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“写真”の語り手とは誰なのか? 大竹昭子×川崎祐『光景』をめぐる対話③

家族の日常というありきたりなテーマを扱いながら、
驚くべき緊張感と密度をあわせもった川崎祐の第一写真集『光景』。
前情報なしの現場で交された写真と言葉についての深くてスリリングな対話─

本記事は、前回からのつづきでその③、対話の終篇です。
前回までは、こちらから

意識を超えて写ってしまうものに任せたい

大竹:それともう一つこの写真集の中でとても印象的なのはお姉さんの存在です。登場回数も多いですよね。

川崎:最初から最後まで登場するんじゃないかな。

大竹:実家ではお姉さんが家族関係を築く手がかりになったのではないかと想像しますが。

川崎:そうでしょうね。間に挟まれてる人なので。父親と母親の関係は終わって久しくて。アメリカの夫婦みたいにフレンドリーじゃない。

大竹:終わってるけど別れられない。

川崎:姉はその間に立っている人っていう感じで、大変ですよね。ですので、ある手がかりではあったはずだと思います。それにとても不思議な表情をするところがあり、それは撮るべきものではあった、という感じですね。何か、一番わからない人ではあります。最も謎なままの人という気がします。

大竹:これだけたくさん出てくるから、関わりが深いことは想像がつくんです。しかも近づいて撮っていて、相手がそれを許している。ふつうならここまで撮ると嫌がられると思うんだけど。

川崎:あとあと嫌がってるかもしれないですけど……。

大竹:写真は見せてるんですか?

川崎:見せてます。恥ずかしがってました。恥ずかしがるくらいですね、反応は。

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大竹:このページはお姉さんへの親しみがとてもよく出ていると思うんですよ。寄って撮っているからサイズ感ちょっと変で、顔は大きいのに、手は幼児の手みたいで。そのあとにその手がポケットの中に突っ込まれているカットがあるので、目が手にぎゅっと集中する。たぶん無意識のうちにお姉さんの手を見てしまうところがあるのではないかと。

川崎:そうかもしれないですね。あんまり計算はしていないと思います。

大竹:計算してなくても出てしまう。撮られたものの中に意識せずに見ているものが表出していて、その一つがお姉さんの手であると感じました。

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大竹:それともうひとつ気がついたのは、口元ですね。登場人物たちがややみんな口を開け気味なんです。

川崎:なるほど。

大竹:最初のお父さんが登場するところがまさにそうで、口がぽっと開いてますよね。息を吐いてるとも言えるし、ものを言おうとする手前のようでもあります。何か言いたいけど、言えなくて口だけが開く、そんな感じが写真集全体に通底しているんですよ。これも意識的ではなくて、連綿と続いていく家族のありようを示すというスタンスが決まったときに、自然にそういうものが選ばれていったのではないでしょうか。

川崎:もう入り込んで没頭してる感じで選んでるんでしょうね。

大竹:ある一つの意識の状態に潜入していたようにも感じます。それこそ息を詰めて見つめていたのではないかと。

川崎:しんどいですよね。

大竹:並べたものを翌日見ると違うような気してまた並び替えて、というのも何度も繰り返して修正していくうちに、言葉を超えたものが形づくられていきます。
 もう一つ伺いたいのはカメラ機材なんですけど、前半は35ミリ・カメラですか?

川崎:はい、35ミリです。

大竹:で、途中から変えますね、何に変えたんですか?

川崎:マキナ67という、レンジファインダーの蛇腹に替えました。不良品なんじゃないかってくらいとてもピンが取りづらいカメラです。こういうものを売り出すことは今ならたぶんあり得ないでしょうけど、すごく不思議なカメラです。

大竹:どうして変えたんですか?

川崎:2017年に「1_WALL」を受賞し、ガーディアン・ガーデンで個展をすることが決まったあと、地元の風景が気になりました。だから風景写真を撮ろうと思ったんですけど、地方都市だからあまり撮るものがなくて。

大竹:心が動くものがない?

川崎:撮っていると「郊外写真」になっていくんです。ベッヒャー的と言うか。スティーブン・ショアとかニューカラーの写真以来、もうやりつくされてしまっている。その一方で、何もないように見えるけどそんなはずないだろうだとも思っていました。少なくとも地方や郊外をフラットと見做して図式化してしまうような傾向には強い抵抗がありました。だから、そうでないものをどう掬い上げられるかということに関心があった。それで、自分がこうだと思い込んでいる風景を強制的に変えていくようなカメラが欲しいと思ったんですね。それがマキナ67っていう、どう撮れているかがよくわからないカメラだったんです(笑)。

大竹:たまたま手に取ったんですか?

川崎:レンジファインダーには変えようとは思ってました。一眼レフは見えたまんまが写っちゃうけど、レンジファインダーは視差がある。見えているものと写るものの微妙な差を写真に持ち込みたいとは思っていて、それを過激に変えてくれるのがマキナ67だ、ということは何となく知っていました。それを人づてに入手して、撮り始めたんですが、まあ大変で。予想がつかないし、壊れやすくて。

大竹:蛇腹ですものね。

川崎:購入した後の修理費用も嵩むし、光漏れとかもよくあってハラハラなんですよ。そういう使いようがないカメラで、使いようがない写真を撮ろうと。

大竹:カメラに委ねようと。

川崎:そうすると郊外が郊外じゃない風景として立ち上がるかもしれない。そういう予想めいたものがありました。

大竹:「郊外」をイメージさせるフォトジェニックな写真はある意味で作りやすくて、色なんかもそれふうにすると「郊外」っぽくなります。

川崎:罠だ、っていう感じでしたね。ただ、場所を撮らないと、作品としての厚みが出ないので、空気とか質感の違うものを入れたくて。だから風景のシーンで人称が変わるというか、「語り」の話に引き付ければ一人称の「私」をさらに括弧に入れたという感じはあります。

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写真展と写真集はなにがちがうのか?

大竹:写真集にはプロフィールも全くないので、この場所は一体どこなんだろうと手がかりを探しながら見ていったんです。すると、車のナンバーに滋賀とあったので水辺の写真は琵琶湖だな、なら長浜あたりかな、と思ったんですけど……。

川崎:そう、長浜です。

大竹:読み手がそういうふうに謎解きをしていけるのも面白い効果でした。
 ところで、いま私たちがいるのは写真展会場ですが、まったくちがう構成です。写真集はページをめくりながら線上に進んでいくけど、写真展では一気に見渡せるので、写真集のようには順番を制御できないですよね。

川崎:だから始まりと終わりというのをある程度無くしてしまおうと思っていました。時計回りに見てもらうのが一番いいんですけど、逆から見ても成立するように、一番最初のところには、始まりっぽくないイメージを選んだんです。写真集の場合は微妙なズレが重なっていくけど、空間では重ならないから……。人間関係が見えやすいものをあえて外すということもしています。だから、人によってはフラストレーションが溜まるかもしれないけど、それはわざとやっているところがあります。
 僕は大学院でジャメイカ・キンケイドというイギリスの旧植民地で生まれ育ち60年代にアメリカに移住した作家を研究していました。今回書いたテキストには「小さな場所へ」というタイトルを付けていますが、実はキンケイドのテキストにA Small Placeというその名もズバリな文章があって、それをもらったんですね。A Small Placeでキンケイドは故郷の政治的腐敗とかツーリズムとかそこで暮らしている人たちの怠惰な感じとかに、要するに故郷のポストコロニアルな状況にものすごく怒っています。そういうテキストです。つまりここで言っている「小さな場所」、「家族」「地方」「郊外」というものは実は政治的にも容易に利用されうるものだと思うんですね。そこに家族愛や故郷愛のようないかにもな紋切り型の物語の形を与えてしまったらダメだと思っていました。未熟とはいえ一介の表現者としての意地というか。いかに物語を作らずに、物語を逸脱させ、しかし、これでしかないものを提示できるか、という意識はありました。だから、展示では違和がたまってくれさえすればいいと。

大竹:この空間が違和感の水溜まりになるように構成したわけですね。私は写真集を先に見たし、内容に思い入れたこともあって写真集の構成が好きですけど、展示をご覧になった観客の反応はどうでしたか?

川崎:怪訝な顔をしながら会場をぐるぐる何周も回っている方が多かったです(笑)。まあそれは冗談として、印象的だったのは少しお年を召したフルート奏者の方の反応でした。その方は写真集も展示も両方ご覧いただいた上で「展示の方が謎に満ちていて、音楽的な響きがある。いつまでも終わらない感じがして面白い。音楽をやっていると写真集はどうしても録音のように見えてしまう。それはそれで良いけれど、展示にはライブのような一回きりの愉しさがある」というような感想を伝えてくださいました。しかも2週間の会期のうちに3回も足を運んでいただいたようで、とても嬉しかった。

大竹:それはおもしろい話ですね。写真集はいろいろな要素が固定されている点が録音っぽいんでしょうね。ひるがえって展示では、空間のなかを動き回って自分なりのコンテクストをつくれるし、また見るたびに変化する可能性も大きいです。制御しにくいだけに包容力が高まるのかもしれません。

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大竹:そろそろ時間です。最後にひとつくらい質問を受けましょうか? 

質問者:文字と写真というのはともするとお互いを殺し合う関係性を持っていると思うんです。例えば中平卓馬さんは評論家から写真に、そして吉増剛造さんは詩人として実作を続けながら写真をやっている。で、そういう写真家さんの中で川崎さんっていう写真家を大竹さんはどう捉えますか?

大竹:既成のものからはみ出る傾向のある人、はみ出してしまったものが気になる人という印象を持ちました。だから、小説を書いたとしてもいわゆる起承転結があるような物語にはならないだろうし、おそらく「語り方」をすごく気にするでしょうね。形式への関心が高いんです。
 そういう人が写真を撮ると、写真を外側から見ようとするから、写真自体も面白くなります。だから最初に言ったように、写真だけをやる人よりも、別に何か持ってる人の方が表現としての強度が出る。やっぱり自分の中にもう一人ツッコむ人がいるということですね。言葉をやっていると「写真の自分」がツッコんでくるし、写真をやってると「言葉の自分」が、おいおいそれでいいのかって言ってくる。絶えず他者と対話しています。

川崎:中途半端が好きなんじゃないですか(笑)。僕には写真家って胸を張って言えるほどのキャリアもないし、始めてからの年数も短い。文章に関しても再び書き始めたばかりです。間違っても自分を中心だと感じ入れるほどの存在ではないので、シーンをリードする人たちの脇でこそこそ何かやってる人っていうイメージなんです(笑)。
 でも、そういう中途半端な人間もいていいんじゃないかとも思っていて。メインストリームから外れたところにいないと見えないものがきっとあるはずで、今回の作品では作る過程の中でそれを回収していった感じがあります。「私写真の解体」という意識はあるんだけれども、威勢よくそう言ったところで、私写真の中に優れた作品もたくさんあるし、さんざん家族写真らしい家族写真にネガティブな反応を見せていて説得力はないかもしれませんが、家族写真のフォーマットに乗った優れた作品もたくさんあるだろうし。そういう意味では僕はあまり威勢よくやらない人が好きなのかもしれませんね。おこがましいですが、僕の先生である堀江敏幸さんもそうかもしれないし、今回は話には出なかった須賀敦子さんという方もそういうふうに書いてきた人だろうし。でも、そういう人たちこそが実は過激なことをしてるんじゃないかなあ、とも思っているんですよね。

大竹:私もそうでね、中心の方に寄せられて、これだ、って決めつけられるのが嫌なんです。天邪鬼っていうことかもしれないけど。「あなたは○○ですね」と言われると「いや違う」って言いたくなる。川崎さんだって、写真家って言われると「いやいや違います」って言うだろうし、じゃあ「小説家ですか」って言われると「いやいやいや」みたいなそういう天邪鬼体質を感じます。

川崎:とても生きづらい。

大竹:今日はなぜ私がご指名受けたのかなあって思ってたんですが、どうやら天邪鬼、生きづらさ派だっていうことが…。

川崎:判明しましたね(笑)

大竹:ただね、川崎さんの良さはこれは違うあれは違うっていいながらも、どこか真っ直ぐなところがあることです。

川崎:そうですか。

大竹:物事を直視しようとするところに惹かれたんだと思います。この真っ直ぐさが愛すべき美質だと思いました。

川崎:ありがとうございます。

2019.11.23(sat) 16:00 – 17:30
於 銀座ニコンサロン


川崎祐写真集『光景』はこちらから

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223mm × 283mm |上製本| 168ページ
ISBN: 978-4-86541-105-8 | Published in December 2019
発行:赤々舎


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