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大学で外国語会話教育は可能か?:大学の韓国語教育③

 英語が、文法教育からアウトプット型のコミュニーション教育に変化して久しいですが、大学の韓国語教育でも、「コミュニケーション」という言葉がもてはやされています。学習者のニーズがそこにあるならと真摯に受け止める教師ほど、何とかしてあげたいと思うのでしょう。特にネイティブの先生は力が入る領域だと思います。そんな時代ですから、大学のテキストにも「会話重視」を謳ったものがあるし、会話やコミュニケーションとつく授業もあります。

大学での会話教育について、順を追って考えてみましょう。

会話を教えるということ

 まず「会話」は「教える」だけで「できる」ようになるかという問題です。「会話を教えること」と、「実際に会話をすること」にはとてつもないギャップがあることが、お分かりですね。会話という技術を身につけるのに、「教える」のは最初のきっかけ程度でしかありません。技術の習得には「実践」が必要なのです。フルートの吹き方をどんなに丁寧に分かりやすく習ったとしても、学生自身が実技の練習を重ねなければ、「うまく吹ける」ようになるわけありませんね。スポーツもしかり。語学は実技科目ではありませんが、会話に限っては実技科目と思った方がいいかもしれません。それなのに、「教えればできるようになる」と勘違いしている人がいるように思えます。会話教育では、実際に学生に会話をさせない限り、絶対に会話力が身につくはずがないのです。
 今のコミュニケーション教育の問題点については、別のブログで書いたのでどうぞ。

会話学習は何人でするべきか

 教える側と学ぶ側の人数が、何人なら会話を学べるかという問題です。これは、ST値の問題ですね。ST値とは、先生1人に対する学生数のことです。大学の語学科目では、先生1人に学生が15〜30人くらいが相場だと思います。これでも語学科目はかなり配慮されています。100人や200人の授業もあるわけですから。
会話の実践には「相手」が必要です。この相手を、これまでの語学教育では学生同士がしてきました。先生が相手をするのはテストの時くらいのものです。
 でも、学生同士の会話で、会話力はつくのでしょうか。そもそも会話力がない者同士で会話が成り立つのか、という問題です。成り立ちませんよね。だから、教科書に載っているAとBのダイアログで会話練習させてるんですから。それは会話の実践ではなく、音読実技や発音実技,文型の読みの練習です。
会話は、少なくとも「自分より会話力のある人との実践」で伸ばしていくものだと思います。音声を聞いて返事を返す、あるいは音声認識機能を使って練習するという手もなくはありませんが、リアクションがないですから、やはり会話とは言い難いです。現地に行くと会話できるようになる理由は、実践の機会があるから、それに尽きるのです。
 しかし大学では、頑張っても先生と学生の割合が1:5です。だから、コミュニケーションをシラバスで謳う授業でも、「日本人同士で文型置き換えの読みの練習をしているだけ」になりがちなのです。
 もし大人数を相手に会話を教えて、会話学習が成立していると思う先生がいるとすれば、それは発話型置き換え文型の読みの練習と会話を勘違いしているのではないかと思います。どんなに拙い会話でも会話には台本(本文)はありませんから。笑
会話力は使うことでしか伸びません。究極的には、1対1でしか伸ばせないのです。大学で、教員と学生が1:1になる語学授業というのは考えられません。だから、大学では会話教育は難しいというのです。会話の実践のためには、現状では、ネイティブの友人や仲間を作る、民間の会話レッスンを受けるしかないんです。
 そして、技は使わないと錆びます。楽器の演奏もスポーツも、続けないと実力が落ちていきます。会話も同じです。会話し続けないと会話力は落ちていくのです。

会話ができるようになるための実践時間

 多くの大学生の年間学習時間は100時間以下です。この時間数に「会話」の実践時間がほぼ含まれないことはもうお気づきですよね。だから、シラバスに会話と書くこと自体がおこがましいのではないかと私は思います。
 会話ができるようになる人というのは結局、留学経験者なんです。というのも、会話ができるようになるには、「語学のシャワー」が必要だからです。これは起きている間中ずっと外国語を浴び続けていることを意味します。時間でいうなら、1日の言語シャワーの時間は短く見積もっても10時間くらいになりますね。最低限できるようになるまでの期間は半年ほどです。2〜3週間の語学留学は、「行ってみた」というだけであって、成果があまり期待出来ませんが(行かないよりは全然良いですが)、半年留学くらいからはものになります。だとするなら、会話ができるようになるまでの言語シャワーの時間は、10時間×30日×6カ月=1800時間です。
 100時間ではとても歯が立たないとわかりますね。大学のカリキュラムだと文法と会話の2つに分かれているケースが多いので会話の時間は100時間の半分の50時間になりますので尚更「焼け石に水」感があります。
 このように、語学のシャワーを浴びられて、会話の実践の機会に恵まれてはじめて、会話は「できる」ようになっていくものなのです。出来るといってもネイティブと対等にしゃべるなどとは考えてはいけません。ネイティブの一方的なトークの中で、徐々に切り返しやレスポンスが出来るようになり、自分の言いたいこともいえるようになる程度です。どんなに上手くなったと思っても何かしらの「もどかしさ」は解消されないと思います。少なくても私の場合はインプットはそれなりだと思いますが、会話は年々さび付いていきますので、常にやるせない思いを抱えています。環境に恵まれなければ所詮外国語でのコミュニケーションなぞそんなものです。環境もないのに「目指せペラペラ」など천만에 말씀(笑)。
 まれに留学せずに会話ができるようになるケースがあるかもしれませんが、そういう語学の天才は、日本にいながら「語学のシャワーを浴びる、会話を実践する」という環境を自ら作れる人なのだと思います。もしくはしゃべりたくてたまらない人が四六時中一緒にいるとかでしょうか。会話の実践なくして会話ができるようになることは考えにくいです。
 つまり日本の大学に通いながら、授業100時間のうちのに1時間ほど(実際は1時間も割かれていないと思いますが)会話の実践をしただけで、会話が出来るようになることはまずありえません。会話は学生にとって夢や願望ではあると思いますが、大学の授業で会話力をつけることは申し訳ないけれども難しいと思った方が良いと思います。授業内でではなく、ネイティブの先生の研究室に通ったり、留学生を捕まえて会話をしてください、と言うしかありません。

会話は勉強ではない

 文法を理解できない、単語を覚えられない、だから「私は会話を頑張りたい」と考えるケースがあります。これは、直感的には正しいです。文法や単語はいわゆる書いたり読んだり暗記したりするする「勉強」の科目ですが、会話は「実技」だからです。国数社理は苦手だけど、体育や音楽の実技は得意というようなものです。
 いわゆる実技は机に向かう勉強ではありません。楽器の演奏やスポーツなら、指を動かし足を動かします。楽器やスポーツの参考書を読んでもいいけれど、それよりずっと、体を動かして練習する時間の方が大事ですよね。会話なら、相手を捕まえて口を動かし、会話をする時間が最も大事です。
 だから、いわゆる勉強が苦手な人も、会話はできるようになれます。ようやく明るい話が出てきましたね。でもそのためには、勉強はしなくていいけれど、実技の練習をする必要があります。実技は実技で、血の滲むような猛練習が必要なのです。
 ピアノ専攻者は、理論は教室で学び、実技はピアノ室でひたすら指を動かします。外国語も、文法は教室で学び、会話は例えば会話室でひたすら口を動かさないといけないのです。ネイティブとオンラインで会話できる会話室、大学にあったらいいですね。練習内容によって会話の相手を自在に選べたり、会話の内容を記録したり分析したりして会話力を計測したり。そんな会話室、誰か作っていただけませんか?

教養科目の外国語を再構築する

 外国語を目指す学習者の多くは「いつか私もペラペラ会話」を妄想するはず。大学の教養カリキュラムのコミュニケーション中心のカリキュラムは、学習者に「ペラペラ会話」という夢を持たせています。
 でも、今の日本の大学では、そのための環境を整えられないのです。「学習者が願っていること」「教える側が大事だと思うこと」からだけ考えるのではなく、人数や時間数という「置かれている環境」も意識しましょう。「やりたいこと」と「やれること」は違うのです。「身の丈」から考えるということも必要です。
 なぜ大学の教養カリキュラムに第二外国語が設置されているのでしょうか。ペラペラ会話まで持っていくのは、時間数と人数から考えて無理であることが分かりました。じゃあ、文字を覚え、文法とフレーズに少しでも触れれば良しということでしょうか。「なぜ大学で第二外国語を学ぶのか」という「設置趣旨」にあらためて立ち戻っても良いと思います。次回はこのあたりを深掘ります。





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