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東京キューバンボーイズがやってきた! ―‘労音’に通う若者たち

 レコードで音楽を聞く。あるいは、ラジオ放送に耳を傾ける。
 レコードプレイヤーやラジオ、テレビが各家庭に普及し、音楽が身近になってくるにつれて、「もっといい音で聞きたい!できれば、生で聞いてみたい!」と思う若者は増えていくのは、当然の成り行きです。
 しかし、ここは松山と高松に挟まれた、新居浜。みながこぞって聞くような人気アーティストの生演奏が聞ける機会は、ごく少ないものでした。そんな中、若者たちに貴重な「生演奏」を届けたのが、「労音」=勤労者音楽協議会が主催するコンサートでした。

 自転車に乗って新居浜に行くのがあこがれだったんよ。磯浦通って。
 新居浜の文化センターができた年に、自転車で行ったのを覚えてる。誰やったか忘れたけど、来て、見に行った。労音で、毎月誰かが来ててね。
(労音って何ですか?)
 組合みたいのがあって、その組合員になってお金を出し合って、労働者のための音楽会、みたいな。昔は組合の活動の方には興味はなかったから、ああ、音楽会があるんだなあ、という程度。見たい人が来たら、みんなで行ってみよう、自転車で。という感じ。

 「労働者が中核となって、音楽を売る方の組織を良心的につくること。労音は、その一つの良い例です。」(『われらの音楽 労音の若者たちと』大木正夫 あゆみ選書1967)など「労働者」が主語になっている言及からも示唆されるとおり、全国に多くの組織を展開していた「労音」はもともとその出自からして左派的な思想と親和性が強く、それがときに批判の対象にもなっていたようです。
 しかしながら、「見たい人が来たら行ってみよう」という言葉からもわかるように、当時の若者たちはその思想の左右に関わらず、純粋に音楽を楽しめる貴重な機会として、これを享受していたようです。

 労音いうのがあったんよね。新居浜のほうでよく活動しよってね。自転車で行ったよね。
 こんな新居浜へね、高校のときに「東京キューバンボーイズ」いうて、日本を代表するようなプロのラテンのバンドが来たんですよ。でね、「誰か、ドラムが叩けますか。」と客席に聞かれたから、手を挙げて、だーっと舞台に上がっていってドラムを叩かせてもらったりね。高校3年くらいやね。おそらく。

 1949年結成の東京キューバンボーイズは、マンボやラテンなど中南米の音楽を日本に紹介した先駆者として人気を博したラテンバンド。リーダー・見砂直照を中心として情熱的に演奏されるマンボのリズムは、日本中を席巻しました。

 そして、テレビやネット動画などで、ライブやコンサートの様子が当たり前に見れるようになった現在。リスナーとして、もしくはプレイヤーとして当時の「ラテンブーム」の只中にいたかつての少年たちは、こう当時を懐かしみます。

 ほんと、ラテンはよく流行ったよね。なんか、元気が出るよね。「フゥ!」とかいうてね。けど、いま孫に聞かせたら笑いまわるんよね。「なんでおもしろいん?」と聞いたら、リズムがおもしろい、というて。ラテンなんか、なかなか耳にしないもんね。もうね。

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