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短編小説・京都あやかし法律相談所

仏師の相続とサルのあやかし

「ピンポーン」
 事務所入口のチャイムが鳴った。
 午前5時すぎ。
 2月の寒い日で、まだ外は真っ暗だ。
 オレがデスクに座ったまま、チャイムを無視して書類を読んでいると、事務所のそれほど明るいとは言えない照明の下で、目の前にフワフワと宙に浮かぶ物体が現れた。それは、狸とも栗鼠とも区別のつかない小動物のようなものなのだが、毛玉のようにしか見えない。事務所の中は、まだ暖房が効いておらず、肌寒いが、それは毛玉でコロコロとしていて暖かそうだ。
「ボン、せっかくチャイム鳴らしてんから、ドアを開けてくれはってもいいんちゃいますか?」
 その毛玉が、オレに抗議するように話しかけてきた。
「ポー、うるさいわ。お前、ドア開けんでも、入ってこれるやろが。」
 オレは、その毛玉に向かって言った。

 オレの名前は、春日直人。33歳。
 京都の裁判所近くで、春日小路法律事務所という法律事務所を開いている弁護士だ。
 弁護士になる前は、検事を3年間やっていた。弁護士になってからは別の事務所に2年間勤めて経験を積んで独立し、現在の事務所を始めてから約4年になる。
 そして、今、オレの目の前に浮かんでいる、ポーという名の毛玉のような物体は、あやかしだ。この世に存在している人でも動物でもないもの。精霊や妖怪などと呼ばれることもある。しかし、その実態は未だによく分からない。
 誰にでもその存在を認知できるわけではないらしい、というか、ほとんどの人は認知できないようである。なぜかオレは、その姿が見えるし、話しをすることもできる。

「それで、今日は、何の用や?」
 オレは、ぶっきらぼうに聞いた。
「そんな、つれない言い方せんでも……。」 
「用がないんなら、帰って。オレは、忙しんや。」
 ポーが不満を口にしたので、オレはさらに冷たい口調で言った。
「せっかく、ボンに、ええ情報持ってきたのに。そんな言い方するんやったら帰ります。」
「まあ、待て。ほんで、そのええ情報って何や?」
 オレは、なだめるように聞いた。
「聞きたかったら、聞きたいて素直に言うたらええのに。まあ、よろしいわ。」
「ボン、今、仏師の相続やってはるでしょう。」
「ああ、やってるけど、なんでお前が知ってるんや。」
「あたしは、ボンのことなら何でも存じ上げてます。」
「それはええから、早、話せ。」

 確かに、今、オレは、亡くなった仏師の相続事件を手がけている。
 仏師というのは、彫刻家の中で特に仏像を専門に作る者を指す。
 代々、仏師をやっている家の父親が亡くなり、その2人の息子の間で相続争いが起きた。
 オレはその2人息子のうち、弟の方から依頼を受けている。
 その父親は、突然の心臓発作で亡くなったため、遺言書は作っていなかった。また、その妻は数年前に病気で他界していた。
 こういう場合、相続については、相続人である2人の息子が話し合って決めることになる。
 ところが、なかなか話し合いがつかず、それぞれが弁護士を依頼して交渉をすることになったのだ。父親が残した遺産は、自宅兼作業場の土地建物、その裏にある山、それと預金だった。

「裏山のことですわ。」
 ポーが話しを続けた。
「この裏山を手に入れたがっているあやかしがいるそうで、それが一月ぐらい前に天王山を追われてこっちにやってきたあやかしなんですわ。」
「天王山って、あの大山崎にある、天下分け目のってやつか?」
「その天王山です。」

 天王山というのは、、京都府乙訓郡大山崎町に位置し、大阪府(昔の摂津国)と京都府(昔の山城国)の国境をよぎっている山腹のことだ。本能寺の変で織田信長を討った明智光秀が豊臣秀吉と戦った山崎の戦いでは、この天王山を制した方が天下を取ることになるとして、「天下分け目の天王山」と言われた。

「確か、天王山には、牛頭天王(ごずてんのう)という神がまつられているんやな。」
「ようご存知で。そのあやかしは、悪さばかりした上に、しまいには自分が神に取って代わろうなどという大それたことを考えたらしく、牛頭天王の怒りをかって、天王山を追い出されたらしいですわ。」
「なんで、そんなあやかしが、裏山を欲しがっているんや。」
「そこまでは分かってません。」
「また、そこらへんのことが分かったら、教えてくれるか。」
「ボンの頼みとあれば、任せといてください。」
「じゃあ、頼むわ。」
 ポーは、オレから願い事をされて満足したのか、今朝はやけにあっさりとオレの目の前から姿を消した。

 そういえば、ここ一月ぐらい前から、あやかしからの相談がやけに増えていた。
 オレの事務所は、表向きは人間相手の法律事務所だが、裏では、あやかし相手の相談所もやっている。あやかし相手であっても、建前上は「法律相談」に限るとしているのだが、あやかしに人間のような法律があるわけもなく、結局は、よろず何でも相談のようになってしまっている。
 あやかしに日中事務所に出入りされると、あやかしの姿が見えたり、あやかしの声が聞こえたりするのはオレだけだから、事務員には、オレが長々と独り言を言っているようにしか見えないだろう。
 それでは、事務員はみんな気持ち悪がって、すぐにやめてしまう。それでは困る。
 なので、あやかしからの相談は日の昇る前の早朝に受けることにしている。そのため、オレの朝はいつも早い。
 そのあやかしからの相談が、ここ一月ぐらい前から増え始めた。
 その内容は、いずれも漠然としたもので、何か嫌な予感がして不安だとか、何か大きな脅威が迫っているようで不安なので調べて欲しいとかいった類いのものばかりだった。
 みんな、一様に怯えていた。あやかしには、人間にはない未来予知のような能力を備えているものも多いので、あながち嘘や思いすごしだとは思わなかったが、それだけでは何も調べようがなかった。
 今のポーの話しからすれば、時期的に見て、どうやら、あやかしたちの不安の原因は、その天王山を追われてこっちにやってきたあやかしにあるらしい。

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 オレは、あらためて依頼を受けている相続事件のことを頭の中で整理してみた。
 亡くなった父親は、それほど有名な仏師ではなかったが、質素な生活をしており、残した預金が5,000万円あった。
 2人の息子のうち、兄は父親の跡を継がずに東京の大学に進学し、現在は商社に勤めている。
 弟は、高校を卒業後に父親の跡を継いで仏師となり、父親と同居していた。
 2人が相続の話し合いを始めた当初、兄は、自宅兼作業場の土地建物、その裏にある山には全く興味はなく、とにかく1円でも多くの預金を渡すよう求めていた。
 弟は、仏師の仕事を続けていくには、自宅兼作業場の土地建物が必要であったし、その裏にある山についても父親から先祖代々守ってきたものなので、守り続けるよう言われていた。
 ただ、自宅兼作業場の土地建物も、その裏にある山も、京都市左京区の外れにあったので、たいした財産価値はなかった。
 自宅兼作業場の土地建物とその裏にある山とを金銭的にいくらと評価するかについて、兄弟だけでは埒があかず、しかも預金がそこそこ高額であったので、互いが弁護士を依頼して交渉することになったのだ。
 オレは、知り合いから紹介を受けて、弟の代理人として、兄の依頼した弁護士と交渉を始めていた。

 初めは、お互いに知り合いの不動産業者などに頼んで、 自宅兼作業場の土地建物と裏山の査定、つまりいくらぐらいなら売れるのかという金額を出してもらい、それを突き合せて、交渉をしていた。
 ところが、先日、兄の依頼している弁護士から連絡があり、突然これまでの方針を変更して、兄側は裏山が欲しいと言ってきた。そして、兄が裏山を、弟が自宅兼作業場の土地建物をそれぞれもらい、預金は半々に分けるというのでどうかという提案をしてきた。
 裏山よりも自宅兼作業場の土地建物の方が財産価値が高いのは明らかであったので、兄の依頼する弁護士からの提案は、金銭面だけで見れば、弟側にとっては魅力的なものだった。
 なので、オレは、弟が父親から裏山を守り続けるように言われていたことは承知していたが、依頼者である弟に対し、兄の依頼している弁護士からの提案を検討するように言っておいた。
 そして、今まさに、その検討をしてもらっている最中で、3日後に打ち合わせをして、その回答をもらうことになっている。
 ポーの話しを踏まえると、どうやら兄の方に、その天王山から追われてきたというあやかしの手の者から、裏山を高額で購入するというオファーが入っているにちがいない。
(いったい何を企んでいるのやら。)
 どうやら、オレは、また厄介ごとに巻き込まれたようだ。

現地確認

 その3日後、オレは、依頼者である弟と、事務所で打ち合わせをしていた。
 オレの事務所の春日小路法律事務所という名前は、オレの名字の春日だけではなく、この事務所が丸太町通に面しており、丸太町通が昔は春日小路と呼ばれていたことから、この2つにかけている。
 弟は、金銭面だけで言えば、兄の依頼している弁護士からの提案は魅力的なのだが、自分は、生前、父親から、先祖代々守ってきた裏山を守り続けるよう言われてきていたので、この言いつけを守りたい、つまりその提案には乗らないと回答してきた。
 これは、オレの予想通りだった。おそらく、父親の跡を継いで仏師となり、父親を師匠として尊敬していた弟は、父親からの言いつけを守るだろうと予想していた。
 オレは、弟に、最近、誰かから裏山を売って欲しいという話しがなかったか聞いてみたが、そのような話しはないとのことだった。
 また、オレは、裏山には何かあるのかを聞いたが、山腹に小さな祠(ほこら)が1つあるだけで、あとは雑木林しかない何の変哲のない小さな山だということだった。
 オレは、このままだと弁護士を入れての交渉では解決の見込みがつかないので、家庭裁判所で調停という手続をすることになり、それでも話し合いがつかなければ、審判という手続になって、最終的には裁判所に決めてもらうことになること。そうなると、少なくとも、双方が欲しがっている山林にいては、山のどこかに線を引いて2つに分け、その半分ずつをそれぞれがもらうか、あるいは山全体を競売にかけてその代金を折半することになるかもしれないということを、弟に説明した。
 弟は、父親の言いつけどおりに裏山を守り続けたいので、何とか裏山をもらえるよえに頑張って欲しいとオレに言って、帰って行った。

 さて、困った。
 こうなれば、裏山を高額で購入するという兄側に対するオファーを、何とかして阻止するしかない。
 オレは、とりあえず、その裏山に行ってみることにした。
 その翌日、オレは、依頼者である弟に連絡を入れ、早朝からその住居兼作業場を訪れた。
 その住居兼作業場は、人里から少し離れた山すそにぽつんと建っていた。
 平家だてのシンプルな建物で、中に入るとそれほど広くはなく、住居部分の隅に小さな作業場が設けられていた。そこは人が2人一緒に作業できるようなスペースではなかった。
 弟に聞くと、父親が作業をしているときには、弟はただそれを見ているだけで、自分は父親が作業を終えたあとか、作業をしていないときにしか作業をすることはできなかったということだった。ここでは、未だに見て覚えろという昔ながらの徒弟制度による技の継承が行われていたようだ。

「先生、仏様を彫るのが、仏師だと思われているかもしれませんが、それは違うのです。私たち仏師は、木の中におられる仏様を、木の中からお出ししているだけなのです。」
 作業場のスペースを眺めていたオレに、弟が教えてくれた。
 建物の中は、小さな石油ストーブ以外には暖房器具がなく、かなり寒かった。また、窓は小さく、天窓から入ってくる明かりがなければ、昼間でも薄暗いに違いなかった。
 出してもらったお茶をごちそうになってから、オレは、裏山を案内してもらうことにした。
 暖冬ということもあって、その日は雪は降っていなかったが、裏山に踏み入ると、そこにはまだ溶けていない雪が残っていた。
 裏山は、お世辞にも整備されているとは言えない状態で、山道もはっきりとしていないような中を、弟は勝手知ったるという感じで、ずんずんとかき分けて進んでいった。
 オレは、その後を白い息を吐きながら、懸命について行った。スニーカーを履いてくれば良かったと後悔したが後の祭りだった。いつもピカピカに磨いている革靴が、草や泥で汚れてしまった。しかも、歩きづらい。
 それでも我慢して15分ほど歩くと、目の前に石でできた小さな祠が現れた。周りを草や木で覆われていはいたが、一見して祠であることは分かった。
「この祠には、何がまつってあるんですか?」
 オレは、以前に、弟から、祠のことは何も知らないと聞いていたが、念のためにもう一度聞いてみた。
「さあ、本当に何も聞かされていないんですよ。もしかしたら、父親も知らなかんじゃないでしょうか。」
 オレは、亡くなった父親が何の事情も知らずに、ただ裏山を守れと言い残したとは思えなかったが、ここは話しを合わせておくことにした。
「そうかもしれませんね。私は、もう少し、祠を見てみますので、作業に戻ってください。」
 オレが声をかけると、弟は、素直に住居兼作業場へと戻って行った。

 依頼者である弟が戻って行くのを見届けると、オレは、ポーに話しかけた。
「ポー、あれから何か分かったか?」
 ポーは、オレが住居兼作業場を出たころから姿を現し、オレの顔の右横あたりを、いつものようにフワフワと浮かびながら付いて来ていた。当然、弟には見えていない。
「天王山を追われてきたのは、テンと名乗っているサルのあやかしのようです。」
「天王山やから、テンか。ベタなネーミングやな。」
「あやかしの名前って、そんなものなんか?」
「もともと、あやかしに名前なんかありませんしね。」
「じゃあ、どうやって名前がつくんや?」
「人間が勝手に呼んでいるのが名前になったり、あとは今回のように自分で名乗るかですわ。」
「お前は、なんで、ポーやったっけ?」
「そんな無責任な。ボンが勝手にそう呼んだはるんでしょうが。」
「そうやったかいな。まあ、ええわ。お前は、昔からポーやし。」
「それはいいとして、ボン、その祠、何をまつっているか知ってはりますか?」
「いいや、分からん。ただ、これえらい強い封印がされてるな。」
「さすが、ボン。ここに封印されてんのは、山の神やと思います。」
「山の神?」
「そう、大蛇の姿をした山の神やと思います。」

 オレは、祠に近づいて、中を覗いてみた。
 一見何の変哲もない石造りの祠だが、強い霊気で封印されていることが分かる。
 そして、言われてみれば、その封印された中には、かなり強い怨念に満ちた気が感じられる。

「ポー、なんで神様が封印されてるんや?」
「ボンもご存知のように、神はその逆鱗に触れると、天変地異を起こして人を滅ぼすこともありますねん。」
「ちゅうことは、過去にここの山の神の逆鱗に触れることが何かあって、天変地異を恐れて誰かが封印したってことか?」
「そうなりますね。」
「誰が封印したんやろ?」
「そこまでは分かりませんが、ボンの依頼者の関係者とちゃいますか?」
「まあ、いいわ。そろそろ帰ろか。」
 オレは、ポーと連れ立って住居兼作業場に戻り、依頼者である弟に挨拶をして、事務所に戻った。ポーは、住居兼作業場に着くころには既に姿を消していた。

調査開始

 オレは、事務所に戻ると、あの祠のことを調べてみた。調べるといっても、ネットでググったぐらいでは何の情報も出てこないし、そこいらには資料や文献も見当たらない。
(仕方ない、あそこに行くか。)
 オレは、船岡山に向かった。
 船岡山は、京都市北区にある標高112メートルの山というよりも小高い丘だ。
 オレはその船岡山の山頂まで登ると、三角点のあたりに立った。そして、精神を集中して、京都の北の山々の守護神である玄武に頭の中で問いかけた。この船岡山そのものは玄武の本体ではないが、玄武の頭の先端部分に当たる。
 しばらくして、オレの頭の中に、玄武からの返事が返ってきた。
(ボン、しばらくだな。お前は、もう能力は使わないのではなかったのか?)
(そのつもりやったんですけど、仕事柄どうしても必要になってね。)
(それはお前のやっている弁護士とかいう仕事のことか?)
(そうです。)
(嘘つけ。そればっかりではなかろう。京都のあやかしどもを守るためであろう。)
(まあ、結果的には、そういうことになるかもしれませんけどね。)
(素直じゃないのう。まあいい。お前の知りたいことを教えてやろう。)
 玄武が教えてくれた話しによると、元々例の祠のある裏山一帯は、山の神の化身である大蛇が守護していた。そして、その一帯では、男たちは木こりをして、伐採した木材で筏を組んで、川を下って都に木材を届け、女たちは炭を焼いて、これを背負って峠を越え、都に炭を届けることで生計を立てていた。みんな、大蛇を山の神と崇め、手厚くまつっていた。
 ところが、その後、男たちは木こりをやめて稲作をするようになり、女たちも炭焼をやめて畑作業をするようになり、山の神である大蛇に山から下りてきて、田の神になってくれるよう懇願した。
 しかし、この山の神は、これを拒み、これまで通りに自らを山の神として崇め、まつらなければ天変地異を起こして、人びとを滅ぼすと脅してきた。
 そこで、これを阻止しようと立ち上がった者がいた。この一帯には、古くから藤原氏系列の物部氏が住み着いいていた。物部氏と言えば、かつては軍事、呪術をつかさどっていた氏族であり、その中に神を封印する能力を有する者がいた。
 そして、その者が、山の神の化身である大蛇が天変地異を起こす前に、例の祠に封印したということであった。

(そんなことがあったんですか。さすがは、玄武神、よくご存知で。)
(世辞はいい。それで、ボン、その祠がどうかしたのか。)
(いやね、どうやらその封印を解こうとしているあやかしがいるみたいで。封印を解いて、いったいどうしようというのか。)
(ボン、それはたぶん、そのあやかし、己が神になろうとしているのではないか?)
(へえ、そんなことができるのですか?)
(さあなあ、ただ封印されている山の神は、もう800年は封印されているので、怒り心頭で我を忘れて守護神から祟り神に変わっているやもしれん。そうすれば、あやかしにもつけいる隙がある。神にはなれんでも、神を操ることぐらいはできよう。そうなれば、己が神になるのと、それほど変わらんではないか。)
(それは、まずいですね。封印されていても分かりますが、あの山の神はかなり大きなパワーを持っている。それが祟り神になって、あやかしに操られでもしたら、京都一帯のあやかしだけでなく、かなり多く人々が犠牲になるかもしれない。)

 そういえば、ポーの話しでは、天王山から追い出されたサルのあやかしは、確か、自分が神に取って代わろうなどという大それたことを考えたために、牛頭天王の怒りをかって追放されたと言っていた。
 ということは、玄武の予想したことは十分にあり得ることだった。
 オレは、玄武神に礼を言うと、船岡山をあとにした。

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 事務所に戻ると、もう昼過ぎになっていた。
 オレは、昼食も取らずに、相続事件のファイルを棚から引っ張り出した。
 そして、相続事件の依頼者の名前を確認した。
 依頼者名「物部(ものべ)守」、相手方名「物部(ものべ)進」。
 やはり、そうだった。オレの悪い癖だ。人の名前をまともに覚えようとしない。たとえそれが依頼者の名前であったとしてもだ。
 事件の内容を忘れることはないが、依頼者の名前は、すぐ忘れるし、普段あまり意識していない。今でも、引き受けている事件の依頼者の名前を言えといわれれば、おそらく即答できる依頼者は半分もいない。
 しかも、この相続事件では、当事者を普段から兄、弟と呼んでいて、あまり名前は意識していなかったし、音では「もののべ」ではなく「ものべ」と認識していたため、特に気にもしていなかった。
 しかし、その天王山を追われたテンと名乗るサルのあやかしが、いくら裏で糸を引いているとしても、そのあやかし自身が自ら動いて、直接兄や兄の依頼している弁護士に働きかけている可能性は低い。きっと、このあやかしにたぶらされて動いている人間がいるはずだ。

 事務員が外回りに出て不在にしていることを確認してから、オレはポーに話しかけた。
「ポー、いるんやろ?姿を見せえ。」
 オレは、事務所に戻ってから、近くに姿を消したポーがいる気配を感じていた。
「ボンは、誤魔化せまへんな。」
 ポーが、いつものようにフワフワと宙を浮かびながら、オレの目の前に姿を見せた。
「頼みたいことが、あるんや。」
「ボンが、あたしを呼び出さはんのは、どうせ何か用のあるときだけや。」
 ポーは、そう言いながらも、オレから頼み事をされるのが嬉しいようで、どこかウキウキとしていた。
「ポー、悪いけど、テンというサルに踊らされてる人間を探ってきてくれへんか。それが誰か分からんと、先に進めんのや。」
「がってん、承知しました。急ぎですわな?」
「当たり前や。」
「ほんなら、早速、行ってきます。」
 ポーは、嬉しそうに言うと、姿を消した。
 ポーは、どうやら、周りのあやかしたちに、自分はオレの秘書だと触れ回っているらしい。これまでに、ポーがオレの秘書としての働きをしたことなどなかったと思うが、ポーがオレの優秀な助手であることは間違いがない。

 そのあと、しばらく事務所で、弁護士としての他の仕事をしていると、夕方になってから、ポーが戻ってきた。事務所の事務員は、もう仕事を終えて帰宅している。
「ボン、分かりました。テンに踊らされているのは、早川保という男です。」
「誰や、そいつは?」
 ポーの話しによると、早川保という男は、46歳。元々、ある宗教法人に勤めていた。その宗教法人で会計を担当していたが、ギャンブルにのめり込んで法人の金に手をつけ、追い出された。刑事告訴まではされなかったようだ。
 早川は、宗教法人に勤務したことで、宗教法人が儲かるとでも思ったのか、今度は、自分が教祖になって新しい宗教法人を立ち上げようとしているらしい。
 そういうときに、テンという例のサルのあやかしが、この早川に近づき、話しを持ちかけた。その話しとは、例の祠を手に入れれば、そこから大きな霊力が得られる。そして、その霊力で早川が教祖になれば、瞬く間に大きな宗教法人を作れるという、早川にとっては願ってもない都合の良い話しだった。
 よくよく考えれば、そんな話しが現実的だと信じる者などいないはずだが、早川は違った。ギャンブルでの多額の借金を抱え、切羽詰まっていた早川は、易々とこの話しに乗ってしまったのだ。
 そして、この早川が、兄や兄の依頼している弁護士に対し、裏山を高額で売却して欲しいというオファーをしている張本人だ。
 いきなり宗教法人を作れるわけはないので、とりあえず直ぐに誰にでも作れる一般社団法人を作り、それらしい話しをするために、その法人名を「文化財保存協会」とし、その理事長として、オファーをしているらしい。おおかた、例の祠には文化財としての価値があるので、これを買い取って保存したいとでも言っているのだろう。このぐらいのちんけな話しなら、早川にでも思いつきそうだ。
 それにしても、こんな話しに飛びつく兄も兄だが、それを止めもしない弁護士も弁護士だ。

仕掛ける

 オレはまず、その一般社団法人のことをネットで調べてみた。すると、ご丁寧なことに立派なサイトを立ち上げていた。
 そのサイトに記載されていた電話番号に電話をかけると、早川自身が電話に出た。さすがに事務員を雇うだけの金銭的な余裕はなかったらしい。
「もしもし、わたくし、弁護士の春日と申します。はじめまして。」
「弁護士さんが何のご用でしょうか?」
 早川は、かなり警戒している様子だった。そこで、オレは、明るく軽い口調で話し始めた。
「いやね。そちらの社団法人さんが、物部さんの所有している山林の購入を希望されているという噂を聞きつけて、お電話させていただいてるんですが。」
「どこから、そんな噂を?」
「すみません。それは職務上の守秘義務の関係でお話しできないのです。申し遅れました。私は、物部守の代理人をしている弁護士です。ほら、あなたところが購入を希望されている山林を所有している物部さんの弟さんの方ですよ。」
「ああ、物部さんの。」
「そうです。お聞きになっているとは思いますが、あの山林は亡くなった父親の遺産で、現在兄の物部進さんとの間で、遺産分割の話し合いをしているところなんですよ。」
「そのお話は聞いております。」
 早川は話しに乗ってきた。オレは、たたみかけるように話しを続けた。
「どのように聞かれているのかは分かりませんが、弟さんが仏師であることはご存知ですよね?」
「はい。それは存じ上げています。」
「それなら話しが早い。弟さんは、まあまあ有名な仏師でして、その作品は1つ数百万円で取引されています。」
「それは、知りませんでした。」
「そうなんですよ。それでね、その材料となる木材は、裏山、あなたのところが購入を希望されている山林のものを使用しています。仏像の材料にちょうど良い、質の良い木材が沢山生えているんですよ。」
「そうなんですか。雑木林しかない、ただの山林だと思っていました。」
「なのでね、弟さんはあの山林を誰かにお譲りするつもりが全くないのです。あなたのところは、どうして、そのような雑木林しかない、ただの山林を購入されたいのですか?」
 オレの術中にはまった早川は、そこからはこちらの予想していた通りの話しを始めた。
 すなわち、山林の中腹にある祠が、文化財として重要な価値があり、自分たちは国から補助を得ている文化財保護を目的とした団体で、どうしてもその祠を保存するために、山林が欲しいのだという嘘八百を切々と話してきたのだ。
 このように嘘八百を並べてくれると、こちらも罪悪感なしに嘘八百で対抗することができる。

「そうなのですね。お話はよく分かりました。」
「それは良かった。」
 早川が安堵した声で応えた。
「そういうことならば、早川さんだからこそ教えますが、おそらくあの山林は弟さんが取得することになると思いますよ。」
「どうしてですか?」
「さきほどもお話ししたように、弟さんは仏師で、その材料を裏山から調達しています。つまり、弟さんにとっては、仕事ひいては生活をしていく上で、裏山がどうしても必要なわけです。それと比べて、お兄さんの方は東京の会社に勤めておられて特に必要としていない。ですから、このまま遺産分割が話し合いでまとまらなかった場合、裁判所で手続すれば、おそらく弟さんが裏山を取得することになるはずです。」
「そういうことですか。」
 どうやら、早川はオレの話しを信じたようだった。
「それでね、さきほどお話ししたように、裏山には仏像の材料にちょうど良い、質の良い木材が沢山生えているんですよ。これを売ってしまうと、弟さんは、仏像の材料の調達に困るわけで、代わりの調達先、つまり質の良い木材の生えている山を見つけて新しく買うか、海外から木材を輸入するしかないんです。」
「ということは、弟さんから裏山は売っていただけないということですか?」
 早川が困惑気味に聞いてきた。
「いやいや、絶対に売れないということではなくて、ほら別の山を探すのって実際には無理じゃないですか。ということは海外から木材を輸入することになるのですが、高級な仏像の材料となるとこれが高くてね。弟さんがこれから生涯使うであろう木材の輸入費用を出していただけるのであれば、考えられるということです。」
「それは、おいくらぐらいでしょうか?」
 早川が、恐る恐るという感じで聞いてきた。
「まだ、弟さんは若くて、これから何百という仏像を彫られるでしょうし、その中にはきっと大型のものも入ってくるでしょうから、最低でも1億円といったところでしょうか。」
「1億円……。」
 早川は、そう言うと黙り込んでしまった。
 オレは、少し待ってから続けた。
「いや、無理ならいいんですよ。こちらは、どちらかというと売りたくはない方ですから。それでは、この話しはなかったことにしてください。突然の電話で、どうも失礼いたしました。」
 すると、早川は、慌てた様子で、少し大きな声で言った。
「待ってください。分かりました。1億円であれば、何とかご用意しましょう。」
 おそらく、早川は、この短い時間の中で、取らぬ狸の皮算用をしたのだろう。宗教団体として大きくなれば、1億円くらいの寄附は簡単に集まると考えたのかもしれない。
「そうですか、それは良かった。では、首尾良く、弟さんが裏山を取得した際には、よろしくお願いいたします。あっ、それと、くれぐれもこの話しはご内密にお願いします。特に、お兄さん側には絶対に漏らさないでくださいね。」
「それは、承知しております。こちらこそ、くれぐれもよろしくお願いいたします。」
 そう言って、早川は電話を切った。
 これは前から分かっていたことではあるが、やはりオレには詐欺師としての才能があるようだ。自分のことながら妙に感心してしまった。が、そんな感心をしている場合ではない。

 オレは、引き続きすぐに、兄の依頼している代理人の弁護士に電話をかけた。ちなみに、オレは、その弁護士の名前も覚えてはいない。
「先生、春日です。先生からのこの前ご提案ですが、実はうちにも裏山の買取りのオファーが来ていましてね。」
 相手の弁護士は、電話の向こうで少し驚いているようだった。おそらく、かなり秘密裏に話しを進めていたのだろう。明らかに声は動揺していたが、できるだけ平静を装った声で返答してきた。
「そうですか。それで、どうしようと。」
「いやね、そちらにはいくらでオファーをしてきたのかなと思いまして。ちなみに、うちは、1億って言ってこられているんですよ。でも、いくらなんでも、あの裏山にそれだけの価値があるとは思えないので、もしかしたらこの話は、単に物部兄弟の相続問題の解決を邪魔するのだけが目的かもしれないと疑っています。先生も、当然、そのように思っておられるでしょう?まさか、真に受けておられるわけではありませんよね。」
 オレは、思い切りかまをかけてみた。兄ともども、この弁護士も欲に目がくらんで、買取りのオファーを信じたからこそ、あのような提案をしてきたことは分かっていたが、ここまで言われれば、少しは冷静に考えるだろう。あの裏山の時価はどう見ても数十万円が良いところなのだから。
「当然、私だって、同じ疑いを持ってますよ。」
 オレの期待した回答が返ってきた。あと、一押しだ。
「それで、いくらって言ってきたんですか?私も先生を信用して申し上げたのだから、教えてくださいよ。」
「うちは、5,000万でした。あの野郎、本当にいい加減なことを。」
「それは、ひどいですね。うちのたった半分ですか。もしかしたら、窓口になっている人が違うのかもしれませんね。ちなみに、うちは早川さんでしたが、差し支えなければ、先生の方の窓口の方も教えていただけませんか?」
「うちも早川です、一般社団法人文化財保存協会理事長の早川です。」
「じゃあ、うちと一緒ですね。お互いに、こんな話しに乗るのはやめておきませんか。先生のこの前のご提案はなかったことにして、もう一度振り出しに戻ってお話しできませんでしょうか?」
「分かりました。依頼者にこの話しを全部伝えて、その方向で考えるように、私から説得してみます。」
「ありがとうございます。助かります。」
 オレは、目的を達成したので、静かに受話器を置いた。
 さあ、あとは、テンとかいう例のサルのあやかしとの直接対決が待っている。

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 オレは、早川に電話をした。
「さきほどは、どうも。弁護士の春日です。」
「どうかされましたか?」
 早川は、まさかオレからこんなに早く連絡があるとは思っていなかったようだ。
「さっきの話しですが、1億円なら、弟さんの方は裏山を売ってもいいと言ってましてね。なので、早く話しを詰めておきたいと思いまして。これからお目にかかれませんでしょうか?」
 オレは、早川に、いや早川を裏で操っているテンとかいう例のサルのあやかしに、あれこれと画策する時間を与えたくはなかった。この話しに早川が1人で対応できるはずがない。どうせ、1億円も、誰かを騙すなりして用立てるつもりだったのであろうが、それもテンが考える策のとおりに早川はただ動くだけにすぎないだろう。今すぐに会いたいと言えば、必ず、早川は1人ではなく、テンも連れてくると、オレは読んでいた。
 オレが一番恐れていたのは、テンが兄、物部進の力を使って祠の封印を解き、祟り神に変わっているかもしれない大蛇の力を操るようになることだった。兄に封印を解く能力があるかどうかは分からないが、物部の一族である以上その能力を持っている可能性は十分にある。そうなると、本当にやっかいなことになる。ちょっとやそっとの犠牲ではすまないだろう。
「それじゃあ、今から3時間後に、先生の事務所に伺います。その際、資金補助をしてくれる国の担当者を同伴してもよろしいでしょうか?」
 早川は、予想したとおり、テンを連れてくるつもりらしい。
「はい、構いませんよ。それでは、3時間後に。私の事務所の場所はお分かりになりますか?」
「どちらでしたかね?」
「京都の裁判所の近くです。丸太町通に面してますので、事務所のホームページを見ていただければ、すぐにお分かりいただけると思います。もし、お車で来られるのであれば、駐車場の備えがございませんので、近隣のコインパーキングをご利用いただけますでしょうか。」
「承知しました。」
 既に午後8時になっていたので、テンと対決する時刻は、午後11時に設定された。

直接対決

 電話を切ると、目の前にポーがフワフワと浮かんでいた。
「ボン、大丈夫ですか?応援を呼びましょうか?」
ポーは、オレのことを心配してくれているようだ。
「それより腹が減ったので、何か食べてくるわ。」
 オレは、この日、朝から何も食べていなかったので、本当に腹が減っていた。
「ボンは、また、そんな悠長なことを。神にとって変わろうとしたぐらいなので、あのテンというあやかしは、かなり強いはずです。いくら、ボンやといっても、そんなに簡単にいく相手やないですよ。」
「そんなことぐらい分かっとるわ。でも、ほら、腹が減っては戦ができん、そう言うやろが。」
 オレは、事務所の近くにあるファストフード店に行って、カツ丼とハイカラうどんを食べた。寒い1日だったので、暖かいうどんの汁がはらわたに染み渡り、身体を内側から温めてくれた。

 オレは、食事を終えると、事務所に戻り、スーツ姿から上下黒色の軽装に着替えた。そして、デスクの一番下の引出に入っている箱を2つ取り出した。
 このうちの1つには、「長さ五尺の赤い絹製の領巾(ひれ)」が入っている。「領巾(ひれ)」というのは、奈良時代に用いられた女性装身具の一つで、両肩に掛けて左右へ垂らした長い帯状の布のことだ。五尺は、センチでいうと、約151センチになる。「天の羽衣」を絵本で読んだことのある人なら、天女が両肩に掛けて左右に垂らしたヒラヒラとしたリボンのようなものを見たことがあると思うが、あれと似たようなものだ。
 オレは、この領巾(ひれ)をストールのように羽織った。身長180センチのオレが羽織ると、領巾(ひれ)の両端が、ちょうど腰のあたりにくる。これは、オレにとっては、あやかしと戦うときの戦闘服なのだが、細身で長髪を後ろで束ねたオレが羽織ると、とてもそのようには見えない。おそらく、上下の黒い服装に、女性用のそれも真っ赤なストールを羽織ったあやしいやつにしか見えないであろう。
 そして、もう1つの箱からは、鳥を形取った和紙を数十枚取り出して、ポケットに入れた。これは、オレにとっては、あやかしと戦うときの武器になる。陰陽師などは、人型の式神を使うが、これは言わば、鳥形の式神と言えなくもない。
 こうして、オレは戦闘準備を整えると、デスクに座って、しばしの睡眠を取った。

「ピンポーン」
 事務所入口のチャイムが鳴った。
 ジャスト午後11時。
 深夜なので、外は真っ暗だ。
 事務所の中も、最低限の照明しかつけていないので、それほど明るくはない。
 いつの間にか暖房も消えていて、事務所の中は少し冷え始めていたが、領巾(ひれ)を羽織っていたおかげで寒くはなかった。
 どうやら、ちょうど1時間半ほど眠ったみたいだ。オレの睡眠サイクルは、90分なので、目覚めは良く、頭はすっきりとして、感覚も研ぎ澄まされている。
 オレは、入り口まで行って、ドアを開いた。
 そこには、2人の男、といっても片方はあやかしなのだが、が立っていた。
 手前に立っている男は、身長は170センチくらいの中肉中背で、スーツ姿、センター分けの髪に銀縁のめがねをかけていた。この男が早川だ。
 そして、その後ろに、身長165センチくらいの小太りの男が立っていた。頭は禿げ上がって脂ぎっている。この男も、スーツを着ていたが、そのまとっている不穏さからして、こちらがテンと名乗るあやかしであることは明らかであった。

「失礼します。」
 早川が挨拶をした。
 それまで横を向いていたテンは、振り向き、オレを見た瞬間に、険しい顔つきに変わった。
 そして、「キー」という甲高い奇声を発したかと思うと、早川に対して、大声で叫んだ。
「こんなところに連れてきやがって。貴様、ワシを裏切ったな!」
 そう叫ぶやいなや、テンは、豹変し、身体が1.5倍に増大するとともに、サルの姿に変わった。それは、サルというよりはゴリラのあやかしといった方がよい、筋肉質で、ごついという表現がぴったりとくるような姿形であった。
 おそらく、テンは、オレの羽織っている赤い領巾(ひれ)を見て、オレの正体を見破ったのだろう。そして、早川が、己をオレに退治させる目的でここに連れてきたと勘違いしたのであろう。
 振り返って、テンのその姿を見た早川は、「ひぇー」と叫ぶと、卒倒してその場に倒れてしまった。
「ポー、いるんやろ?」
 オレが声をかけると、ポーがフワフワと浮かびながら、目の前に姿を現した。
「ボン、なんか用ですか?」
 さきほど、心配してくれていたポーをオレがむげに扱ったので、ポーは少しすねているようだった。
「こんなときに、何すねてんねん。早川を安全なところに避難させてくれ。あと、忘れんと、ここ1か月分の記憶も消しといてくれ。頼んだで。」
 オレは、ポーに命令した。
「分かりました、ボン。」
 ポーは、オレから頼み事をされたのが嬉しかったのか、少し弾んだ声でそういうと、早川の身体全体を薄黄色の光で包み込み、その早川の身体と一緒にその場から姿を消した。

 オレは、豹変したテンを尻目に、素早くドアとは反対側にある窓を開けて、そこから外に飛び出した。オレの事務所はビルの3階にあり、窓は丸太町通側にある。
 オレにとってはこのぐらいの高さは何ともないので、なんなくアスファルトの地面に着地すると、そのまま丸太町通を横切って、京都御苑に向かって走った。
 京都御苑は、京都市の中心部にあり、東は寺町通、西は烏丸通、南は丸太町通、北は今出川通に囲まれている。江戸時代は、多くの宮家や公家の邸宅が立ち並ぶ町だったが、明治になってからは、これらの邸宅は取り除かれ、公園として整備されて市民に開放された。現在もその中央にある京都御所と一体となった景観を維持しながら、散策や休養等の場として市民に親しまれている。
 オレの賃借している事務所は、裁判所の少し東にある丸太町通に面したレトロなビルの3階にある。ワンフロアーが50㎡くらいしかないこぢんまりしたビルだが、オレはとてもここが気に入っている。向かいに京都御苑が広がり、窓からはいつも緑が見える。
 テンに事務所の中で暴れられでもしたら、オレはこのお気に入りの場所から追い出されることになってしまうが、それだけは絶対に御免こうむりたい。
 オレは、京都御苑の丸太町通側にある富小路口から苑内に入り、富小路広場という、普段は市民が運動などで使用する広場に向かった。
 テンは、同じくビルの3階窓からなんなく飛び降り、四足歩行でオレの後を追ってきた。
 オレが、広場に着くと、ほんの数十秒遅れて、テンも広場までやってきた。そして、テンは、まんまと広場に足を踏み入れた。
 オレは、さきほど食事に出た帰りに、この広場に寄って、あらかじめ結界をはっておいたのだ。上手く、その結界中に、テンを誘導することができた。
 これでテンは、この結界のはられた広場から外には出られないし、結界内は外部世界とは遮断され、誰もこの広場に入ってくることもできない。

 オレが広場の中央あたりで立ち止まると、テンはオレから5メートルほど離れた場所で立ち止まった。
 テンは、オレが身構えるよりも早く、「キー」と甲高い叫び声を上げながら、四足歩行の素早い動きで、オレに襲いかかってきた。
 テンの攻撃力は、かなりのものだ。そこらにあった大きな石つぶを簡単に握りつぶし、爪でかかれた細い樹木は簡単に切断される。そして、獰猛そうな口の中に見える牙は、これで噛まれれば、人間などひとたまりもないことが明らかなぐらい鋭い。
 しかし、テンのスピードはオレの敵ではなかった。オレは、テンの倍以上のスピードで動くことができる。
 テンは、その怪力でオレにつかみかかろうとしたり、その鋭い爪でオレの身体を引き裂こうとしたり、その鋭い牙でオレに噛みつこうとしてきたが、オレは、その持ち前のスピードでテンの攻撃を巧みにかわすことができた。
 そして、寸前のところで攻撃をかわしながら、ポケットに入れてきた、鳥を形取った和紙を一枚ずつ取り出して、テンに向かって投げつけた。オレの手を離れたその鳥形の和紙は、透明のハヤブサに姿を変え、もの凄い速さで矢のようにテンの身体に突き刺さる。突き刺さった箇所からは、大量の血が噴き出す。オレは、この攻撃を続けた。
 普通のあやかしであれば、この攻撃を一発命中させるだけで、滅することができるのだが、テンは数発が命中してもなお反撃を続けてきた。
 オレとテンの攻防が始まって10分くらいがたったころ、テンの身体の二十カ所以上から、大量の血が噴き出していた。さすがのテンも動きが鈍り始め、オレが用意してきた最後の鳥形の和紙を放ち、これが首に命中すると、地面に横たわって動かなくなった。
 オレは、そろそろとどめを刺そうと、右手を身体の前に構え、人差し指と中指と親指の3本を立て、そのうちの人差し指と中指の2本をテンの身体に向け、眼を閉じて身体の中に気を溜めようとした。

 そのとき、地面に横たわって動かなくなっていたテンから、不敵な笑い声が聞こえてきた。
 そして、これまでの「キー」という甲高い声とは違う、地の底から響くような低い不気味な声がした。
「小童が。これぐらいの力で、ワシを倒せるとでも思ったのか。片腹痛いわ。」
 その声がすると同時に、地面に横たわっていたテンの背中が2つに裂け、その中から、巨大な白い大蛇が姿を現した。
(ちっ、しまった。3時間も時間の猶予を与えたのが間違いだったか。)
 オレは、早川に呼び出しの電話をしてから事務所に来させるまで、3時間の時間を与えたことを後悔していた。
(まさか、たった3時間でやりやがるとは思わなかった。)
 しかし、後悔先に立たずだった。最悪の事態だ。オレの一番恐れていたことが現実になってしまった。
 おそらく、テンは、その3時間の間に、物部の兄の方を連れて、例の祠に行き、封印を解かせたのだ。どのようにそそのかしたのかは分からないが、おおよそ、兄に対して今封印を解けば倍の金額を出すとでも言ったのだろう。
 もはや、そんなことを考えている余裕はなかった。オレの目の前には、鎌首をもたげた、全長15メートルはあると思われる、いまや祟り神となってしまった白い大蛇がいた。
 この大蛇を操るつもりで封印を解かせたテンは、逆に完全に大蛇の中に取り込まれてしまったようだ。テンのあやかしとしての妖力と祟り神と化した大蛇の妖力を比べれば、そうなるのは当然の結果だった。

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 大蛇は、オレめがけて、突然、口から何かの塊を吐き飛ばしてきた。オレは、かろうじて避けることができたが、それは硫酸のような猛毒で、これが着弾した地面は溶け、穴が空いた。しかも、厄介なことに、それは散弾銃の弾のように多数の小さい塊に分かれて放射状に散開するため、完全に避けることが困難だった。
 先ほどの第一撃も、かろうじて避けたとはいってもその一部はオレに被弾していた。ただ、羽織っている赤い領巾(ひれ)がシールドの役割を果たし、オレの身体全体を覆ってくれているため、直接身体への打撃を受けずに済んだにすぎない。
 しかし、いくらオレの持ち前のスピードとこの赤い領巾(ひれ)の効力を持ってしても、この攻撃を続けられれば、長時間は持ちこたえられそうにない。
 そうしている間にも、絶え間なく、大蛇の口からは、オレをめがけて猛毒の塊が放ち続けられていた。オレは、必死でこの攻撃を避け続けるしかなかった。
 このような状態が5分ほど続いたところで、急に大蛇の動きが止まった。どうやら、封印は完全に解かれたわけではなかったらしい。
 考えてみれば、物部の兄は、仏師を継がずに家を飛び出している。物部の能力を引き継いでいるとはいっても、それは不十分なものであったのだろう。物部の血脈に、長年の仏師としての霊力が合わさって、はじめて守り神をも封印するだけの能力が備わるということは十分に考えられることだった。
 大蛇は封印が完全に解かれていないために、活動限界があり、いっときに連続して動ける時間が限られており、休み休みでないと動き続けられないのかもしれない。
 そうこう考えているうちに、大蛇が攻撃を再開した。オレは、この自分の推論にかけてみるしかないと腹を決めた。もう赤い領巾(ひれ)のシールドとしての効力もあと5分も持てば良いところだ。次に、大蛇が動きを止めたときに一気に攻撃をしかけるほかない。

隼人の力

 オレは、動くスピードを最大限にまで上げて、できるだけ被弾しないように、大蛇の口から放たれる猛毒の塊から逃げまくった。時間の経過がやけに遅く、5分間が何時間もの長さに感じられた。
 そして、やっと5分が経過し、また大蛇の動きが止まった。
(よし、オレの推論は当たっていた。しかし、ここで一気にこいつを倒せなければ、確実にオレがやられる。)
 いくら祟り神になったとはいえ神を、オレの力で滅することができるかどうかは、正直言って分からなかった。しかし、躊躇している暇はない。
 オレは、右手を身体の前に構え、人差し指と中指と親指の3本を立て、そのうちの人差し指と中指の2本を大蛇の頭に向け、眼を閉じて身体の中に気を溜め始めた。そして、身体の中が気で満たされたのを感じてから、自分の額に意識を集中させた。
 そして、心の中で、腹の底から響くような「ウォー」という狼のような叫び声を発した。その瞬間、オレの額から、強力な念が放出され、それが大蛇の頭を直撃した。一瞬、大蛇は上げていた鎌首を下げかけたが、すぐにこれを元に戻した。
(まだ、力が足りない。)
「ポー、ここにいるんやろ。直ぐに出てこい。」
 オレは、ポーを呼び出した。
「ボン、なんか劣勢みたいですな。」
 いつものようにフワフワと浮かびながら、目の前に姿を現したポーが嫌みっぽく言った。
「こんなときに嫌みか。まあ、ええわ。力を貸してくれ、ポー。」
「そうやって、いつも素直に言わはったらええのや。」
 まだ、嫌みっぽい台詞を吐きながらも、ポーは、オレの頭に近づくと、そのままスッと頭の中に入ってきた。ポーがオレの頭の中に入ると、オレの額には、赤い「吠」という痣が浮かび上がった。
 そして、オレは、もう一度、さきほどと同じように、右手を身体の前に構え、人差し指と中指と親指の3本を立て、そのうちの人差し指と中指の2本を大蛇の頭に向け、眼を閉じて身体の中に気を溜め始めた。そして、身体の中が気で満たされたのを感じてから、自分の額に意識を集中させた。
 そして、再び、心の中で、腹の底から響くような「ウォー」という狼のような叫び声を、さきほどよりも大きく発した。その瞬間、オレの額から、さきほどよりもさらに増強された強力な念が放出され、それが大蛇の頭を直撃した。
 今度は大蛇は、鎌首を完全に下げすくめ、動かなくなった。
「ボン、やりましたやん。」
 いつの間にか、オレの頭の中から離脱していたポーが嬉しそうに言った。
「いや、あかん。一気に滅せられんかった。まだ、やつはああやって姿を保ってる。」
 ポーに加勢をしてもらって増強した念ですら、大蛇を滅することまではできなかった。
 そこで、オレは、最後の手段に出る決断をした。
(できれば、これは使いたくはなかったな。)
 しかし、そんなことを言っている場合ではない。今は、何としても、目の前にいる、祟り神と化した白い大蛇を滅しなくてはならない。
 しかも、その姿を保っている以上、大蛇がまた復活して動き始めるおそそれもあることから、あまりゆっくりもしていられない。

 オレは、空に向けて右手を掲げ、人差し指と中指と親指の3本を立て、そのうちの人差し指と中指の2本を空に向け、眼を閉じて身体の中に気を溜め始めた。そして、身体の中が気で満たされたのを感じてから、今度は、空を仰いで口を開き、言葉を発した。
「我、隼人(はやと)族の末裔。阿多(あた)の血流に連なる者。願わくば、八咫(やた)の御力を我に貸し与えたまえ。」
 この言葉を発し終わるやいなや、空に一点の黒い穴が現れ、そこから渦巻き状に黒い穴が広がり、その中から、一羽の5メートル以上はあろうかという大きな3本足の八咫烏が現れた。
 八咫烏は、2、3度大きく羽ばたいて、大蛇の真上までやってきた。そして、その3本の足で、大蛇の頭、胴体、尻尾をしっかりとつかむと、そのまま羽ばたいて、出てきた渦巻き状に広がった黒い穴の中に大蛇ともども戻るようにして消えていった。と同時に、その渦巻き状に広がった黒い穴は、次第に小さくなって、しまいには消えてなくなった。
 オレは、その情景を見届けると、ポーに言った。
「八咫の力は、借りとうはなかったんやけどな。」
「ボン、何をぜいたく言うてはるんですか。下手したら、やられとったんですよ。」
「その通りなんやけどな。まあ、結果オーライということで、良しとしておくか。」
「ボンは、いつもそれや。」
 祟り神と化した大蛇は、八咫烏の力で異空間へと消えていった。もう二度と復活してくることはない。
 それにしても、元々は、守護神であったのに、守護していた人間から疎かにされたうえ封印までされ、最後は祟り神となって滅せられた白い大蛇は、本当は祟り神になどなりたくはなかっただろう。
 今回は、封印が完全に解かれていなかったから良かったものの、もし完全に解かれていたら、本当に危なかった。もう神を滅するなどということは勘弁してもらいたいものだ。

画像5

 見上げると、冬の深夜の空は、空気が澄んでいて星がとてもきれいだった。
 また、明日も、あやかしの相談を聞くために、朝が早い。
 とっとと帰って、寝るとしよう。
「あっ、そうや、ポー。あの封印を中途半端に解きよった兄貴の方も、封印を解いた前後の記憶を消しといてくれ。頼んだで。」
「ほんま、ボンは人使いが荒いわ。」
「あほ、あやかし使いやろが。」
「どっちでもよろしいけど、承知しました。」
 そう言うと、笑いながらポーは姿を消した。

無事解決

 そのあと、物部兄弟の相続争いは話し合いにより、無事に解決した。
 ポーにここ1か月の記憶を消された早川は、兄の依頼している弁護士から連絡があっても、裏山の買取りの話しなど全く知らないと答えたらしい。
 買い手のいなくなった兄は、二度と裏山が欲しいなどと言うことはなく、とにかくこの件を早く解決したいと言い始めた。
 祠の封印を解いたときの記憶はポーに消してもらったはずだが、少しは恐い思いをした記憶が残っていたのかもしれない。
 そして、住居兼作業場の土地建物と裏山については、オレの依頼した不動産業者が査定した併せて200万円という価格で評価することについて兄も同意し、兄は2600万円分の預金を取得し、オレの依頼者である弟は、希望通りに住居兼作業場の土地建物と裏山のほかに2400万円分の預金を取得することができた。
 解決した後に、物部守が事務所にやって来てお礼を言った。
「春日先生、私の希望通りに解決していただいて、本当にありがとうございました。」
「いえいえ、仕事ですから。」
 オレは、少しクールに答えてみた。
「それにしても、あの欲深い兄が、あれほどこだわっていた裏山をあっさりとあきらめたうえに、よく不動産全部をたった200万円の査定で納得しましたね。」
「それは、お兄さんにも、色々とお考えがあったのではありませんか。」
 オレは、とぼけておいた。依頼者である弟には、今回の顛末は全く話していないし、話す必要もない。
「ところで、裏山は今後もお父さんの言いつけどおり守っていかれるのですか。」
「はい。そのつもりです。」
「あの裏山の石の祠ですけどね。できれば、撤去された方がいいと思いますよ。」
「どうしてですか?」
「いやね、私の知り合いに、あういうものに詳しいのがいましてね。何でも、あの祠は、もうまつっている神のいない、いわば空のものらしいのです。ただ、そのまま放っておくと、良くないものが住み着いたりするらしいので撤去された方がいいとその知り合いが言っていましたので。」
「そうですか。私も、なんとなくあの祠は気になっていましたので、専門家の方がそのように言っておられるのであれは、言われたとおりに撤去します。」
 そう言って、弟は帰って行った。
 きっと、素直な性格の弟は、私に言われたとおり、早いうちに、あの祠を撤去するだろう。 そうすれば、ややこしいあやかしが住み着いて、悪さをすることもない。

「ボン、お優しいですな。アフターフォローも万全ってやつですか。」
 いつの間にか、フワフワと浮かびながら目の前に現れたポーが、茶化すように言った。
「あほか。お前みたいな、ややこしいあやかしの住処にされたら困るからや。また、やっかいな仕事が増えるやないか。」
「ややこしいとは、どういうことですか?ややこしいとは?こうみえても、あたしは……」
 話しが長くなりそうなので、オレは、ポーを放置して食事に出かけた。
 まだまだ寒さが厳しいが、そろそろ満開を迎える梅が、都大路に春の訪れを伝え始めていた。
                                       (了)


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