人生ってなんだろう(108)

ルドルフ  聖地めぐりに想う

8月下旬に霊場恐山を訪れましたが、帰った後も、時折その光景を思い出しています。恐山の散策自体は、残念ながら荒涼とした土地を歩いていたぐらいしか覚えていませんけどね。
私が聖地として大切に感じる場所はあと二つ、伊勢神宮と高野山がございます。

特に何か霊的なものがあるとか、御利益があるとか、そう言った意味ではありませんよ。
古くから、先人達に守られてきた土地には、何か土地の発する力があるように思っている次第です。例えば、薄暗い谷底の様な土地に足を踏み入れた時など、何か嫌な感じがして早くここから立ち去りたくなることがありますよね、また反対に穏やかで、すがすがしさを感じる場所に出会った時は、ここで昼寝でもしたら、さぞ気持ち良いだろうなあなどと思ってしまいます。季節や天候による場合もあるかもしれませんが、やはりその土地に何か人に元気を与えたり、あるいは不安を感じさせる力が湧き出ているものと思っています。
動物的なカンを刺激するものかもしれませんね。私一人が感じるだけでなく、古来より大切に守られてきた土地は、おそらく多くの人が何かを感じているっていう意味だと思います。そのような場所は日本の中に多くありますね、その中で自分の感性と合致する場所がその人にとっての聖地なのでしょうか。

そう言った意味で私の聖地に、新たに恐山が加わることとなりました。
この3つの土地ですが、それぞれ異なる感覚を得ます。
伊勢神宮は“動”の力でしょうか、これから何か始めようかと思った時は、背中を押してくれるような気がします。何かが生まれ出てくるような感じでしょうかね。
高野山は“静”の力でしょうか、行き詰まったり、落ち着きを失った時に、静寂さや安心感を与えてくれるように思えます。奥ノ院へ通じる道を歩むことは、弘法大師様の悟りへ至る道を、見よう見まねで歩むことなのでしょう。

そして今回の恐山ですが、ここはひとつの境地なのでしょうか、“無”の中、答えを求めて彷徨い歩き、そして穏やかさという回答を得るという、なにか不思議な場所でしたね。
初めに荒涼とした土地を歩いていたこと以外、よく思い出せないとお話いたしましたが、実際のところ仏像であったり祠であったり、まあ覚えてはいますが、どのような道筋で歩いたかが分からないのですよ。
恐山の内へ入れば入るほど、あの祠のある丘へ行こうと思っても、道らしきものがたくさんあって、選びようがありませんでした。
おそらく多くの人が踏みしめたと思う道を歩いてみたのですが、丘に辿り着く道は他にも複数あるように思えます。
今になって思いますよ、誰かの意図なのかもしれませんが、これは人生を表現しているのかなあとね。
複数ある“人の道”を歩めば、丘のふもとへ辿り着くことは出来そうです。そして、そこに辿り着くまでには、平坦な道、険しい道、あるいは岩を飛び越えて近道を行ったりと様々なことでしょうね。ただ、人より時間が早かろうが遅かろうが、ふもとに辿り着けば、皆同じです。あとは丘に段を刻んだ道を登り、参拝して戻るだけとなります。誰もが同じことをすることになります。結局のところ、ゴールは同じなのでしょうね、方向さえ間違えずに道を歩けば良いということかなあなどと、今は思う次第です。

私にとっては、かなり深く考えさせてくれる場所でありました。
あと念のため、タイミングというか時期は大切でしょうね、何も考えずに、あるいは異なる心持の時に、お伺いしても、それは何かをおねだりしたり、すがりつくだけになってしまいますからね。自分の在り様を見つめることが重要だと改めて思います。
今回は取り留めも無い、お話となってしまいました。失礼しました。


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