見出し画像

“今の気分”を抽象化する「書く」という方法、と10月13日の日記

カルチュアコンビニエンスストアの増田社長による、「増田のブログ」をたまに読み返すことがあります。

本棚の手に取りやすいところに置いてあるからです。

この本、高いんです。ただ、それだけに独特の『重み』がある。

さすがは「文化」を扱う会社が作る本ということあって、装丁が見事。

本屋で見かけたら手にとってみて欲しい一冊です。

その中に、フランスの詩人、アランの言葉を引用したページがありました。

悲観は、気分に属するが、楽観は意思である。

という一節。

恥ずかしながら、僕はこの言葉の出自をきちんと調べたことがなく、昨日までの34年間を生きてきました。(人生に支障は全くなかったけど笑)

そういえば、どこかしらで目にしていた気もする。

アランさん、あなたでしたか。

まぁ、それはいいとして、この「気分」という、敵とも味方ともつかない日和見なヤツについて、少しばかり考えてみることにしました。

「書くこと」を続けている方にとって

肌感としてあるものかもしれませんが、書いていることで気持ちがスーッとしていくこと、ありませんか?

ぼくは、結構あります。

これって、自分の中の “モヤモヤした欲求とか悩みとか” をnoteとかツイッターに書いていくことで、無意識のうちに『定量化』しているんじゃないかなと思っています。

つまり、「そのモヤモヤしたもの、どのくらいあんの?」って意味で。


「書くことはセラピー」なんていう話も、しおたんが書いていて、いつだったか読んだ。(日付を見ると、半年も前のことだ、ひゃー!)

小学校高学年〜中学生の頃の日記を見ると、それはもう、「よくもこんなに毎日吐き出す感情があったな!」 と感心してしまうくらい、悍ましいほどの感情に溢れかえっている。思春期ってすごい。
しかし、その日記をちゃんと読んでみると、書いている途中で感情がある程度発散されていて、中盤から徐々に論理的、建設的になり、そして最後には割とポジティブに終わっていたりするんです。
私は昔からそうやって、「書くこと」を心を整える手段として、またキャリアプランや人生設計を考えるための、内省するための手段として続けていたようです。
つまり「情報を届けたいから」「表現したいから」「仕事だから」という以前に、自分の気持ちを落ち着けるために書いてきた……というのがベースにある感じ。これは、セラピーの一種なのかなぁ、と。

さらに言うと、個別具体的な欲求とか悩みが、どんな属性のものなのか?自分で読んで分かるっていうのがいいのかもしれません。

本来的な『日記』ではなく、ブログ(公に公表する形)で書くことによって、気持ちの上で衆知にさらすわけですから、それなりに体裁も整えるわけです。

自分にしか起きていないと思われる「個別の事象」が、世の中でいう「◯◯なこと」に抽象化される。定性的に見ることができる。

その中で、モヤモヤしたものの「形」と「大きさ」が、ある程度わかってくる。

「書くこと」は結局、自分との『対話の機会』を作っているんですよね。

冒頭に出てきた「気分」というものは、天気や体調などの外部要因によって、すごく頻繁に変わります。

自分の「気分」を定点観測する習慣、これはもちろん、書くこと以外でもいいと思っています。

日々、珈琲を淹れるとか、絵を描くとか、街を走るとか、筋トレとかでも同じなのかと思います。

「気分」は、そうした日々の営みの中で、十分定点観測できる。

むしろ、そういう行為を“日常にセット”することが、「気分」とより穏やかにお付き合いする方法なんだろうと、今は考えています。

10月13日(日)

朝、台風一過の大晴天でした。午前中は、整体へ行き心身整える時間。帰りに珈琲豆を買って帰り、家で二日ぶりにゆったり珈琲を淹れました。

やっぱり、“日々の営み”はだいじだなぁと実感。

昼は、娘と公園に出かけて、虫に刺されるなどしました。秋の蚊はしつこいです。近所のスーパーで買い物をして帰り、娘と少し昼寝。

寝ながら、いいバンドに出逢ったので、記録をば。

夕方、娘より先に起きて、買ってきた材料で、角煮と、おみそ汁を作って、土鍋ご飯を炊きました。

娘を起こして一緒に食べて、その後は、ラグビーを観ながら妻の帰宅を待ちました。

ラグビーは劇的な展開で久々にドキドキしながら、ゲームを観て、気持ちよく就寝。すごくいいゲームでした。



この記事が参加している募集

ぼくも誰かの応援をしようと思います!