメはそっち」
 先生がお爺さんからその紙の束を貰い、机の上の少年ジャンプを指差した。
「はい、ふうたくん」
 先生は僕に紙の束を渡した。
 広告のチラシでできたカバーを開いてみると今まで書いた「ふれあい」が束ねてあった。ひとつひとつには先生の赤い字が書いてある。
「大切に取っておいたの。汚れないようにカバーをかけておいたんだけど、お爺さんがアニメと間違えちゃったね」
 僕はその紙の束を両手で軽く潰して厚さを確かめた。
「先生、ありがとうございます」
「いえいえ」
「次はどんな課題ですか」
「うーん、また来年だからね。まだ分からないかな」
「次も頑張ります」
「そうだね」
 そう言って、僕は硯に墨汁を注いだ。


 埃まみれの書道カバンから広告チラシのカバーだけが出てきた。たくさん書いた「ふれあい」は別のどこかにあるかもしれない。
 今思えば、たったの2ヶ月で推薦を取ろうとしていたのは甘かったと思う。みんながみんな良い評価を貰うために何十枚も何十時間も時間をかけていたわけなんだから。
 僕の努力はあの少年ジャンプの厚さに似る程だったけど、他の子は広辞苑や六法全書ほどの厚さになっていたのではないか。
 でも、あれほど集中して何かに向けて努力したのは初めてだったと思う。この先の僕は何に向けて努力していこうか、少し考えさせられる。
 そんなことを思い返し、僕は掃除の作業を再開した。
 今年の年賀状は筆で書いてみようかな。何十枚も下書きをしないといけないな。





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