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短編小説「むしゃむしゃしてやった」

 スーツを着るのは成人式以来だった。2年ぶりに着たワイシャツはネクタイをまだ付けていないのに首元が苦しかった。なるほど、腰のベルトに肉が乗るということはこういうことか。体重計に乗る習慣が無いため、今の体重が20歳よりどれほど増えているのかは正確にはわからないが、二重顎、赤子のようなふくよかな腹回り、ふくらはぎと見間違うほどの太ももから名前の通り太ったももになるなど、10キロ増えていても過言ではないほど醜く肥えているだろう。
 実を言うと、半年前まではスッキリとした体型だった。顎や腹に肉が付くなんてもってのほか、ほぼ毎日のように筋トレを続け、時間さえあればランニングをする毎日だった。さらに言えば、当時はハーフアップに出来るほどの長髪であったため、満員電車に乗れば痴漢に遭って下半身を弄られるほど体型に自信があった。


 いよいよ自分にも現実を生きなければいけない時がきた。上京してから約4年、役者の道を志していた自分が、「就職」の道へと進もうとしている。それが自分にとっては絶望だった。
 どんな辛いことがあっても、どんな理不尽な世界であっても、役者の世界で生きていきたかった。オーディションで落とされて「お前はこの世界に必要ない」と言われたような気がしても、役者の仕事ではなく、裏方業務を依頼された時も断ることなく引き受け、死に物狂いの日々を過ごしていた。
 毎日、どうやったらたくさんの人間を演じることができるか考えていた。仕草を細かく研究したり、人それぞれの価値観やそれに影響を与えたバックグラウンドの想像など、頭の中は役者としての目標を達成するための思考でいっぱいだった。
 少しずつ、自分の活動と収入が見合ってきて、役者や裏方業務での収入だけで生活がギリギリできるようになった。スーパーでの試食コーナーのひとくちが夕食代わりになっていたり、キシリトールガムが朝食となるような生活だったが、生きている実感があった。

 そんなある日、実家から連絡が入った。簡単に言えば「継いで欲しい」とのことだった。地元で就職し、家を守って欲しいとのことだった。
 役者業もこれからという時に、思わぬ出来事だった。
 もちろん、自分には家を継ぐ選択肢は無かった。それ故に家族とは絶縁間近の争いをした。
 自分なりに自分と家族を天秤にかけて、最終的に家族を選んだ。今でも正しい選択だったかはわからない。
 東京にいる役者仲間からは「自分の好きなことをすれば良い」と言ってもらえる。かたや地元では「家のために地元に帰ってくれるなんて立派だね。ご家族は嬉しいだろうね」と褒めてもらえる。結局は自分が判断することなのだが、自分にとっては板挟みの状態だった。理想は「家族のことを守りつつ、挑戦を続けること」だった。当時は自分がもっと圧倒的に売れていればと思う日々だった。しかし、役者業で一人前とは言えない自分に見切りをつけ、けじめをつけて全ての仕事を断った。とても苦しかった。
 役者業の収入が無くなったため、アルバイトのシフトを増やした。さらに少しでもひとりの時間ができると役者業を続けたい欲と家族について考えてしまうため、アルバイトを増やし、4つほど掛け持った。起きてから寝るまでをアルバイトで埋めた。
 おかげで役者業以上の収入を確保できたが、家族との喧嘩が絶えない日々と無理矢理忙しくして休みのない日々で、自分の心は亡くなっていった。
 何を選べば自分も家族も納得するのかに疲れると食で癒やそうとし始めた。

 それからは想像通りで、自信のあった体型も醜くなっていった。役者を続けるための栄養の確保や体型維持なんておかまいなしに食べ続けた。食事の時間は思考を停止するための単純作業となっていた。
 時には食べる余裕が無くても無理矢理お菓子やコンビニ弁当を口へ運んだ。美味しいなんて思わなかった。自然と涙が流れたが、気にすることはなかった。

 ある時、レストランのバイトをしていた時のこと、帰った客の席を片付けていると、隣のテーブルで午後3時の余暇を楽しむ中年女性客2人の会話が聞こえてきた。
「そうだ、ニュース見た?受験生の」
「見たわ。しかもここら辺の公園だっていうじゃない」
「そうなのよ。怖いわよね、遊んでた小学生をバットで。相当追い込まれてたのね」
「親の躾が歪ませたのかしらね、良い大学に行かせようとしてたなんて聞いたわ」
「まあ、子どもからしたらプレッシャーよね。むしゃくしゃしてやっちゃったんじゃない?」
「むしゃくしゃって、それで被害に遭う周りはたまったもんじゃないわね」






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