ウィトゲンシュタイン『哲学探求』入門

中村 昇 著

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普段はなかなかこういう哲学関係は読まないんですが、翻訳の講座を受けた中に出てきたこと、言語学の授業で大学の頃に聞いたことがあったこと、夫が倫理も教えていて哲学の話を聞くことがあったことが重なって、手に取って読んでみました。

SFでもなかなか哲学が入ってくるような内容は好まないんですが、これはまた読んでいて思考がグルグルと同じ場所を巡ったり進んだり、進んだと思ったら戻ったり、集中して読まなければならない1冊でした。

さて、今回は読書記録ではありますが、言葉についてなので少し考えながら、ネタバレも何もないので学んだことや考察なんかも交えながら紹介したいと思います。

『語の意味とは、その使用である』

これはウィトゲンシュタインの思想を表す一文です。大学の授業でも紹介はされて、あー何となく納得。と思って聞いてきた文です。でも、中村さんのこの本を読んでみると、自分自身の使っている言葉に少し自信が持てなくなります。文章を人に見てもらうために書いていますが、正しく伝わる保証もないし、私の内側にだけある(この表現もまた正確ではないと語られていますが)感情や考えを私自身が正しく出力しているのか考えさせられます。

言葉自体には確固たる意味はなく、文章の中・会話の場面などの運用されているコンテクストに意味が依存する、ということだと解釈しました。

リンゴは日本語でリンゴといわれてきたからリンゴなだけであって、ほかの言語や場面に移すと違うものや全く意味の通じないものになる、という感じです。

また、例えば、「窓!」と発した時に、それは「窓があった!(発見)」「窓を閉めろ/開けろ!(命令)」などと場面に応じて、名前としての機能だけでなく、‛言外’の意味をも担う、ということだとざっくり解釈します。

もう一つは、自分の感じる「痛み」は他人の感じるものと同じなのか。痛みは自分自身と切り離せず、他人からは「痛がっている自分」しか共有する部分がないのに「痛い」という感情に名前がついている。痛がってる場面で子供の頃に大人が「痛いんだね」と声をかけてくれるから、これが「痛い」というものなのか、と思い込むようになる、ということから、コンテクストの中に意味があると解釈します。

もっと難しくて複雑なことを言っていたのですが、さっくりと。哲学書は読み慣れてないので、解釈違いにもご容赦を。

とにかく、書くときには文脈が、話すときにも場面がないと言葉は成立しえないということでした。

言語教育の側面から

言語教育でも場面設定が必要!と思う私にはぴったりのこの考え方。英語も帰国子女なのでほとんど場面や使用で覚えてきた節があります。子どもに説明するときも、文法的側面だけでなく、使用場面や文脈から解説することが多い私です。使う場面があって初めて意味を持ち始めて自分の中に蓄積されていくのだと感じています。

今は、少しだけ高校生の英語の学習のお手伝いもしていますが、SVOCにとらわれていて、文法だけで読み解こうとするその姿勢は少し悲しいものがあります。感覚的になるほど英語は使わないけど、高度な英語を読めなければいけない悲しい弊害でしょうか。何かいい方法があるといいのにな、と感じてしまいます。

また、自分の感情を日本語でも表すのに苦労する子どもたちとも接してきました。本を読んでいろいろな場面のいろいろな感情に触れること、他人と自分の経験を話して・話を聞いて感情表現を蓄積していくことが大切だと読みながら感じていました。自分の内側を表すものはあくまで外から似た場面にときに現れている感情を借りて自分のものにしていくしかないのだから。

翻訳の側面から

翻訳の講座を受けながら、自分でも翻訳を多少しながら、また、自分の考えていることが最近は日本語で先に浮かび上がるから苦労しながら、ちょっと考えていることを。

どのような場面で、だれが、だれに向けて、発信している言葉なのかをしっかり見極めて翻訳を進めていくことが大切だと、この本を読んでいても感じました。もちろん毎回意識して行っていることではありますが、より一層そのように感じました。その文脈・背景の中で使用され、相手の言葉の範囲の中で伝わるであろう・共通理解を得られるであろう言葉を選択しながら同じ場面での違う言語なら、というものを選択していく。とても大変で自分の中にたくさんの事例がないとどこから引っ張ってこようにも困ってしまうと痛感しました。さまざまな言葉のストックを自分の中に持っておきたいものです。

機械翻訳が出てきて、確かにコンテクストを限定してしまえば、その時に現れる言葉には共通の意味があって、似たような場面では簡単に使用できるのかもしれないです。ですが、細かいニュアンス・強調なども含めて訳すことが必要になったときに翻訳者・通訳者は活躍するのではないでしょうか?

まとめ

背景がある生きた言葉を発している私たちは、ほかの言語に置き換えるとき、またその言語を使って自分の感情や考えを示そうとするとき、できうる限り、背景を配慮した変換を心がけたいものです。英語学習者の疑問に答えるときも、翻訳をしているときも、言語にかかわっているときにはいつでも気を付けたいと感じました。

いつもと少し趣向の違った記事でしたが、どうでしょう?私はちょっと変な感じがしています(笑)

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