『持続可能な魂の利用』を読んで

 私がその本を手に取った時の気持ちは、どんな言葉で言い表しても不足になるだろう。

 クリスマス商戦直前のショッピングモール、その一角にある細やかなしかし小綺麗な本屋の「女性向け書籍コーナー」に、ヘテロセクシャル女性向けの恋愛指南書やアンガーマネジメントを勧める自己啓発本に挟まれてその一冊はあった。そんないかにも"女らしい"本に挟まれて、窮屈だといわんばかりの顔で。
 私はその挑発的な帯を読んで笑い──『この国から「おじさん」が消える』とはなんと愉快な物語だろう──冒頭7ページばかりを捲ってさらに笑って大ハシャぎした。「女子高生」が「おじさん」の不躾な視線から解放される夢物語を、子供のように無邪気に喜んだのだ。
 その本をカウンターに持っていく行為すら、家父長制社会に対する反抗のように感じて胸を踊らせていたのだから少々ハシャぎすぎというものだ。

 しかし、なけなしのお金を払って本を買う間に興奮は覚めていき、帰りのバスを待つ頃には凍て風で冷えた頭にある予感が芽生えた。
 バスに乗り込み、おじいちゃんやおばあちゃんばかりの車内を見回し、車外の広い空や老朽化が進む町を眺めながら、私はその予感は正しいだろうと憂鬱な気持ちになるのだった。

 その予感とは、つまり、「持続可能な魂の利用」に描かれる「女性」の中に私は"いない"だろうという諦念だ。

 そして現在、私はこの夢物語の読破をとうとう諦めた。この物語で私が救われることはないと、気づいてしまったからだ。
この物語の著者、関係者には申し訳ないが、事実なのだから仕方ない。私とこの本の相性はほとんど最悪だ。

 私の文をこれから読む方々へ、この感想文は私が松田青子著「持続可能な魂の利用」を109ページまで読んだ所感であることをはじめに断っておく。

 もし私がこれから指摘する「問題点」が私が読んでいない箇所で言及されるのならば、私の早とちりというならば是非教えて欲しい。できれば最後まで読みたいので。

1.デフォルメされる性差別社会

 「持続可能な魂の利用」(以下、本書)がどのような物語なのか、最後まで読んでいない私が要約するのは不適だろう。代わりに本書を紹介している記事を提示しておく。
https://shosetsu-maru.com/interviews/authors/quilala_pickup/141
リンク先は「持続可能な魂の利用」の著者のインタビュー記事になっている。本書のあらすじの他、本編に影響を与えた著者の経験やフェミニズム活動にも言及されているので参考にされたし。

 さて本書では(少なくとも109ページまでは)、「加害者の"おじさん"vsか弱い被害者の"女性"」という構図が手を変え品を変え描かれる。
 それらのシーン一つ一つは、恐らく多くの女性たち(※全てではない)にとって覚えのある状況だろう。
 例えば主人公が過去に受けたセクシャルハラスメントなどは、twitter上で#me_tooタグで共有される体験談を探せば似たような話がごろごろ出てくる。 性差別的な状況は、いつも目の前に、うんざりするほど湧き出るのだ。

 そしてこの物語の上では、それらの性差別的な状況を生み出す加害者が"おじさん"としてデフォルメされて登場する。"おじさん"は家父長制社会の権力者であり、あらゆる場面で"憐れな女性たち"を一方的に苦しめるというわけだ。

 私は、このような「デフォルメ」こそ、フェミニストたちの思考を停止させ、フェミニズムの革命の力を弱めかねない考え方だと危惧している。
 何故ならば、このような善悪二元論の世界観を採用することによって取りこぼされる事実があるからだ。さらにこの単純な勧善懲悪思考は、見えざる毒のようにフェミニストの脳髄を侵し、視野を狭くし、分断を促進し、気づかないまま家父長制社会に協力させてしまう。

 以下では「デフォルメされた性差別理解」が取りこぼす、性差別社会の有り様を大きく二つに分けて取り上げる。

2."おじさん"とは何者か

 まず"おじさん"、即ち家父長制社会における加害者とは誰なのかという話をする。(ここでは「家父長社会における加害」を性差別には限定しない)

 "おじさん"とは何者なのだろうか?

 先に答えを開示しておくが、社会に生きている限り誰でもみんな"おじさん"である。
女性でも"おじさん"的に、家父長制社会の権力者として横暴に振る舞う人間になりうる。
この事実は、本書でも簡単にだが言及される。
曰く

一つ、「おじさん」の中には、女性もいる。この社会は、女性にも「おじさん」になるよう推奨している。「おじさん」並の働きをする女性は、「おじさん」から褒め称えられ、評価される。

(「持続可能な魂の利用」101ページより引用)

 しかし、この認識でもまだ不十分であると私は考える。何故ならば、加害者は多くの場合常に加害者で居続けているわけではないからだ。
 例えば現実には以下のようなことが起きる。

・夫や親からDVを受けている女性が、子に虐待や過干渉を行う。
・ガラスの天井によって昇進を拒まれている女性が、後輩やより下の地位にパワハラを働く。
・ある場面では痴漢に怒りを示す人が、他の場面では未婚の友人に「早く結婚したほうがいいよ」などと勧める。
・悲惨な性犯罪の被害者で性犯罪反対のデモにも参加する人が、醜悪なトランスジェンダーヘイトスピーチをする。

 例にあげた人々は、ある側面では確かに差別社会の被害者であるが、一方では差別の加害者/家父長制社会の共犯者にもなっている。
これは、家父長制社会の「階級」を決定する基準が「男性-女性」の他にも多様に存在することによる。子供よりも大人が、若年よりも中年が、セクシャルマイノリティよりもへテロセクシュアルが、トランスジェンダーよりもシスジェンダーが、この社会ではより強い特権を与えられている。
 家父長主義的な暴力や差別は常に強い立場から弱い立場へ向くものだ。だから、ある瞬間男性から差別や暴力を向けられる女性が、次の瞬間にはより弱い人へ暴力を振るうような状態は自然に起こりうる。そして、当然ながら、差別を行う人全てが"おじさん"社会に評価されている訳ではないのである。
 しかしながら、己の「特権」や「加害性」を意識できない人は多い。私もそうだ。私たちは、長い間家父長主義的価値観を見せつけられ、それが当たり前だと教えられてきた。学校で、家庭で、マスメディアで、街で繰り返し繰り返し差別的な価値観をそうと知らぬまま刷り込まれてきた。

 自分の足が踏まれている感覚も、気づけない人は気づけない。それなのにどうして私たちは他人の足を踏んでいることを理解できようか?

 それでも、私たちは己の「加害性」や「特権」と向き合わなければならない。

 より下の立場の人と関係を持つときや、教えられてきた「当たり前」に当てはまらない人に出会ったとき、自分の言動や考えを解体し/それが差別的な価値観に由来するものでないか逐一確認し/価値観を修正する必要がある。こうした地道な作業を続けられなければ、私たちは簡単に家父長制社会の共犯者になってしまう。
 私たちが戦わなければならない敵は必ずしも、まるっきり"おじさん"的な人ではないのだ。私たちはこの社会に広く浸透した価値観と戦わなければならない。その為に一見自分に影響のない差別についても学ぶ必要がある。

3."女性"とは一体誰のことか

 ところで、私は「女性専用車両」に乗ったことがない。私は地方在住で、車社会に生きている。そも電車に乗る機会が東京人と比べれば圧倒的に少ないから、電車の痴漢に遭遇することもほとんどなかった。
 一方で職業柄、賃金の性差を感じる場面が多い。契約先の職場は大勢のパートタイムの中年女性と上層の中年男性で構成されている。

 あなたは私の経験にどれくらい共感したろうか?少しでも同じ経験をした人もいれば、全く異なる経験をしてきた人もいるだろう。
 つまり、私たちは同じ性差別の被害者であっても、全く共通の経験をしているわけではない。
 断っておくが、経験の違いは個々人の性差別被害の「深刻さ」の差という訳ではない。差別について、こちらがより悲惨とかこちらがより問題なんてことを言うべきでない。特にそれをマイノリティ(たとえばトランスやセックスワーカー)への差別の言い訳にしてはならない。
 そうではなく、性差別が単に色々な「形」で発現するという事実があるだけだ。

 本題に入ろう。「"おじさん"vs"女性"」という世界観で、デフォルメされるのは"おじさん"だけではない。この世界観では"女性"もまたデフォルメされる。
 全ての女性が全く同じ経験をし、それに全く同じように反応する訳がない。しかし、善悪二元論的「"おじさん"vs"女性"」世界観では"女性たち"はさも同じ経験をしている被害者のように語られがちだ。
 本書でも特に名前のない"女性たち"(いわゆる、モブキャラクター)は画一的に描かれているように感じられた。その上、"女性"の"弱さ"が強調されて描かれており、ともすると彼女たちは"差別加害者"になる瞬間が全くないかのようである。(ここは前章の問題に通じる)

 この画一的な女性像の何が問題になるだろうか。
 それはフェミニズムの活動で、女性の中でも特にマジョリティの属性(健常者・シスジェンダー・へテロセクシャル・昼職・中産階級以上に属する・都市部在住・和人の家系で「部落」出身でない…etc.)が共感できる問題ばかりが大きく取り上げられ、逆にマイノリティに特有の問題は「後回し」にされやすくなるリスクが増えることにある。皆が、特にマジョリティの女性が全ての女性が己と同じ問題を抱えているに違いないと宣伝すれば、マイノリティの声をかき消すことに繋がる。

 私たちはお互いの経験の違いを理解した上で、属性の垣根を越えて団結する必要がある。その為に、繰り返しにはなるが、自分が経験しない差別について学ぶ必要がある。

 そして他者の経験について学ぶ上で、最も気をつけなければならないのは、決めつけないことだ。他者の経験を知る前から決めつける態度はあらゆる差別の根源である。
 私たちは先入観や偏見を捨てて、まず当事者の訴えを聴かなくてはならない。
先天的・後天的な特性をもち健常主義社会で生きることが困難な人の訴えを、
ジェンダーやセクシャリティが「普通」ではないというだけで理不尽な目に合う人の訴えを、
セックスワーカーというだけで罪人のように扱われ持続化給付金が支給されなかった人の訴えを、
「部落」出身だから、アイヌの家系だから、日本国籍がないからといって社会から排除されている人の訴えを、
貧困のせいで明日生きられるかもわからない人の訴えを、
私たちはもっと聴いて、共に社会と戦わなければならない。
 何故なら、これらの差別はひとつの同じ社会システムから産み出される「膿」だからだ。さらに言えば差別は他の差別と複合して人を抑圧するので、あらゆる差別が性差別と全く関係ないなんてことはありえない。
 フェミニズムは、せめて差別の被害者を周縁においやる家父長制社会の共犯者になるべきでない。

4.まとめ/フェミニストのあなたへ

 ここまで善悪二元論的「"おじさん"vs"女性"」世界観の問題点について綴ってきた。

 正直に言うと、本書の著者はこれらのリスクをある程度自覚していたろうと思う。それでもなお著者が善悪二元論的世界観を採用したのは、フェミニズムにまだ出会っていない読者に分かりやすく社会の理不尽を提示するためだろう。私は本書のメインターゲットからは少し外れていたにすぎない。
 だから私は本書を書き直すべきとか完全なる間違いと糾弾したい訳ではない。本書の著者や関係者は目的に応じた表現を選んだだけだからだ。
 本当はこんな分かりきった批評を書く必要はなかったと思う。

 この感想文は本書の著者よりも寧ろ本書の読者へ、この文章を読んでいるあなたへ宛てた手紙だ。

 昨今のフェミニズムは、「一人一派」などと形容されるように一人一人がてんでバラバラな方向を向いている。
 それと同時に、フェミニストを自称する人々の間で善悪二元論的「"おじさん"vs"女性"」世界観が流布している。
 中には"信仰"する世界観の維持の為に「名誉男性」などの造語を雑に取り扱ったり、経験を共有できない女性を女性ではないかのように罵倒する人も少なからず存在する。
 フェミニストがトランス女性を「ペニス」呼ばわりしてさもトランス女性が性的倒錯者か性犯罪者であるかのように吹聴している様を見たときの、私の気持ちが分かるか?
 政府は女性の声を聞いてくれないと言ったのと同じ人が、他の当事者の訴えを無視し苛烈に攻撃している様を見てどうして不安にならずにいられるのか。
 フェミニズム活動に目を向ければ、職場のヒール強要廃止や不妊治療の保険適用など、結局家父長制社会に利する提案ばかりが政府やマスメディアで好意的に取り上げられる。勿論私はそれらの提案に賛同するし署名もした。けれど、その提案で救われない周縁の女性たちのことはどうやって救えば良いのだろう?

こんなはずではなかった。
こんなはずでは。

 私は、あなたと一緒に戦いたい。私とあなたは全く違う経験をしてきたけれど、共通の敵を持っているはずだ。

 だから私はあなたへ問う、本当は「フェミニズムは一人一派」ではいけないのではないかと。
 私が滅ぼさんとするのは家父長制社会であり家父長主義的価値観だ。
 あなたの敵は何だ?男性か、ペニスか、それとも社会か?

 私はフェミニストであるあなたを信じている。
 私はフェミニズムが女性たちの中でもさらに周縁に追いやられた者たちまでも救い、彼女らが強くならずとも文化的な最低限度の生活を営める社会を実現させるのだと信じている。

 だから私は、この手紙をあなたへ贈る。

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