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一人では可視化されない

夫婦で同居しだしたら、嫌なところが沢山見えてきて我慢できない。そんな話は良くある話で、先日はこんなツイートが流行っていた。

こういうことって、本当に沢山あると思う。なぜなら、自分という人間は自分しかいないから。

当たり前だけれど、完全に同じ価値観や同じ考え方を持つ人というのは存在しない。自分の親や、兄弟といった「家族」という存在は、比較的自分に近い価値観を持っているが、これはむしろ問題を肥大化させる。

「どちらが正解、というわけではないときに、その認識をすり合わせなければいけない」ということは、当たり前のようでまったく当たり前ではない。なぜなら日本人は、学生として生きてきた十年前後の期間で、「同じ価値観、考え方を共有していて当然」という教育を施されるからだ。

そのせいで、違う考え方を許容する力が弱い。多様性多様性と最近言われているけれど、本当に最近のことだ。

例えば、このツイートに反応する声のひとつで、こういうものがあった。

「今、やって欲しいなら、『今』やって欲しい、とちゃんと伝えないのがいけない!」

完全に、怒ったテンションでつぶやかれていた。

この人は夫側の人で、自分に置き換えたら、こんな理不尽なことはない、と憤ったのだと思う。気持ちはわかる。だが、認識の違いというものは、常に付きまとうもので、当然そこにあるはずのものだ

「見えないけれど、そこには空気がある」、ということを怒る人は居ない。それが当たり前だからだ。認識のズレも、それはあってしかるべきものだと認識していれば、絶対に憤ったりはしないはずだ。

十数年にわたる学校教育によって、認識のズレに気づきづらくなっているのは仕方がない。家族は認識が比較的近いので、これも「他人」とは認識に差がある、ということについての錯覚を生む。

また、誰かと居て初めて認識のズレは発生するものだ。だから、「一緒に暮らし初めたら~」という話になる。これは家庭でもそうだし、仕事でもそうだ。

前提も知識も価値観も、全て同じものを持っていないと、同じ言葉をもらっても、同じ意味に受け取られることは絶対にない。

そして、これは他人事ではない。

私自身が、どこにでも認識にはズレがあることを、「当然」として捉えられているか。そんな自戒を感じさせるツイートだった。


#エッセイ #コラム #ツイッター #認識のズレ #教育 #家族

「欲しいものリスト」に眠っている本を買いたいです!(*´ω`*)