見出し画像

私たちの幸福とは Sapiens: A Brief History of Humankindより

サピエンス全史では、認知革命・農業革命・科学革命と3つの革命が時系列と共に紹介されていったが、この世は2020年代。原子爆弾の脅威や資本主義の強欲さによって平和が押し付けられていると言っても過言ではない現代になっている中で、私たち人類の幸福はどこにあるのか。本当に未来にいくにつれて幸せは増えているのか、そしてその幸せは果たして求めていることなのか、考察を含めまとめていく。

そもそも幸福とは何でしょう?

 まず、初めに問いたいのが「そもそも幸福とは何でしょう?」。私たちは何を基準に幸せと言っているのでしょうか。主観的厚生であるという観点から考える。主観的厚生とは、たった今感じている快感であれ、長期にわたる満足感であれ、私たちが心の中で感じているもののことを言う。これを測るには、アンケートが必要だ。「今の自分に満足している」「人生は良いものだ」「将来について楽観的だ」などの質問に、10段階評価で答える。心の中が大切という自由主義が蔓延しているこの社会では、一定の効果は表されるだろう。そして、主観的厚生にはどのような要素が関係しているのか。その主は、富と健康と人間関係と言える。富の目線から見ていくと簡単かもしれない。お金が幸福に関わっていると感じる瞬間は、パート・バイト・ニートとして生活する一部経済的貧困層にとって富の増大は、喜びと共に厚生を向上させるし、長続きもするだろう。一方で、一部と言った背景には経済的富裕層の存在がある。一時的な増大を向上させる人はいるだろうが、持続性を鑑みた上では富だけが幸福とは言えない。次に、健康だ。病気の発症や怪我の誘発は、主観的厚生を下げることはもちろんあり得ることではあるが、不健康と言える要素を含む場合でも、長期的な変化がない時は主観的厚生は変化しないという状態になる。それならば、人間関係を中心としたコミュニティーはどうか。強い絆で結ばれた家族やコミュニティにいる人は崩壊している家庭より大きく主観的厚生は高い。それは、「結婚して幸せ」や「みんなのような家族がいて最高」という感覚が1つの例として表している。しかし、これも家族・コミュニティの枠組みが現代で薄くなっており、強い国家と強い個人という構図が出来つつあるため、物質面の主観的厚生の向上をコミュニティの弱体化による精神的な低下で相殺している可能性がある。このように、3つの外部的要因による幸福を主観的厚生とする観点は、それほど左右されていないので、完全に賛同させることができないことが分かる。

期待をいかに満たすかによって幸福に関わる

 次に、期待をいかに満たすかによって幸福に関わると言っている期待満足度の観点から考えていく。期待満足度とは、客観的条件と主観的な期待との相関関係である。つまり、「何を期待するか?」によって幸福かどうか決まるという考えだ。幸福が期待によるならば、その期待はどこからやってくるのか、1つの要素として時代による移り変わりとも言える。現代では不快に思われる行動も数世紀前を振り返れば満足する行為だったかもしれない、時代によって異なる価値観の中で満足度が表現しづらい状況があるのだ。さらに、メディアの影響も大きいことも忘れてはいけない。現代のようなメディアの発達がされていない時代では、身近のコミュニティのみで比較対象が少なくかつ広すぎず満足感を得る可能性が高かった一方で、現代では、普段目にするテレビやSNS、街頭広告など比較対象が多くかつ広いので満足を得ることは難しい。幸せが期待ならば、マスメディアと広告はとっくに世界中の人々の満足を奪っていたかもしれない。未来で考えても同じくだ。技術の進歩によって健康面の心配が不要になった場合、わずかな危険を冒す行為を避けるようになる。しかし、年齢ならでは経験や苦痛が少ない分、その生活が耐えがたいものになると考えるのが容易だ。期待とは無制限であるため、幸福は今に満足する以外あり得ない状況を生み出すことになる。

幸福とはただの生化学反応である

 次に、幸福とはただの生化学反応であるという科学的観点である。性化学反応とは、ニューロン・シナプスを流れる電気信号である神経パルスと、セロトニン・ドーパミン・オキトキシンなど様々なホルモンである生化学物質の2つを要因とした反応であるということだ。幸福なシチュエーションを想像する機会がある人もいると思うが、その幸福の絶頂にいる人は富・健康・関係に反応しているわけではなく、単なる人間の電気信号とホルモンに反応していると説明できる。この生化学反応は、幸福度調整システムというように例えられ、次のように説明される場合もある。もし人間含め生物は、快感が続いてしまったら次の行動を起こさない。性交後に享受したオーガズムがずっと続いてしまったら、ご飯を食べることをせず死に絶える。このような生き物は進化の過程で淘汰されていった。そのため、高まった幸福感を一定値に戻すような生体機能があるのだ。幸福度を数値で表せるとしても、元々の性格の数値があるため経験による幸福体験に大きな差があったとしても浮き出ることは少ない。この幸福度調整システムを考えると、歴史の意味とはどういったものになるのだろうか。陰鬱な生化学システムを持っている人の場合、大きな変化の前後でも生化学的なものが変わるわけではないので周りに伝染させるし、逆に陽気的なシステムを持つ人の場合、圧のある状況下でもより活発になっていく。このような切り口の場合、幸福との相関に関して逆になる可能性がある。幸福的なシステムを持っているから出来るということと不幸な生化学システムだから成功しにくいとなる。幸福が静化学反応と言うのは、科学的ではある部分もあるが、意味を成さなくなる。もし、幸福がただの生化学反応だけであるならば、単純に高い絶頂感を味わうことが最高の幸福になってしまう。

生化学的には苦でも幸福である

 次に、先ほどの生化学的には苦でも幸福である場合もある。これが、幸福とは人生の意義という説です。この説に立つと、幸福とは不快な時間が心地よい時間を上回ることではないと考えられる。過去の時代は、人生の意義というのは明確で、集団的妄想の中に人生の意味を見出しているおかげで現代よりも幸福だった可能性が高かった。しかし、現代の場合における人生の意義とは、思想主義や職業などによって様々で、意義のためなら努力や犠牲を惜しまない、それこそが有意義な生き方だと主張することである。ただ、これまでの歴史で分かる通り人生の意義はもれなく全て虚構で、自分の人生に認める意義は、いかなるものも単なる妄想であるということになる。その意義はどこからやってきてどこへいくものかあなたが死んでも残るものかなどを考えれば明らかになるだろう。ただし、本当にそのような自己欺瞞があっても良いのだろうか。

サピエンス全史の論点である「自分を知る」ということ

 最後は、サピエンス全史の論点である「自分を知る」ということ、仏教的な結論である。仏教的というと偏見が生まれるかもしれないが、自由主義な人々はこう主張する。「幸せかどうかは、外部の条件によって決まるのではない。心で何かを感じるかによって決まる。富や名誉など外部の成果を追い求めるのをやめ、内なる感情に耳を傾けるべきなのだ。」という。このような考え方により反体制的でロックンロール的な潮流や、うちなる心に従うため嫌な感情を追い払う心の浄化の進行が生まれた。しかし、これは仏教のゴータマの主張とも正反対である。「苦しみの根源は、感情を追い求めること。辛い感情の回避や喜びの追求をしていては心に満足することはない。自分の心身を入念に観察する瞑想は、感情を追い求めることがいかに無意味かを悟る修練である。どんな感情もあるがままに受け入れられると、心の緊張がとけ、今この瞬間に満足していられる。」快も不快も特定の感情の追及をしないで、あらゆる物語を脇に置き、自分が本当は何者か、何であるかを理解することが、自分を知るということであり、不幸ではないということである。すなわち幸福とは、少なくとも自分を知ることが含まれる。また、「自分を知る」ということは不可能ではないものの非常に困難であり、自分の感情や思考、好き嫌いを自分自身と混同している。怒りや恐れなどの感情も自分自身の一体として感じてしまうのである。現代の心理療法では、人々は自分自身がよくわからないので、自己破壊的な行動から抜け出すためには専門的な助けがいるとされている。しかし、心理療法を考案するベースである心理学は、自分自身がよくわからない人の質問表を統計して実証しているという完全な矛盾を抱えている状況である。私たちは、幸福について無知であるという姿勢でいることが重要でその空白を埋める作業が求められているのかもしれない。
 幸福とは何ではないことが明らかにし、何を望みたいかも諦めさせるスタイルで記述したが、もしかすると何をした方がいいという考えに固執することが虚構で、何を捨て何を選ぶのかが幸福なのかもしれない。

参考文献
・Yuval Noah Harari, SAPIENS;A Brief History of Humankind (柴田裕之訳,2016,『サピエンス全史(上)――文明の構造と人類の幸福』株式会社河出書房新社.)
・Yuval Noah Harari, SAPIENS;A Brief History of Humankind (柴田裕之訳,2016,『サピエンス全史(下)――文明の構造と人類の幸福』株式会社河出書房新社.)

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?