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バンドマンを支えた新居浜・西条のお店たち

 これまで様々に紹介してきた、新居浜・西条の方々の記憶に残る音たち。それらの「音」に影響を受けて「自分でも演奏活動をしたい!」と思い立ち、エレキやフォークのギターを手にした若者も、歴代(もちろん今でも)たくさんいました。
 今回は歴代バンドマンたちを支えてきた、新居浜・西条の‘縁の下の力持ち’を紹介します。

●新居浜・昭和通りにあった『大阪屋』

 新居浜の昭和通りに、『大阪屋』いうて練習スタジオがあって。そこに自転車こいで、ギター背負って行ってましたね。ギター買ったのが、高1ですかね。当時はストラップも買えないから、ギターだけ買って。で、エフェクターは「これを使えばヴァン・ヘイレンの音!」とかって雑誌に書いてて、そんなのを買ったりしたけど「あれ、全然似んなあ」と思ったり。「なんで違うんだろう」と思って。自分では、家にはアンプは持ってなかったから、家ではコンポに繋いで鳴らしたり。だから西条から新居浜まで、その『大阪屋』まで、練習しに行ってましたね。

 クラスメイトに、たまたまバンドやりそうなやつがいて、ベースやんない?とかって声かけて。高校に入って、やっとバンドが組めたんです。中学校のときは、バンドにはならないですよね。ときどき集まってやるくらいで。高校になるとお小遣いが徐々にもらえて、レコード屋というと『大阪屋』というのが昭和通りにあったんですけど、大阪屋のおじさんがすごくお世話になったんです。そこに練習スタジオがあったんですよ。そこでスタジオで練習をときどきしてて。練習はしてたけど、中学校のころはバンドを披露する場はなくて。 

 昭和時代には、現在よりもさらに活気のあった新居浜の目抜き通り「昭和通り」。レコード店も併設していたという『大阪屋』は、いまのマルナカ若水店の辺りにあったそうです。新居浜の若者はもちろん、西条からも自転車で駆けつける高校生がいた、名物店でした。

●大好きなオレンジの外観でいまも 西条の『zoofamily』

 かつては西条市の中心商店街の中に店を構え、その後は交通の便も考えて本町あたりに移転、そして現在では市街地から少し離れた石鎚山系のふもとにスタジオを構える『zoofamily』。西条を拠点に、演奏活動を志す数々の若者たちを支えた縁の下の力持ちです。

 自分は西条農業に通ってたんだけど、西条高校の子らの方がバンド活動が盛んで、そんな西条高校の子らは、「zoofamily」さんに入りびたっとったイメージですね。なんかちょっと、「zoo」さんに通ってる子らは、レベルが高かったですね。自分らはライブもしたことないのに、「zoo」さんの子らはやってる。ああいうのやれたらかっこええなあと思ったり。

 かつてはご自身もプロのミュージシャンを目指し、若くして「zoofamily」を立ち上げて以来、経営を支えるご主人は「自分の間違った考えだと思うんですけど」と謙遜した上で、こう語ります。

 自分が一番目立ちたいんなら、自分が一番見えるところに立つんじゃなくて、見えないところに徹して、縁の下の力持ちでいいんですよ。見えないところでやってくれ、と。それが渋いじゃないですか。

 
 この後紹介する「Jeandore」の立ち上げにも中心的に関わったご主人。子どもたちにギターレッスンをするなど、いまも‘縁の下の力持ち’です。

●畳で防音していたあの頃を経て 『新居浜Jeandore』

 警察の向かいの、いまは焼鳥屋さんかな、あそこの二階を改装して。あんまりお金がなかったから、それでやれる範囲で。窓はぜんぶ畳を入れたんです。自分がそのころ他に仕事をやってて、その仕事の都合で畳屋さんを知ってて、そこで古い畳をもらって。天井はベニヤを貼って、キレを貼って。で、最初に遠藤ミチロウさんが来たんか。それがこけら落としで。

 現在は、かつて洋画に強い映画館として新居浜、西条で広く知られていた「新宝館」を改装して、新居浜・登道南商店街の一角で営業を続けるライブハウス「新居浜Jeandore」。もともとは西条の商店街の中にある同名のブティックビルの1フロアで営業をしていたものが、新居浜に移転して今に至っています。代表の方は、立ち上げ当初をこう回顧します。

 自分は最初、音響のバイトをしよったんですよ。そこで学園祭とかに音響もっていったり。そこでいろいろ教えてもらえて。
 そのバイトしよったところからドラムセットとかを送ってもらって、一個だけ01V(YAMAHAの音響ミキサー)を買ったんですよ。スピーカーはJBLのを据えて。だんだんそうやってしよったら、ツアーバンドが来るようになって。そうなったら、もうこれでは絶対に対応できんと思って、「zoofamily」さんに一緒にどうですか、と声かけて、機材をお願いして。そうして、普通のツアーがぎりぎりできるかな、という感じになって。

 限られたスペースと、限られた資金。そして当時、日中は別の仕事をしながらライブハウスの経営も行っていたという、多忙を極めた日々。ターニングポイントになったのは、東日本大震災でした。

 その時までは、会社に黙ってしよったんですよ。まだ。会社には黙ってここをしよって、よう言わんかったですね、ここがコケたら生活費がなくなるから。営業しながら夜にこっちに来て。で、大震災があって。これ、こんなになるんだったら考えんとな、と。石橋をたたくのもええ加減にせんといかん、と思って。それで当時の会社の社長に、やってみようと思うんです、と言うて。そしたら「知っとったよ、泳がせとったんよ。」というね。ありがたいですよね。

 震災を機にいまの場所に移転した今も、新居浜高専の学生など、若者が多く出入りする「新居浜Jeandore」。新居浜の音楽シーンを、こう語ります。

 松山とは、少し土壌が違うんですよね。自分たちは手作りで、細々と、シーンを作って行けたらなあと思うんですよね。でも、いま考えたら、学生がすごい盛り上がっとったから、他とは違うすごいシーンだったんだと思いますね。松山は、ツアー回るようなのがいっぱいおったんですけど、こっちは大学がないから。高校終わったら、辞めたり外に行ってしまう人も多いから。「ガガガSP」が来た時も、対バンは全部高校生だったり。そういうライブハウスなんですよ。いま考えると、それがよかったのかなあと。レベルは高くないけど、若い子らはみんな楽しんどったかなあ、というね。若い、いうのは30くらいまで。一番活発なのは、高校生かなあ。

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