眠たい日の
6時のアラームが鳴る。
目が覚めると、まずはリビングに移動する。
部屋の電気がきちんと消してあることに、昨晩の自分を褒めてあげたい。
お水を一口飲みながら、曇り窓から差し込む光が何とも言えぬ暗さと冷たさで交わり、とても心地が良かった。
それと同時に、こんなにも二度寝のしがいがある日はもう当分来ないのではと思う。
むしろ、お天道様に「なぜ、寝ないのだ!」と怒られてしまいそう。
そんな、朝だった。
眠ることは、四次元タイムマシンのようだ。
非現実な夢を見るが、それはどこかの星で起こった日常の一部のように教えてくれる。
それがたとえ、悪夢であっても。
そんな四次元タイムマシンに乗ってしまったら、現実に帰するのが面倒臭い。
私はまだここにいたいのに(ここにいるといっても、第三者の視点だから飛んでいるだけなのだけれど)、どうやら今生活している時間軸が許してくれない。
訂正。許してはくれるけれど後々責任を取るのは私なので、極力目を覚ましたい。
眠たいといえば、気づいたころには
「どこででも、よく眠る子」として育っていた。
例えば、親の付き添いで行った飲み会。
夜の9時を過ぎれば、座布団の上で眠っていた。
中学・高校となればやはり授業中の睡魔には
抗おうとも、抗えない。
私の脳に時間が魔に合わないのだ。
ことわざで「寝る子は育つ」というが、
ちゃんと育ったのだろうか。
一応身長は平均程度である。
そもそもちゃんと育つとは何なのだろう。
一つ言うとするならば、
悩みを抱えているということのような気がする。
持ち前の自己肯定感の低さと、人間不信は悩みの大半である。
悩んでいることは、別に悪いことではない。
悩みがあるからこそ、反発しながら時間を駆けている。
そんな気がする。
悩みと共存しようと考えて、もう何年経っただろうか。
今日も相変わらず吐き出したいものが吐き出せない。
そんな悩みが多い日は、眠るに尽きる。
よろしければ、猫のように眠り、
起こさないでいただきたい。
都合の悪いときだけ、都合良く言葉を使う、
都合のいい人間なのだとつくづく感じるのも、
眠たい日の朝なのだ。
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