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“写真”の語り手とは誰なのか? 大竹昭子×川崎祐 『光景』をめぐる対話①

家族の日常というありきたりなテーマを扱いながら、
驚くべき緊張感と密度をあわせもった川崎祐の第一写真集『光景』。
この本はどのように作られていったのか。
川崎が思考を深めていった過程を、
彼と初対面の大竹昭子が聞きだしていく。
前情報なしの現場で交された写真と言葉についての深くてスリリングな対話。

光景表紙

なぜ家族を撮ったのか?

大竹昭子(以下、大竹 ):川崎祐さんにお会いしたのは今日がはじめてです。写真集も1週間前くらいにようやく到着したという具合でして、ご本人についてもまったく情報のないまま写真集を手にしました。まず表紙を見て「おおっ」と思ったんです。著者名もタイトルもなくて、首のない胴体だけの人の写真にマークのようなものだけが載っていて、素っ気ないことこの上ないんですけど、この感触がとってもいいなと。めくろうという気にさせる佇まいだったんですね。それで見はじめると次のページが気になって手が止まらなくなりました。写っているのは川崎祐さんの実家の日常風景で、特別なものはないんですけど、なんとも言い難い緊張感がありました。

川崎祐(以下、川崎):ありがとうございます。

大竹:めくるうちにだんだん怖くなってくるんです。何か起きるんじゃないかと。別に怖がらせるように撮ってはいないのに。日常にはそういうところがありませんか。見つめつづけるうちに、すべてがふっと崩れてしまいそうな不安が兆してくるんです。過ぎていく日常で、網膜に映ったものに感応してシャッターを切るという撮り方を日本の写真家はよくして、欧米に比べると圧倒的に多くて日本の十八番芸といえるほどなんですけど、この写真集は日常のさりげなさを取り上げながらも緊張感の高まりがあるのはどうしてだろうということを、私なりに考えました。
 そのことはおいおい話すとして、川崎さんが写真をはじめたのはいつ頃ですか?

川崎:2014年…2013年末ですね。

大竹:まだはじめて5、6年。その前はどんなことに関心を持っていたんですか?

川崎:文学研究をしていました。大学時代は日本文学専修に所属して卒業論文では中上健次を扱い、大学院では英米文学の作家を研究していました。つまり写真とはまったく無縁なところにいたんです。

大竹:小説も書いてたんですか?

川崎:今回解説を書いていただいた作家の堀江敏幸さんの授業を1年間だけ受けることができて、そこで2作ほど書いたんです。

大竹:つまり、もともとは文芸研究に進もうと。

川崎:それに近いことをしようかなと思っていました。

大竹:写真を撮りだしたきっかけは何ですか?

川崎:僕は大学院を出た後にすごく激務で知られている会社に勤めることになったんです。

大竹:どういう業種ですか?

川崎:マスコミ寄りのところです。僕は数字周りのことが全くできないんですけども、数字をひたすら扱う部署に配属され、エクセルとにらめっこする毎日を過ごしていました。でも僕には閉所恐怖症みたいなところがあって、エクセルが苦手で。あのエクセルのセルっていうのは箱じゃないですか? 箱がたくさん並んでいて目が痛くなるんです。

大竹:会社にいるあいだずっと小さな箱の中の数字を見つづけなければならなかったわけね。

川崎:そういう世界で2時3時まで仕事していると、体調を崩してしまいました。自律神経がおかしくなったんです。早い話が目に来ました。視野狭窄というか視界の四隅が変になって、これは目が見えなくなるぞ、っていう感じがありました。とりあえず強制休暇を取らされて休んだんですが、その間に目が見えなくなる怖さを感じたので、目が見えている間に見えているものを記録をしようと写真を撮り始めました。
 当時は奥山由之さんが使っていた「写ルンです」がブームになり始めていてよく売っていたので、それを使って撮り始めました。傷心旅行みたいなものに出かけて記録を残そうとしたりとか、そんな感じで始めたんですね。心身が摩滅していて重いカメラが持てなかったから「写るンです」を使って。

大竹:(写真集を開いて)なんでここに写ルンですが出てくるんだろうと思っていたんですけど、そう聞くとなるほどと思います。
 で、撮ってみてどうでしたか? 

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川崎:3カ月くらい撮りつづけたら、写真がそれなりに溜まってくるんです。
 一方で3カ月も経つと、正直体のほうは治るんです。十分な睡眠と十分な食べ物と栄養をとっていたら体は治って、写真を撮り始めた頃の初期の理由はなくなった。それで療養が済んだくらいのタイミングで撮ったものを友人に見せたら、「どうせならコンペに出したら」って言われて、それを「1_WALL」(ガーディアン・ガーデンが主催する、若手アーティストを発掘するコンペティション)に出したんですよ。その時は、たまたま入選だけはして、「続けなさい」と言われたような気がしたので、じゃあ続けてみようかなと。でも、撮る理由がない。

大竹:リハビリで始めたのに、治ってしまって、動機がなくなったわけですね。

川崎:これは困ったなと思って。そうすると嘘をつき始めるんですよね。そのムードのまま写真を撮り続けるわけだから。

大竹:病人ぽく。

川崎:そう、病人ぽく。嘘なんだけど、ある程度作れちゃうんですよ。その時期には、使い捨てカメラを脱して、普通のフィルムカメラを使っていたんですけれど、絞りであるとかカメラの基本的な操作を覚え始めるんです。絞りを覚えて、シャッタースピードを遅くすると被写体が揺れて見える。それが病の気分に合って使えるんですよね。
 そうやって無意識を言い訳にしながら、嘘をつくことを続けてしまうと写真が良くなくなっていきました。そして、そういうことは人にも見抜かれるんですね。「1_WALL」は半年に一度応募ができるので味をしめて、次も通るだろうと思って出していたら、最初は一次審査には通っていたのにそれすら通らなくなってきて、こういうことをやっていてはダメだなと思いました。きちんとしたテーマなり、撮るべきものを見つけなくてはならないと…。

大竹:自分に見切りをつけたわけですね。病を撮る理由にはしまいと。

川崎:緊張を持続できるようなことをきちんとしていかないと何にもならない。そう思ってこの家族のシリーズを撮り続けたんです。このシリーズをやり切ろうと。

大竹:そのときに家族が浮かんだのはなぜですか?

川崎:体を壊した頃は家族に頼らなくてはいけなかった。お金もないですし、それまで疎遠にしていた家族が頼り先になった。その時にこの遺影を見たんですよ。

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大竹:これは川崎さんのおばあさまですか?

川崎:遺影自体は僕が撮ったものではないんですけど、それが普通に家に転がっていて、これはまずいな、と思いました。

大竹:まずいってどういうこと?

川崎:ふつう、こういう写真を遺影にはしないじゃないですか?

大竹:まあ、しないわね。

川崎:ずれてるというか。これは祖母の認知症が始まっていた頃の、彼女のコミュニケーションの取り方の一つだったはずなんです。このポーズをよくしてた。多分写真を選んだのは母親で、ここに祖母らしさを感じてたんでしょうね。意識がはっきりとは把握できないような状態ながらも、こういうポーズの中に彼女らしさを感じたから遺影として選んだのでしょうけど、なんだか歪んでいるじゃないですか。

大竹:たしかにこのページに来た時はどきっとしました。

川崎:僕はしばらく家を離れていたので、この遺影が家のなかに普通にあるということに、奇異な感じや違和感を抱いて、この違和を見続ける必要があると感じて撮り始めました。でも、こういうものを撮りつづけるのは実際にはしんどい。だから違うもので手っ取り早くやれるならば、そっちの方がいいし、器用にできるならば、そのほうがいい。でもそれは挫かれるわけです。挫いてもらったというか。

大竹:病人っぽい写真が川崎さんを挫いてくれたと。

川崎:像を揺らしたりとかしてもダメだったけど、この家族シリーズは続けていました。それをもって何かにするとか、評価がどうのこうのではなくて、やるべきことはあるだろうと思って、途中からはこれだけをやろうと決めました。

大竹:視覚障害が家族のもとに連れもどしてくれた感じです。

川崎:不可抗力ですよね。だれにとっても家族というものは、必ずしも向き合いたいものではないのだと思います。いろいろな関係があるので。どの家庭の中にもドラえもんみたいなものがあるんですよね。一見楽しそうにしている幸せそうな家族であっても、ちょっと奇妙なものがあって、それぞれがちょっとずつ不思議なものを抱えているのが普通だと思うんです。そういうものに自分の弱みも全てさらけ出してあらためて出会うことは、なかなかシンドイものがありました。でも、それをしないとライフラインがなかった。

大竹:よくわかります。
 そのとき、言葉で表現することは考えなかったですか? もともと書いていらしたわけだけど。

川崎:写真を撮り始めたのと同じ時期にメモに近い日記を書いていたんです。そんなに几帳面でないので毎日書くこともあれば、何日も飛ばして書くこともあるんですけど。最初に「1_WALL」に出したときは、そのメモをフォトショップで全部バラバラにして、それをプリントアウトしたものに写真を貼ったんです。

大竹:メモ書きを台紙にする?

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                    初期作品「My World Is Mine」より

川崎:そうです。言葉を全て切り貼りして、コラージュし、そこに写真を置いていくという作業をして、それを30枚くらいで作って出したんです。体を壊したことについて書いていたので、妄言のように見えるんです、言葉の切れ端が。そういう作品とすら呼べないものだったかもしれませんが、初期衝動の塊ではあったと思います。

大竹:初期衝動とリハビリの合体。

川崎:でもそれは再現ができないものなんです。

大竹:作品のスタイルにすることは不可能ですよね。

川崎:難しい、というか怖い。自分を壊していく方に向かわないとだめだから、ちょっと危ないというか。

大竹:それで写真を撮りだしたら自然と言葉から離れていったということですか?

川崎:書けない傾向は実はもう少し前からありました。大学のあとに大学院に進んで論文を書いたんですけど、僕は論文を書くことがすごく苦手で向いていませんでした(笑)。研究は、研究の対象にどこまでハマっていけるか、それをどこまで客観視できるか、そして参考文献を読んだり、論文を読み続けることをどれほどサボらずにできるか、という部分も大きいと思うんです。ある意味、大学時代までやっていた創作とは正反対の作業を2、3年続けて、とても勉強にはなったけれど、研究をしながら創作に向かうことは僕には難しかった。バランスをとってできる方もいらっしゃるんですけど、僕はバランスがとれなくて書けなくなった。

大竹:ところで、写真は学校で学んだんじゃないですよね。

川崎:独学です。自分で学んでいくしかないのですごく忙しいし、復帰した職場も忙しいし。本を読んでる時間も書いてる時間もなくなって、必然的に言葉から離れていった。家族シリーズを腰を据えてやり切ろうと思っていたので、それはそれで大変で。

大竹:時間が要ります。実家に帰らなくては撮れないから。

川崎:はい、物理的に書けない。「書けない」の種類が変わっていったんです。

大竹:言い換えればその作業に没頭していったってことよね。

川崎:没頭というのが正しいような気がします。言ってしまえば、僕の家族はキャラ立っています。こういう父親がいて、こういう姉がいて、こういう母親がいて、義歯とかもころがっていて、違和感の塊のような場所です…。普通の家庭には歯の型とかないですよね。それらを奇異なものとして表出したらば、それはそれで面白いものになるんですよ、きっと。だけど、それをしたら駄目だろうなという勘がつづけていくうちに働いてきました。だから、いかに奇異を脱するか。いかようにも撮れてしまうものを、いかに撮らないか。ある時点からそちらの方向に向かっていったんじゃないかと思います。

(つづく)

“写真”の語り手は誰なのか?
  大竹昭子×川崎祐  『光景』をめぐる対話②はこちらから


川崎祐写真集『光景』はこちらから

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223mm × 283mm |上製本| 168ページ
ISBN: 978-4-86541-105-8 | Published in December 2019
発行:赤々舎 


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