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舌が肥えていないほうが幸せなのか?

本当は前回に引き続き、本節の保管や管理の仕方を上げようと思っていましたが、うまくまとめられずになかなか遅々として進まず…

なので、ちょっと息抜きがてら、最近妙に話題になったりしていることを一つ書いてみようと思います。

タイトルに書いた『舌が肥えていないほうが幸せなのか?』というのは、実は最近Twitterでいろんな方が持論を上げていらっしゃる内容です。
私もをTwitterをやっているので、当初見かけたときは、正直大して気にもしていない内容でしたが、ここに意外なほどに火がついて、いろんな方が持論を展開されるようになりました。

大元の投稿はこちら↓

パワポ芸人 (2)

私が見かけるきっかけとなったツイートはこちら↓

リュウジ (2)

ちなみに、ここで示されている舌が肥えている人、いない人のイメージ↓

舌が肥えている人いない人

この書き込みと、多くの方が書かれている内容で気になったのが『舌が肥えている人』というのは、『美食家である』という認識で、『美食家』は美味しいものしか食べない、という風に捉えている人が非常に多いということでした。

まず、この表の<舌が肥えていない人>で見ると、超加工食品や安価に作られている物、スーパーで買えるお惣菜の類が美味しいものであり、素材から作った料理や特殊な席や雰囲気の違うお店といった【特別感のあるもの】をすごく美味しいもの、と捉えているようにみえます。

大して、表の下の<舌が肥えている人>で見ると、素材から作った料理や特殊な席や雰囲気の違うお店といった【特別感のあるもの】を普通として、それ以外のものを認めないように書いてありますが…

これって、味で判断してるわけではない、ということではないでしょうか?
(まあ、正直この画像って、色々印象操作をされているという感じはありますが…)

そもそも機内食は、地上とは気圧その他の環境が違う為、味覚が結構変わることを前提として、味付けが結構異なります。(濃いです)
それに、ビジネスだろうとファーストだろうと、機内で調理するのは最小限ですので、美味しくつくることにも限界があります。
(各社日夜努力されていて、技術とレベルはどんどん上がってはいます)

給食だって、限られた予算内でお腹を満たしつつ栄養を整え、そして『子供たちに美味しく食べてもらえる味』(ここ重要!)に、頑張って作られています。

正直この画像には、若干の偏見と悪意があるように受け取れました(笑)

で、本題です。

舌が肥えていないほうが幸せなのか?というタイトルですが、私はそもそもこの問い自体が間違っていると思います。

ここからは、私の持論を書きます。

そもそも、味覚は『学習するもの』だと考えています。
教養の一種として捉えています。

音楽や絵画などの芸術で例えるとわかりやすいかもしれません。
音楽や絵画は『きれいだね』『楽しいね』というのは、誰もが好ましく思うものがあると思います。しかし、それをより深く理解するためには、学ばなくてはいけません。

この交響曲の良さは何か、指揮者の役割にはどういったことがあるのか、この音楽が作曲された時代背景は、この演奏者が若い頃と壮年期でこんなにも演奏に違いがあるのは何故か…
そういったことを知ることで、その1曲を「より深く」聞くことができるようになります。

絵画も同じです。
この画家が年代と共に大きく画風が変わるのは何故か、画材が変わったことで表現がどのように変わったのか、この絵の表現するものは何かといった、事を知ることで、その1枚を「より深く」見ることができるようになります。

そう考えてみると、食はどうでしょうか。
使われている素材の事、器の事、お料理の事、時節、土地柄、そういったことを知った上で食事をすると、楽しくなりませんか?

舌が肥えていないほうが幸せか不幸か?
それは、美味しい美味しくないと同様に、その人の主観なのでどちらでも良いことです。

ただ、間違いなく言えることが一つあるとすれば、一般的に味覚は経験を積まなければ(学ばなければ)、磨かれることはありません。
多様な味を知り、単純な甘味と塩味と旨味だけではない、苦味や酸味、そしてその他の多くの微妙な感覚を育てることで、より深く知ることができるようになります。

感性が磨かれることで
『あー、この苦みを食べると春って感じがするんだよね。』
『このさんまの焼ける香り、秋だよねー!』
『柚子の香りがないとお鍋が物足りないわ。』
『この味噌汁食べると、うちに帰ってきたって感じがする。』
といった風に、より楽しく食事ができるのではないでしょうか。

あと、私はこれが一番大事だと感じているのですが…
誰かにご馳走になる際に、出されるものの価値を理解できれば、より深く感謝できるようにもなります。
出されたものを適当に食べていて、後でその価値を知って驚いた、という経験をされたことがある方は、この意味が分かると思います。

舌が肥える ということを、美食のものしか食べなくなる、という意味ならば、それは個人の判断なので幸か不幸かは本人が判断すればいいものです。
しかし、それを 味や香りといった要素を細かく理解できるようになる というのであれば、意味合いはまた変わるのではないでしょうか。

美食というものを追求する時代からは、既に移り始めています。
しかし、それは味覚を鈍らせるということではないと考えています。
むしろ私は、これからの時代は、画一的に示されていた『うまい』という味の幅が、より多岐に広がりを見せていくのではないかと思っています。
ワインだって、クヴェヴリ(※1)やナチュール(※2)のワインが美味しいと思う人とフランスワイン至上主義の人がいるように、味にも多様性が出てくるものだと思っています。

その時に、色々なものを楽しめる感性を持てたら幸せだと思います。
その感性を磨くのは 味覚の教育=舌を肥やす事 ではないでしょうか。

舌を肥やすことは、美食家になることではなく、様々なものの良し悪しを判断しその深い部分を理解できる教養を身に着ける事、という風に理解すると、今回の論争自体が無意味だと気づくはずです。


(※1)クヴェヴリ:世界最古のワインの製法で作られるワインをクヴェヴリワインという。巨大な素焼きの甕を土の中に埋め込み、その中に絞ったブドウの果汁、皮、種、絞った実を入れて蓋をし、約半年寝かせて作るワイン。伝統的なワインの中で、最も珍しく古いのが白のカヘティアンワインで、近年は、アンバーワインやオレンジワインとして日本国内でも流通が増えている。

(※2)ナチュール:ヴァン・ナチュール(自然派ワイン)。ブドウの栽培に農薬や化学肥料を使わず、ワインの製造においても酵母の使用は自然酵母のみ(添加不可)、濾過をしない、など定めがあり、国によっては酸化防止剤の添加も不可とする国がある。

※1や2のように温度の管理や酵素添加、補糖などを行わないこれらのワインは、その年によって大きく味が変わります。同じ畑の同じブドウを使って同じ製法で作っても、自然の動き一つで大幅に味が変わり、場合によっては酢のような香りや強い酸味が入ることもあれば、官能的な極上の味香りが生まれることもある、幅があり変化が面白く、裏を返すと安定していないワインです。
それに対して、フランスワインは品格を重んじ、品質水準を守るためにワイン法を定めています。『ボルドー』『ブルゴーニュ』という、二大産地の名前くらいならワインを知らなくても聞いたことがあるという方は多いと思いますが、これはフランスの産地名です。
常に安定した品質のワインを届けるための法律であり、上記の2つのワインとはまさに対極を行くワイン、と言われても違和感のないものです。


【 蛇足 】
私は、チロルチョコやブラックサンダーを食べます。
Venchiも好きですし、モディカチョコレートも食べます。
スーパーで買った刺身も食べれば、三つ星の料理店でお造りをいただくこともあります。
どれも美味しく食べます。
それぞれの良さがあり、癖があり、そのどれもが作り手の想いを感じるものです。
単に普通に食べたいだけなら、何も考えずに食べればいいのです。
しかし、人間は考える生き物です。
感じ取り、考え、そして心を動かしていく事で、人生をより豊かにする、そのための教養としての味覚を育てることは、私は決して無駄なことだとは思いません。

「うまい」と感じるハードルが低い方が幸せかもしれない>けれど、感じられる閾値や層が薄いと、結局食べられるものが狭まってしまうと思うから、ハードルは低くてもいいけど、深く広い方が結局面白いと思う。

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