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【博論日誌⑬】奨学金700万、論文が書けない34歳の文系院生女

去年から下記のマガジンを書いてきました。

具体的な研究内容だったり、プライベートに関わる事だったりを、有料記事に書くようにしていたのですが、
今回は全文無料の記事を公開いたします。

どん底博士

私は2016年に大学院の博士後期課程に進学しました。
そこから8年が経ちます。
4年間は休学してます。
そしてまもなく5年目の休学に入ります。

本来は3年しか休学できません。
しかしコロナを原因とする休学は在籍年数に換算されないのです。
そのため数年は猶予が延びました。
そんなわけで、無限休学編を送っている博士の院生。

研究は思うようには進んでいません。
業績も全く積んでいません。

現状の私はアルバイトを10年続けているだけで、
履歴書に書けるような経歴はなし。
貯金はありません。
あるのは奨学金返還の義務のみ。

この先どうやって生きていくのでしょうか。

博士の院生に対しては世間から見て、
さまざまな印象があるかと思います。
厳しい目で見られる部分もあると思います。
個人的にそれは仕方ないと思っています。

私がこの先どうやって生きていくのかを知りたい人だけ、この続きをお読みいただければと思います。

完全に詰んでる博士課程の院生が、
noteを一年やりながら、悟ったことを書きます。

高学歴ワーキングプアになる理由

学校の中でも成績優秀、真面目で勉強熱心な人が進むであろう博士課程。
コツコツと課題に取り組める力があるでしょう。
特定の分野については人よりも知識を持っているでしょう。

有能だと思われるはずの高学歴の人間が、なぜか挫折していく。そんな時代ですよね。

真面目であることは報われないのでしょうか。
なぜ上手くいかないのでしょうか。

プライドが高いから

高学歴の人は間違いなくプライドが高いです。
私も高いです。

努力するとプライドが知らず知らずのうちに上げられていくんですよね。
ここより下には降りられないというラインがどんどん上がっていきます。

高学歴なのに仕事がないという人も多いと思いますが
それは間違いなく、選んでいるからです。
仕事なんて世の中いくらでもありますから。
でも選びたくなっちゃうんです。がんばればがんばるほど。
それは人として当然の心理だと思います。

けど、自信はない

プライドが高いわりに、自信はないのです。
なぜならば、勉学・研究に励んでいくなかで、
自分がいかに小さな存在で、知識が浅はかであるかという己のレベルをよく理解してしまっているから。

努力した分プライドは高くなっていくのに、やればやるほどどんどん自信はなくなっていきます。
この種のギャップを抱えているんじゃないかと思います。

その結果、本当はない方がいいはずの自分の中のプライドにすがるしかない、という小心者に成り下がります。
自分はがんばってきたんだというプライドに由来するこだわりすら捨ててしまったら、
自分は本当に何者でもなくなってしまうような不安がある。

対策:誇りを持つべき

プライドと自信の乖離を緩和するキーワードは、“誇り”です。

がんばってきたことを誇りましょう。
人に知られていなくても、
誰からも良い評価を得られなくとも、
成果として目に見える形で実らなかったとしても、
自分だけは、自分がここまでどのくらいがんばってきたかを知っていると思います。
そこに対する誇りを胸に、前を向いて生きたらいいんじゃないかと思います。

考えすぎてしまう

学問の癖

もう一つ、学問の道に進むと生じる課題をあげようと思います。

学問というのは、調べることや実験をすることにその本質があるわけではないと私は思っています。
それは探究の手段にすぎません。

本質は『考えること
これに尽きるかと思います。

何かの問いについて考え続けるのです。

だから大学生ぐらいで学問に触れ始めてそこから一生懸命向き合って博士課程にまで進む頃には、
もはや考えるのが癖になっていると思います。
よく考えて自分なりの答えを導き出す、というのが習慣として身に付いているはずです。

それを日常の至るところでも行います。

すると何が起こるかというと、
思考の詰め具合が対等ではない相手とのコミュニケーションに悩みます。
このぐらい思考回路が働くのは当然だという感覚で接していると、
向こうはぜんぜん考えていなかったりします。

それはそれで別にいいんですけど、
今度は相手がどのくらいの思考を持っているかを探らないといけません。
一つ一つのことに労力を使います。

この現象がかなり起きると思います。
それで、人との関係や、環境に馴染めないという問題が起きます。

論文を書くときに考えること

論文を書くときに、
査読の先生はどういう専門の方で、どういった知識があるんだろうか、ということを私はすごく悩みます。

言わなくてもわかることをわざわざ書く必要はないですが、説明不足でもよくない。
また、論文は硬い文章のイメージがありますが、
最近は平易な表現でわかりやすく書くように、という方針の学会誌もあります。

人間関係というより、そういう学会誌の求める論文のレベルというものに悩みます。

章だて一つにも悩みます。
この学会誌はけっこうざっくりだなとか、
この学会誌は項目がある程度固定されてるなとか。

院生が出してもいい学会はどこだろうというのも悩みます。
専門の先生がいるところがいいですが、
格式が高いように感じられる学会もあります。

どの分野でも本当は若手研究者を育てたいのではないかと思いますが、
私は自分を育ててもらえるところにはあいにく巡り合えてません。

それで、一人でそういうことをいつも考えています。
もはや研究の中身とは関係のない悩みです。

人生はどこまでも過程の連続

結果を出せなくてもいい

そろそろまとめに入りましょう。

こうやって書き出してみると明らかですが、
博士課程の人間は自信がないなりに考え続けて、悩み続けているわけです。
ずっと頭を使い続けているのです。

一方でそれまでの人生で価値がおかれていたのは、結果を残すことです。
博士課程に至るまでは、結果を残してきたんです。
学校の試験でコンスタントに高得点をとっていた人たちだと思います。

ところが博士課程に進むと、途端に結果が出せなくなります。
それは本人の実力がどうこうというより、学問がそういうものだからだと思います。
青二才が何かをわかった気になって、簡単に示せる正解なんて無いのです。

たくさん労力をかけても、何も残せなくて焦ってしまい、から回っているところもあると思います。
100点を叩き出す場所がなくなって、心もとなくなってしまう。

数字がある方が確かにわかりやすいです。
資格を取ったり、賞をとったり、立派な業績を増やすこと。
それがあると、他人に自分のことをわかってもらいやすいです。
でもそれは自分のためにはならないような気もします。

他人に示すために結果を求めているというだけならば、
別に自分の実力の証明に必死にならなくていいと思います。

過程を大事に進む

他の博士課程の皆さんを励ましているような文面ですが、
ぜんぶ自分を鼓舞してるだけです。

高学歴の皆さんは、賢いので私がどうこう言わなくても大丈夫です。
自分の力で立ち上がれますし、前に進めます。
今までいっぱいがんばってきたのだから、
これからもがんばれると思います。

誰に認められなくても、
自分だけは自分を信じていきましょう。

1年間でできなかったこと、できたこと色々ありますが、
前を向いて目の前のことをコツコツとやり続けるという過程を自分は大事にしようと思います。
人生はほぼ過程に過ぎないので。


お読みくださりありがとうございました!

今後は博士論文の進展があったらマガジンに追加するかもしれませんが、
いったんは毎月更新終了です。

日常の記事は書き続けますので
今後ともどうぞよろしくお願いします。

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