【韓活韓国語のすすめ】「ネイティブ」ではなく「フィールドワーカー」を目指す
「発音が上手くなりたい」
これは、外国語習得を目指す全ての者の願望でしょう。もっと発音が上手ければ通じるのに。その思いは十分に分かります。自分が発した言葉が相手に伝わらないもどかしさは切ないものです。
この思いが加熱するとどうなっていくのか。「外国語が上手である=ペラペラ感」のイメージが先行し、ネイティブのような発音で話せる人が最も外国語がペラペラな人と思うようになっていきます。「文法的な正しさや意味のある会話ではなく、何となくの流暢さ、パーティー会話、ノリ」でコミュニケーションを捉えているからかもしれません。
外国語界のレジェンド達は、発音をどう見ているのでしょうか。
レジェンドたちは、発音の大切さは認識しつつも、発音にこだわりすぎることは、大事なものを見逃すことにつながると述べています。
そもそも、ある人の言語能力を発音からのみ計ることはできません。アナウンサーやナレーターは日本語をきれいに発音できますが、かといって、日本語の読み書きの能力が高いかどうかというと、別問題だと分かります。同様に、外国語能力を「発音」に還元する行為は、大変愚かしく幼稚な思い込みなのです。
発音の上手い下手は素人でも判断できる
TwitterやYouTubeでも、なぜあんなに発音の下手な先生が外国語を教えているのか、と冷笑しているのを見かけます。私も学部時代には、「言語学の先生は日本人でも発音が上手いが、文化系の先生は下手だな」「民族学校出身の在日コリアンの発音は、本国ネイティブの発音と違うから本物ではない」などと思っていました。この呪縛から解き放たれたのは、韓国語を教え始めて何年も経ってからのことです。
発音は、人の外国語能力を測るときに、最も目に付きやすい部分です。すぐに「目に付く」がゆえに、自分より発音が上手いか下手かを即座に判断してしまい、相手を嘲笑あるいは羨望の眼差しを向けてしまうのです。
外国語能力とは本来、文法運用能力、語彙力、コミュニケーションストラテジーなど、複雑な要素が絡み合ったものです。その中で発音は、素人でも唯一判断できる最も表面的な事項です。人間に例えるなら「顔」なのです。
そう考えると、「発音至上主義」とは、人間社会における「ルッキズム(外見至上主義)」と重なってきます。外見によって人間の価値を測ることがいかに愚かしいかは、ここで述べるまでもないでしょう。
発音力は持って生まれた才能
発音至上主義で一番問題だと思うのは、知力や努力でカバーしきれない領域だと思っているからです。
外国語学習における発音教育では、言語学的な音声学の知識があれば「正しい発音」を習得できることになっています。たしかに、言語学の先生達はネイティブ並の発音能力を持っていたし、外語大で言語学を学んだ後輩研究者(Y君)の発音も素晴らしかったです。しかし、Y君と同期で文化系の大学院に進学したS君の発音といえば、「ベタベタな日本人の発音」でした。外語大を卒業しても、発音はそんな程度です。
発音の善し悪しは、その言語を何歳から学び始めたかが大きく影響します。ある言語が母国語のように不自由なく使える時期は、小学生ぐらいまで、という臨界期議論が存在します。その時期までは、知力や努力とは無関係に、外国語を身につけられますが、年を取れば取るほど、特に発音については習得が困難になっていきます。
私の周りの18歳の大学生の発音はなかなかのものですが、私のような中年になると伸びしろがなくなります。これは、18歳の学生のほうがしっかり発音のトレーニングを積み努力をしたから、ということではありません。純粋に年齢の問題なのです。
「見た振り付け」をそのまま踊れる人っていますね。あるいは「聞いた歌」をそのまま再現して歌える人。「聞いた音」をその通りにアウトプットできるというのも、そういった持って生まれた才能の一つでもあります。「勉強も能力だ」と言う人がいるかもしれませんが、文法の理解や運用といった頭脳を使うことは、努力や訓練である程度カバーされますが、身体を使って音を出す技能は、持って生まれた差が大きいといえます。
さらに、外国語学習において、日本人自体が不利という問題もあります。日本語の持つ発音が単純すぎて、大抵の言語をうまく発音できないからです。日本語は母音で終わる言葉がほとんどで、パッチムがあるとまともに発音できません。単純な発音は、筋肉の使い方の差としても現れます。口をあまり動かさなくてもしゃべれる日本語には筋力があまり必要ないのですが、より口を動かす韓国語には筋力が求められます。私も、韓国出張をしたら、かつての発音(筋力)を取り戻すまでに、1、2日かかります。短い出張だと、取り戻す前に帰国となることも多いです。発音のための筋肉は、使い続けないと、衰えてしまうデリケートなものでもあるのです。
発音できたらかっこいいです。でも、誰もがダンサーや歌手になれないように、一定の年齢を超えたら、ネイティブの発音を目指すことはオススメできません。外国語力の中で、発音はベタベタでも良いのです。特に大人の皆さんには、見た目よりも、中身を充実させることに時間を使ってほしいです。
亜ネイティブを目指さない
「#韓国人になりたい」というハッシュタグが、若い子のSNSの世界で見られるようになってずいぶん経ちます。発音を気にするのは、発音を完璧にして「韓国人に間違えられたい」という願望があるからのようです。
でも色々な現場で韓国語を教えていて、「亜ネイティブを目指す」目標に懐疑的になりました。ここから、「亜ネイティブを目指さなくていい」理由を、さらに補足していきます。
〇Kコンテンツを理解するのに、発音は相関関係が弱い
昨今韓国語を学び始めた人の多くは、Kコンテンツの消費がきっかけだと思います。Kコンテンツの理解を助けるのは、発音といったアウトプットの練習よりも、ネイティブの発する言葉を理解するインプットです。
〇コミュニケーションは発音のうまさだけに頼るものでない
コミュニケーション力は、当然ながら、発音のうまさで決まるものではありません。韓国語が全く分からなくても片言英語や日本語で、あるいはジェスチャーでも通じ合えます。コミュニケーションは「魂の伝え合い」なのです。情報伝達だけが目的なら、文字で書く、ITに頼るなど、他の方法がいくらでもあります。
〇ネイティブは発音だけで外国人かどうかを判断しない
明洞で客引きをする人は、身なりを見ただけで、どこの国の人かを判断し、その国の言葉でしゃべりかけてきます。プロの客引きだけではありません。ネイティブの同僚研究者も、「君はどんなに韓国語をうまくしゃべっても、顔が韓国人じゃないから外国人だとすぐ分かる」と言われます。発音の前に、外見だけで外国人だと分かってしまうのです。
〇外国人だと思われた方がいいこともある
昔と違い、個人的には「韓国人に間違えられたい」という願望を全く持たなくなりました。その理由は、外国人だと思われた方が得をすることがあるからです。特に韓国社会は日本人に優しい社会です。韓国人に間違えられたら、韓国人と同じ待遇しか受けられません。韓国に行くと、私はタクシーの運転手との会話をとても楽しみにしています。すぐに日本人だと開示し、フィールド調査をしています。それができるのも、外国人だからと気を許してくれるからです。私が韓国人に同化しようとするのは、終電がなくなった後のタクシー争奪戦の時ぐらいでしょうか。
フィールドワーカーたれ
ネイティブを目指さないなら、一体何を目指したらいいのでしょうか。私は、フィールド調査をするフィールドワーカーが良いのではないかと思っています。
文化研究者は、言葉を手段として、韓国社会や文化を理解しようとします。文化・文脈が主であり、言葉は従と考えている人達です。対象世界の中にすっと入り込み、目立たないようにそっと観察します。これは、Kコンテンツを眺め、その中で繰り広げられている世界を理解しようとしている姿と似ていると思います。
フィールドワーカーはネイティブに同化をしようとするロールモデルではなく、目標文化を覗き込み理解しようとするロールモデルです。
歴史学、人類学者といった文化研究者は、そこまで発音上手ではありません。大変著名なある先生も、かなり「クセ」のある発音をされていました。でも、自分の欲する内容を理解し、質問できて、交流できます。長文の書籍もすらすら読めるし、発音はベタベタでも、学会で議論できます。学会の議論というのは、恐ろしく内容が濃いものです。
頑張っても所詮「韓国語がお上手ですね」と言われるだけです。「韓国語がお上手ですね」とは、「あなたは外国人ですね」と認定されたということなのです。残念ながら、韓国人とは間違えられていません。ネイティブ同士で、「韓国語がお上手ですね」と言うはずないのですから。
この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?