見出し画像

1000年後に 夜明けの海で

リュック・ベッソンの映画『LEON』でマチルダが言っていた

「人生はずっと辛いものなの?それとも子供のときだけ?」

という台詞を、ふと思い出した。

子供の頃って、つらい記憶ばっかりだなぁ。
大人になって、"大人"にもそこそこ足を突っ込んできた今、ようやく自由な気がしてる。

今日も今日とて、意味もないことを継ぎ足して書いてみる。勢いで書けるほど筆が乗ってる時期じゃないのかもしれない。


一度知ってしまったら、二度と。知る前の自分には戻れない。
もっと早く知りたかったこと。もっともっと。早く。出会いたかった人。あの頃の自分に、今の自分のまま戻れたらと思うこと。

「僕は/私はこんなにもモノを知らない」と自分を恥じる人がいるけれど、まだまだたくさん知れることがあるのは素敵なことだから、そんな風に思わなくていい。「こんなことも知らないのか」なんて言ってくる手合いは、捨て置く。
「知りたくなかった」「知らないままでいたかった」なんてことも往々にしてある。なんだか『アルジャーノンに花束を』のチャーリィみたいだ。

このところ、人が「観た方がいいよ」「読んだ方がいいよ」と勧めてくれたものにはなるべく早く手をつけるようになってきた。『宝石の国』は傑作だったなぁ。一生忘れない。記憶を消してもう一度読み直したい。

「何かオススメない?」と聞いてきた人に「そんな君にはこれを」と。贈り物をするように作品を推すのも、結構好き。一緒に、見えている世界の答え合わせがしたい。

常に予測の埒外に居たい。まだ出会ったことのないタイプの人で居たいし、観たことも聴いたこともない音楽家で在りたいと。でもそういう手のひらサイズの願いは、ちょっぴり凡庸かも知れない。

なんてことのないことを滔々と書き連ねているけれど、本当に、なんてことのない。文字通り、中身のない文章の羅列だ。少しばかり心が散らかっているなと思う。感情を対象化できていない。甘いものが足りていない。

このところ、身の回りで解散や休止、引退のニュースが相次いでいたから、無意識に内省的になってしまったのかも知れない。そも、自分という人間は元々ひどく内省的ではあるのだけれど。昨年の11月からこっち、馬車馬のように働いていたのが落ち着いてしまったために、仕事に向けて一本化できていた思考がバラついている感覚がある。

のんびりいこう。息を吸おう。



”ミュージシャンあるある”に含まれるのかはわからないのだけれど、演奏家は同じパート同士で引き寄せ合う、みたいなイメージがある。ギタリスト達は各所で『ギター会』なんて催しを開いたりしている。ドラマーも『ドラム会』を開いているらしいのだけれど、僕は行ったことはない。一度知人から誘われたけれど、スケジュールの都合で断念してしまった。

僕にはドラマーの友人が少ない。

いつでも気兼ねなく連絡が取れて、なんの気負いもなく会いに行ける間柄の同業者、その中でも同パートとなると、思い浮かぶのは片手で数えられるほどだ。

その中の一人から、年初めに電話があった。

「年内で音楽辞めることにした」

「そっかぁ」

活動を休止する、引退する、辞める。

よくある話ではある。珍しい話では、けっしてない。

どこまでも真っ直ぐで、不器用だけれど一生懸命で、いつどの場所でも明るく華やかに振る舞うようでいて、その実、悩みや苦しみをみだりに見せびらかすことはなく、ときどき独り言のように内面をこぼしてくれる、実に人間らしい男。
『がんばりやさん』という言葉が似合う。とてつもない練習魔で、ドラムが好きで好きでたまらない!というのが音に出ていた。
僕には真似できないパワフルさで、エネルギッシュに、心の底からドラムが大好き!というドラムを叩く人だった。

そんな彼が、辞める、という。

「なぜ」とは聞けなかったし、聞かなかった。

「辞めるなよ」なんて、口が裂けても言えなかった。これでも長年の友人だ。どれほどの覚悟でその答えに辿り着いたのかは、なんとなくわかる。
逆に、すっぱり辞めるという決断に至ったのも、また彼らしいと思う。それもまた、彼なりの音楽やドラムに対する礼儀のようなものなのかもしれない。

『音楽を仕事にする』『しがみついてでも続けていく』というのは、擦り減ってしまうから。

お互いセッション業なので、界隈が近いところで鉢合わせると「またか〜」なんて笑い合った。ライヴハウスや街のスタジオで。フロアや袖から、スタジオの防音扉の向こうから、何度も彼のプレイを観た。
現場の楽屋や彼の家で一緒に練習をするのが大好きだった。いつどこにでも練習パッドを持ち歩いていた。

彼の叩くドラムが大好きだった。

同じパートで悩みが共有できる、という存在は貴重だ。僕は人見知りで、どうしようもなく臆病で、なかなか人と心を通わせられないので(そうしたいという気持ちはあるのだけれど)「わ!仲良くなりたい!」と思っても自分から声をかけられないでいることが多い。ついでに顔も怖くて、石ころの裏側みたいに陰気だ。
そんな僕とは真逆の、超がつく前向き陽キャの友人は、これからどんな旅に出るんだろう。あのバイタリティと愛されキャラな性格が羨ましくもあった。

この仕事を選んでしまった以上は、諦めないといけないこと、捨て去らないとやっていけないことが多い。社会通念の外側に居ることを”リスク”だと思わないでいられる鈍感さ、根拠のない自信や、何があっても日々の楽しさを見出せる不屈さ、といったものが必要になってくる。

僕が思うに、音楽や楽器というのは、もっともっと自由なものだ。仕事や、生きる目的に紐づけると、とてつもない重みが増してきてしまう。それをよしとするか否か。どこに行きたいのか。どうなりたいのか。何が大切で、何が好きで居られるか。

そうまでして続けたい何かが、果たしてどこにあるのか。それがわかっていさえすれば、どんな形であれ続けていて欲しいとは思う。

ちなむと、僕の場合は「人の喜ぶ顔が見たい」に尽きる。


『辞める』という言葉だけ聞くとネガティブかも知れない。けれど、別の道が見つかったからこっちを進みますね、という選択をしただけのことで。
『諦める』や『嫌いになる』だったら悲しいけれど、そうではなく。

けれども。

やっぱり、寂しいな、と思う。

辞めていく人を見送るのは、いつまでも慣れない。
せめてもの、ではないけれど「覚えていよう」と思う。

忘れないこと、覚えていること。託されてはいないし、勝手に背負うつもりもないけれど。

あなたは確かに。
間違いなく、輝いていたよ、と。

そしてその姿が、奏でていた音が、自分の中にも変わらず生きているので、それを大切に愛でていくこと。続けていくことが、何よりの花向けなんじゃないかな、なんて思ったりした。



noteの『ダッシュボード』なる機能の使い方をようやく把握してきた。一度の投稿につき300人ほどの人が読んでくれているらしい。スキの通知が来るたびに嬉しくて小躍りしている。

その中でも、いまだに読まれているらしい記事が

これ。
未読の人は暇だったらどうぞ。

最近ゲームぜんぜんできてないな。こんなにゲームしてない期間が続くのはここ10〜20年でも初めてのことかも?



最近は文字を起こすのが下手になってきた気がしてしまって、気楽な趣味のはずだったnoteに対して少しばかり及び腰。いちいち推敲しなくても良いのだろうけれど。

ドラムに座ってしまえば、あんなにも余裕で、自由で、どこまでも飛べるのにね。ドラムさえ叩いていれば、誰かに認めてもらえる。存在の証明になる。楽器の力が借りられない時の自分はひどく無力だなぁ、なんて思う。

気にし過ぎだろうか。でもそういう”気にし過ぎ”ごと、甘いものと一緒に食べちゃおう。煙に乗せて吐き出そう。

僕のことも、いつまでも覚えていて欲しい。忘れられない人でいたい、と思う。ドラムを叩くことぐらいしかできやしないのだけれど。

読んでくれてありがとう。




プチ告知というか。

SEGAのオンラインRPG『Phantasy Star Online 2 New Genesis』の主題歌「A World Beyond The Sky」のリミックス版が各種サブスクで配信されていたとのことで、遅れ馳せながらご報告。

NGSになってからはプレイできてないのだけれど、PSO2は2,000時間以上遊んだので思い入れが深いタイトル。
各BGMで自分のドラムが聴こえてくるのはとっても光栄なことです。今回も参加させてもらえて嬉しい。

自分が参加した曲って気恥ずかしくて普段はあまり聴かないのだけれど、今回は結構聴いちゃうな。もともとこの曲が大好きだったのもありますし。

SEGAさんいつもありがとうございます。

なんて、この場をお借りしてひとつ。
ではまた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?