小説 『滅びる星の糸』 断片①
8月も半ばを過ぎた頃、私は父に会った。新宿駅の東口から歩いて行ける喫茶店で待ち合わせて、父は遅れてやってきた。記憶よりもいくぶん体は小さくなっていたが、アイスコーヒーを店員に頼む口調は変わらない。機械的すぎず情緒豊かでもない、乾いた砂のような声が、近いうちに私に十代を想起させる最後の手札となる。
「久しぶり」
「ああ」
顔幅に合わない小さな金縁眼鏡の向こうの瞳は彷徨うこともなく、私の視線から逃れて何も置かれていないテーブルの木目に向かう。父は何もないテーブルにこそ正解が書いてあるかのように振る舞うので、子どもの時はよく真似をしていた。でも私にはそれを読み取る才能はまったくなかったようで、終いには母に人の顔を見て話しなさいと怒られた。
「父さん、私いくつになったと思う?」
「今年で39だろ」
やはり視線は動かない。私は膝の上に置いたこぶしをそっと握りしめた。
「今年で40なの」
「そうか」
そうか。心の中で繰り返した。同時に、大知に結婚を告げられたときの自分の声が聞こえる。私の「そっか」という声には、本能的な拒否と恐怖からくる震えを隠そうとした痕跡があった。動揺も申し訳なさも滲まない承知の返答を、私は何年経てば習得できるのだろうか。私は父の子どもなのに、父から受け継いだものが何ひとつ見受けられない。
「父さんは元気?」
愕然としていることを悟られたくなくて、尋ねた。
「ぼちぼちだ。そっちは」
店員がアイスコーヒーを持ってきて父の前に置いた。カランと涼し気な音がなって私は少しだけ冷静さを取り戻して答えた。
「元気」
「そうか」
父の左手がテーブルの上に伸びてくる。左利きだから左側にコーヒーを置く。指輪はもうしていない。当たり前だ。母さんだって、していなかった。ふたりはふたりで別れを決めたのだ。そこには私の一存はないし、成人した子どもの一存など必要もない。
「母さんのことは、もう大体済んだ」
「そうか」
「大変だったけど、勉強になったよ」
「世話をかけたな」
「ううん」
父と私のやり取りはぽつんぽつんと途切れる。その度に私は途方のなさを感じる。それは友達の家で飲み明かした夜に部屋に散らばった缶を片付けているときや、誰にも見せることのない下着に織物がつかないようにするシートを貼っているときに感じるやるせなさとよく似ている。永遠に繰り返していく無駄でもなく有意義でもない行為。その行為で紡がれていく人生に、飽き飽きするほどの長さを感じる。
とてつもない途方のなさを感じると、私の足はいつも止まってしまう。
「母さんの遺言に父さんをよろしくって書いてあった」
「そうか」
「父さんは今何か困ってることはある?」
「特にない。それが要件か」
「そう」
「なんだ、そんなことか」
父がひとくちアイスコーヒーを飲む。母について行った私が数年ぶりに父に会って、彼の近況を心配することは、決して"そんなこと"ではない。けれどもう怒ろうとも恨もうとも思えない私の方が、この場合は重症だ。私に残されているものは、かつて母と私を捨て娘の歳すら覚えていない、この情の欠片もなさそうな腰の曲がった父ひとりなのだ。私は初めて母を"失った"と感じた。
「父さんには、面倒を見てくれるような人はいるの?」
「いいや。ひとり暮らしだ」
「近所づきあいとかは」
「ない」
私はテーブルを見た。汗ばんだグラスから滴る水が徐々にその領域を広げている。正解が欲しい。焦る私の視線は石を放り投げは湖面のように綺麗な波紋を描く木目の上をスルスルと駆け抜けていく。どこにも引っかかるのことない視線はやがてグラスにかけられた父の手に到達する。
冷徹さに似合わぬ恰幅のいい年季の入った手だ。その手に見入ったまま私は口を開いていた。
「じゃあ一緒に住まない?」
私のグラスの中の氷が音もなく動く。冷静さを取り戻した父が私の過ちを正してくれると思った。
父は眉ひとつ動かさずに「そうだな」と呟いた。
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