近くて遠い国

※これはif世界の日本を舞台にした未完の仮想旅行記です。実在の日本の地域をベースにしていますがあくまで仮想旅行記であることを承知の上でご照覧いただければ幸いです。

※未公開過去作(執筆は2018年ごろ)なので作中描写は当時の情勢に従っています


序文:

現在の世界のパワーバランスの大枠を決めた第二次世界大戦(太平洋戦争)が終わって、半世紀以上の月日が過ぎた。
多くの国々は戦後のパワーバランスの変化に対応し、変化し、国家としての命脈を保っている。
その世界の中で大きく姿を変えた国の一つが、日本であった。
米軍支配下に置かれた沖縄と奄美は大和に帰らず独立の道を往き、ロシアの占領下におかれた四島は日露のるつぼとなり、伊豆大島は日本から最も近い隣国となり、小笠原諸島は日本で唯一の自治県となった。
戦後半世紀の年月を経てから生まれた私のようなゆとり世代にとって、それは決して何の違和感もない事だ。
そんな世代の人間が、政治的側面からこれらの島を見るというのがこの『近くて遠い国』の主題である。
私達にとって、戦争はあまりにも遠い場所に突っ立っている。
そこへ向かって歩いていくことが、近代史を知り未来を予測するのに必要な術なのだろう。

沖縄その1:
沖縄民主共和国は常夏のリゾートアイランドとして知られ、インドネシアのバリ島や中国の海南島に並ぶ東アジア一帯を代表するリゾート地だ。
世界中の主要都市から直行便が発着する第1ターミナル、沖縄の各島を繋ぐ第2ターミナル、貨物専門の第3ターミナル、2012年に増設されたLCC専門の第4ターミナルという4つのターミナルに分かれた巨大空港となっている。
戦後モノ・ヒト・カネの中心になることを目指して在日米軍の落とした金を教育と物流に流し込んできた成果と言える那覇空港の賑わいをすり抜けると、南国の日差しが降り注いでくる。
空港から那覇の中心部を繋ぐゆいレールは、多様な観光客に対応して複数言語対応に観光客向けパンフレットを充実させており観光立国としての成功を感じてくる。
うちなーぐち/しまくぅとばと呼ばれる独特のアナウンスが駅の中に響く。
間延びした日本語のように聞こえるこの島の言葉のあとに、中・韓・英の三か国語のアナウンスが流れ込んだ。
やがてモノレールがホームに滑り込むと、のんびりと人の乗り降りが始まっていく。
発車メロディも沖縄の伝統的な民謡である谷茶前節だ。
伝統的な舞踏音楽に送られながらモノレールは走り出す。
最初の目的地は美栄橋で降りて数分ほどのところにある。
国頭方西街道と呼ばれる琉球王朝以来の国道に巨大な港が設けられている。
これが那覇海洋物流ターミナル、沖縄の主要産業である流通産業の要だ。
沖縄では旅客と物流は明確に分けられており、港を分けることで人の流れを明確に分けて旅客が物流を阻害したり物流が旅客を阻害しないようにすることを目的にしたそうだ。
実際那覇空港では空港の南半分を物流専用の第3ターミナルとしており、第4ターミナル増設時に泣く泣く空港の南側を埋め立てて第4ターミナルとして造成し赤嶺駅から支線を引いてという大工事をしたぐらいだ。物流ハブ国家を志向するのも並大抵のことじゃあない。
案内人は地元の人である我那覇隆永さん、那覇海洋物流ターミナル管理事務所の広報さんである。
那覇で生まれ育った生粋の那覇人(こちらの人は那覇をナファと呼び那覇人をなーふぁんちゅと呼ぶ)でかつてラグビーをやっていたというだけあって背の高いたくましい男性だ。
我那覇さんによるとこの物流ハブで働く人のほとんどは地元那覇やその近辺の人が多く、港湾内の各物流企業の事務所では日本や中国と言った国外の人が多いという。
実際、港湾内にはしまくとぅばとそれ以外の言語が半々と言う印象だ。
コンテナも世界各地から届いているようで、よく目を凝らすとフランスや南アフリカの企業の名が記されたものも多い。
行き先もアジア各地にとどまらず太平洋の島国や南米行きの荷物もここで給油してから行くこともあるらしい。
「今やこの港はアジアの物流ハブから太平洋の物流ハブになりつつあるんです」
自慢げに我那覇さんは目を輝かせる。
その目に映るのはこの美ら島の未来だ。

沖縄その2:
現在、沖縄政府が国家の重大産業に挙げているのは物流・農林水産・観光の3つとなっている。
近年そこに伝統産業を加えようという動きがあり、今回沖縄の伝統産業である琉球漆器の現場を覗かせていただくことになった。
「琉球漆器は琉球王朝時代からの伝統があり、戦後も重要な産品として残ってきました」
そう語るのは那覇の隣、浦添の工房でデザイナーとして働く豊見城幸仁さんだ。
まだ30歳を過ぎたばかりだという彼はモダンな服装の綺麗な青年で、昨年行われた政府要人をもてなす漆器のデザイン公募で優秀賞を獲得したという琉球漆器界期待の星だ。
琉球漆器の戦後は、アメリカとの関わりから始まる。
沖縄に駐留した米兵は母国へ戻る機会のあるたびに家族へのオリエンタルな土産を求めて、沖縄の伝統的な産品でなおかつ見た目にも華やかな紅型と琉球漆器を買い漁った。
それを見た沖縄の人々はアメリカ人好みのデザインを調査して販売し、戦乱で財産を失った多くの人々がこれによって生活資金を得たという。
沖縄独立派の人々もこの伝統産業に携わることで生活費や独立運動の活動資金を得て、職人たちなどから財政的な支援も受けたそうだ。
その後、沖縄は独立したがその頃には伝統産業は顧みられなくなってしまっていた。
時代の最先端は科学に移ってしまい、政府はいつどのようになっても重要性が失われない産業として物流と農林水産を国家の基幹産業とした。
これを伝統産業界の人々は『親を捨てるに等しい暴挙』と非難したそうだが、代わりに教育の充実化に伴って各地に沖縄の伝統産業の後継者育成と新しい技術・デザイン開発を目的とした国立の専門学校が設置されたことで一応の不満は抑えられたらしい。
琉球漆芸は現在、琉球王朝時代から続く伝統的な沖縄の花鳥風月を描く古典模様と、戦後アメリカ人向けに新しく作られたアメリカ模様、沖縄独立以降に生みだされた今風模様の3つに大別される。
豊見城さんは主に今風模様のデザインと制作に取り組んでおり、彼の作る漆器もまたモダンなものだ。
「沖縄は物流と観光の島だと思われがちですが、本当はモノづくりの島なんですよ」
この島の漆芸を担う若き星の眼はどこまでも輝いている。

伊豆大島その1:
世界には大国の勝手気ままに振り回された国がいくつか存在するが、アジアにおいては伊豆大島共和国がその代表に挙げられる。
GHQの意向で独立させられた、日本に最も近い異国。
都心から船で1時間という異国とは思えないほどの距離(小笠原自治県の父島はフェリーで24時間だ)の近さは、常にこの国の独立と自治を危ぶんできた。
現在、この国では一週間以内の短期観光であれば国籍を問わずパスポートやヴィザが不要で自由に出入りができる。大学もないので島外へ出ることもかなり一般的だ。
毎年のように本土復帰の話が出てくるが、実際には本土復帰はされないまま現在に至っている。
友人で伊豆大島出身の金村ひとみがこの旅の案内役を勤めてくれることになった。
彼女は植物を専門に撮るカメラマンで、毎年椿の季節になると仕事を休んで故郷の伊豆大島に帰省する。
今回はその帰省についていく形で私も伊豆半島に行くことになった。
「伊豆大島と日本は兄弟だよ。」
伊豆大島行きのフェリーの甲板で彼女は私にそう告げる。
「特別日本を隣国だとは思わないし、日本人も伊豆大島を隣国だとは思ってないんじゃない?言われてから『ああそういえば』って思い出す感じ」
彼女の言葉は正鵠を得たものだ。
伊豆半島エリアなどでは伊豆観光のついでに大島を訪れるルートが一般化しており、島民が伊豆半島や都心へ通うのも一般的な光景だ。
「じゃあ、同じ国に戻る日が来ると思う?」
私がそう尋ねると彼女は少し悩んでから、こう答えた。
「100年後ぐらいにはそうなってるかも。でも、その頃には大学も出来て本土復帰論争が立ち消えになったりしてね」

伊豆大島その2:
そもそも伊豆大島が独立した理由についてははっきりとは分かっていない。
アメリカ本国にもあまり詳細な記録が残っておらず『GHQ本部での悪ふざけが間違って正式な書類になったのでは?』とまで言う人がいるほどで、日本にもアメリカにも帰属しないという自治意識により日米を巻き込んだ独立闘争が繰り広げられた沖縄とはかなり事情が異なる。
突然の独立指示に動揺したのは島民たちの方で、混乱の中当時島にあった6つの村の村長による話し合いがもたれた。
その6人の村長の一人に、初代国家元首となった柳瀬善之助がいた。
戦前から政治的意識の高かった彼は島人全員を巻き込んで新たな憲法の制定に励み、僅か2か月で発布にこぎつけてしまう。
困ったのは対岸の下田・河津地域の人々で、いきなり対岸の島にはパスポートが無いと上陸できませんと言うことになってしまったのでそのために短期間であればパスポートなしでの入国が認められた。
そして当時の日本政府も独立撤回をアメリカに働きかけていたにも関わらず本当に独立しちゃったものだからこの事態に頭を抱え、アメリカ側は短期間での憲法発布に目を見張ったとも言われている。
あと一日でも早く独立撤回を実現できていたら彼らは日本国籍であっただろうという歴史学者が多いのはそう言う背景もある。
しかし、独立によってバブル期に起きた観光開発ブームに巻き込まれる事なくこの島は美しい自然を今も保ち続けている。

小笠原諸島1:
日本で最も首都から遠い県庁所在地はどこか?と聞かれたらどこを答える人が多いだろう。
鹿児島か、札幌か。しかし正解は小笠原自治県の父島である。
都心から飛行機が飛んでいないので船で行くほかない上、距離もある。
伊豆大島よりもはるかに遠いためこちらの方がよほど異国めいている。
竹芝桟橋から貨客船・おがさわら丸に揺られる事まるまる25時間、小笠原自治県の中心である父島へ到着する。
船を一歩降りた瞬間から南国めいた日差しが肌に突き刺さり、小笠原ブルーと呼ばれる海と空のブルーが眼にも鮮やかだ。半世紀前まで日本領であった名残りを探しながらの旅となりそうだ。

北方四島1:
北海道の北に、日本でもなくロシアでもないふしぎな島がぽつんと浮かんでいる。
日本最北の駅として知られる稚内港から夏の宗谷海峡を渡る稚泊連絡船で約4時間の船旅。
札幌や東京からの航空便もあるが、あえて今回船旅を選んだのには訳がある。
この船は私の曾祖母が祖父を連れて乗った船だからである。
私の曾祖父母は南樺太で商売をしており、祖父も5歳までを南樺太で暮らしている。
祖父が5歳の時、ソ連軍が南樺太へ侵攻し曾祖母と兄弟たちは命からがらこの稚泊連絡船に乗り込み見知らぬ故国・日本へと帰ってきたという。
つまり祖父がこの連絡線に乗り込めなければ私は生まれていなかったやも知れない運命を変えた船なのである。
当時は朝乗っても夕方に着くような状態であったが、現在は船の高速化に伴い夏であれば朝乗っても昼前には到着してしまう。
青い海と空を切り裂きながら進む宗谷丸の上で私は祖父の運命を想う。



#cakesコンテスト2020

この記事が参加している募集