見出し画像

文化を語るのって難しい:韓国語文化教育の「基本のき」

 今回は、語学教育に登場する文化について考えてみたいと思います。
 語学教育でどう文化を教えるかについては、学会でもいろいろ議論がされています。語学テキストに登場する文化といえば、大きく分けると2つです。

・伝統衣装や年中行事などのハイカルチャー
・料理名や商品名など日常的なスモールカルチャー

 ハイカルチャーは古くさく難しいと思われているのか、最近のテキストからは消え、スモールカルチャーは「大学生の暮らし」などとしてダイアログ中などにちょこちょこ登場しています。
 ※ただ、語学業界で語る文化の幅は、かなり狭いと私は感じていることを初めに述べておきます。

文化を語る難しさ

 韓国の人(あるいは推し)が普段どんなことを考え、どんな暮らしをしているのでしょうか。
 これは簡単なようで、実は語るのが難しいんです。
 皆さんは、日本人がどんな生活をしているか、例えばどんな朝ごはんを食べるのか、外国の人に説明できますか?
 もし「日本人は朝、焼き魚とみそ汁とご飯を食べます」と答えたとしたら、「え?」と思いませんか? 
 ご飯派もパン派もいる。時代や世代、地域、個人の趣味趣向などがあるので、簡単には語れないことに気付きます。しかし、今一番売れているモーニングメニューを提供しているカフェは?という問いであれば、調べて答えることもできるでしょう。
 このように文化は、「点」であれば語れなくないのですが、「線」や「面」だと語るのが容易ではなくなるのです。

 文化は、ネイティブであったり、その文化を体験しているからといって、語れるわけではありません。「日本人の朝ごはん」について、日本人だからといって答えられないのと同じです。ネイティブは、なまじ経験があるからこそ、自分が「知らない」ことに無自覚になりがちです。日常は、自分にとって当たり前で気にも留めないものなので、「比較の視点」や「学問的視座」がないと語れないのです。自分のこと、身体化されている事は無自覚ですから。それを自覚してアウトプットするのは実は相当難しい作業です。したがって、ただの日本語ネイティブよりも、外国の日本研究者の方が、日本人の朝ごはんについてうまく説明できるという現象が起きるわけです。

点を線に置き換える

 では、「点」で文化を語ればいいのかというと、そこにも問題があります。なぜなら、「点」は簡単に変化してしまうから。2022年1月と2023年1月とでは、売上1位の店舗はおそらく変わります。文化は「個別性」と「流動性」が高いために、教育に取り入れにくいんです。
 では、どのように文化を語ったら良いでしょうか。「点」ではなく、「線」に置き換えてみることができます。通時的に語るということです。
 例えばステップアップハングル講座では、「韓国人のラーメン好き」をトピックにしたときに、現在売れているいるラーメンという「点」だけを紹介するのではなく、過去から現在に至るまで、どんなラーメンが登場してきたのかを通時的に語りました。こうすることで、「韓国人はラーメンが好きそうだ」という主観的な感想ではなくなり、かつ今という「点」を切り取っのではなく「線」になります。これに、地域性や世代による消費の違いなども足せば、「面」としての広がりも出てくるでしょう。

ステレオタイプを考える

 文化を語る際に注意が必要なのは、ステレオタイプです。ステレオタイプとは、文化を一面的に捉えて理解しようとする態度のこと。文化を語ったり教わったりする際には、ステレオタイプをいかに排除するかという問題と向き合うことになります。
 インスタグラムなどで「韓国人男性は○○だ」という紹介を見かけることがあります。韓国に滞在している日本人による発信だと思います。
 「韓国人男性は日本人男性より背が高い」なら、平均身長で根拠を示せるかもしれません。でも「韓国人男性は優しい」とは、一体何が根拠になるのでしょうか。もし自分の体験からくるものなら、個人の感想を述べているに過ぎません
 人の性格って、そもそも一面的に語れるものでしょうか。優しい人にも冷たい面があり、冷たい人にも優しい一面があったりします。一人の人の性格を語るのにも「優しい」と断定することはできないのに、韓国人男性全体を「優しい」と規定できるものなのでしょうか。できるわけがありません。でも、それが「できる」と思み込み、集団を丸ごと断定してしまう、それが「ステレオタイプ」です。

社会はステレオタイプの塊

 私は大学時代、韓国人の「国民性」について教室で発言したことがりました。先生から「国民性なんてものはない、それは個性だ」と一刀両断されました。そのとき私は正直、そんなことを言われても、日本人と韓国人ではあきらかに違う部分がある、個性という言葉だけで片付けることなどできない、ともやもやしていました。
 人間には、他者や自分を、あるカテゴリーとしてひとまとめにして見たい、自分のストーリーの中で理解したいという欲望があるようです。現に社会には、「あるカテゴリーの人はこういう性格だ」というステレオタイプを利用した語りが蔓延しています。血液型論、兄弟の生まれ順で性格が決まる論(長男長女論、一人っ子論など)、県民性、占い…。こういったものを子供の頃から面白がって育ってきたわけですから。
 でも、こうしたステレオタイプ的思考が膠着していると、「○○人はこういう性格だ」という国民性論によって、その国民に対して嫌悪感を醸成することがいとも簡単にできてしまいます。「反日」や「嫌韓」現象がその典型です。したがって、ステレオタイプという思考から自由になる練習をするというのが、私が考える「文化を学ぶ目的」の核心です。これが異文化に触れる際の「基本のき」でしょう。

 最後におまけ。現在校正中の学術書『恨の誕生』のエピローグに書いた文章をご紹介して終わります。

 日本の韓国観は、「憧憬」と「蔑視」の両極端に分かれている。そのイメージがポジティブであれネガティブであれ、どちらも「韓国人は〇〇だ」という、自分のごくわずかな経験や見聞を根拠とした、一面的かつ乱暴なステレオタイプに過ぎない。対象を「とりあえず簡単に」理解したいという欲求は理解できなくもないが、わかりやすくするために「複雑なものを簡単にした説明」はステレオタイプを生みやすいという落とし穴がつきものである。本来自国であれ他国であれ、他者を簡単に「わかる」ことなどできないことは、日常の人間関係からも自明なはずである。
 他者を見るとき、自分の中のステレオタイプに気付き、フラットな視点を持つために、人類学者の関根康正が述べる「他者了解」という概念を紹介して終わりたい。「異文化理解」という言葉そのものに、ステレオタイプが内蔵されているというのは関根の指摘である。この言葉は、「自文化=自国=わかり合えるもの」と「異文化=外国=わかり合えないもの」という二つのステレオタイプが前提になっているからである。そこで関根は、「異文化」を「他者」という一枚岩ではない個々に置き換える。「理解」を、自分の身体の思考である経験として分かり自己の変容を伴う他者への受け止めという寛容性を示す「了解」に言い換えている。自己内省しながら他者をステレオタイプ的に見ずに受け止めていく。他者を自分のこととして受け止め、他者から自分が学び変わっていく。そんな態度が今求められているように思うのである。
拙著『恨の誕生』エピローグ



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?