大切なものを捨てるとき。埋もれる日々。いつか帰るところ。
みなさんの大切なものはなんですか? それは捨てられるものですか。家族の中にも、友達の中にも、誰が探しても見つからないところに。
みなさんの大切なものはどこですか? それは壊せるものですか。めちゃくちゃにして、粉々にして、直せなくなるように。
本日のテーマ:
いつか拾ったもの
わたしが捨てた大切なもののうちのひとつが、こうして文章を書くことでした。それを始めたとき、共に過ごした、あるいは育ててもらったのは、たったの四人の縁によるところでした。今はもうつながりのない縁です。
まったく不思議な偶然の産物で、あるとき四人は集まりました。互いの世界観を自然に、あるいは配慮の上に尊重しあう均衡が、たまたま取れていたのです。不思議なことに、それぞれが違った世界観を持っていたからです。きっと、同じ世界観を持っていた方がもっと早く空中分解したことでしょう。多様性という言葉が脚光を浴びる前のことです。
多様性を意識する前の方が多様性があった――という皮肉は、現在において枚挙にいとまがありません。あの時もそうでした。それを自覚することもなく、その事実が眼前に現れたとき、わたしはそれをそれと分かることなく思い知り、大切なものを投げ出すのでした。
そして捨てるとき
ひっそりと枯れる花のように、穏やかに朽ちる木のように、静かに風化する神殿のように。その四人の縁は薄れていきました。ひとり、またひとりと。そしてついに独りになったとき、あてもなくぼんやりと過ごし、また別の街へ辿り着いたというわけです。そこは誰もがあてもなく踏み入ってはならない場所であり、誰もが覚悟をもって踏み入るべき場所でした。
あてもなく踏み入ったわたしは、そこで交わるはずのない世界が強制的に統合される恐ろしさを味わったのです。違う者同士が譲り合い受け入れるのが当たり前だと思っていたわたしが愚かであったのです。違うからこそ譲り合い受け入れられないこともまた、あるのです。
安易な多様性の統一は、かえって摩擦を生む。
それは適切な距離感のもとに成り立つのだと。
これは当時、言葉になりませんでした。
あのときの調和は偶然か、はたまた水面下で積み重ねられた配慮の上に建つものだったのか――それは今でも分かりません。
かつて埋もれていた日々
しかし、三つ子の魂百までもと言いますか。昔取った杵柄は何とやらと言いますか。今の仕事は手を動かす仕事でもあり、人と話す仕事でもあり、文章を書く仕事でもあり――論理的だったり情熱的だったり倫理的だったり色々と忙しくもあります。何しろ業務上、文章を書く必要のある仕事は、文章を書く必要のない仕事と同じくらいありましょう。
つまり、ある意味、普通の仕事です。
唯一文句があるのは体力的でないところくらいです。「歩いて行けるところは、だいたい歩いて行ける」という謎の世界観に住む者なので、今は職場へ片道:約1.25h歩けば着くところに暮らしています。しかし昨今の騒ぎの影響と、忙しさにかまけて歩く暇を作ることができていない今日この頃です。
ただその「ある意味、普通の仕事」をやるときに、ありったけの思いを込めて文章を書くかというと、その必要もないわけで。しかし必要もないのに、やっている。いつのまにか手が動く。想像が始まる。帰ってくるのにちょっと時間がかかる。無意識のままに、それは埋もれていたのでした。
公の場ではおよそ言ってはならないような思いをその身の内に抱えてみたり。世のため人のためと。そこにいるそばにいるうらぶれたものたちを見て。かつて世を去った師や仲間の記憶が薄れる中。腹を括ってその身を投げて。流れ流れて今ここにある仕事をして。
ゆえに、交わるはずのない世界が強制的に統合される恐ろしさに思いを馳せることができる仕事。それを防ぎうる、防げないこともあるこの仕事。生まれた亀裂の中に飛び行って、橋を渡すことができるこの仕事こそ、わたしの仕事。わたしが選んだつもりで、仕事にわたしがたまたま選ばれていただけの、仕事のわたし。何も選んでいないようで、どこか選んでもいる。意志を持ってそこに立ち続ける。
それを人は運命、縁と呼ぶのでしょう。
A Place to Call Home
そして、わたしを再び文章を書くに至らしめた因果を思い返すと、二人の人物が浮かびます。かつての四人にも、この二人にも、会ったことはありません。前者は風の薫り香る庭園に光をたたえて窓辺に憂えておりますが、後者はどうにも闇の瘴気をまといて不浄の大地に降り立っているような……気のせいだといいのですが、どうもこの記憶は現実なようで。
何が良くて何が悪いのやら。人の縁とは分からないものです。
つい一年前の今頃は、こうして文章を定期的に書くとはまったく想像が及びませんでした。たとえが危なっかしいところですが、まるでオリンピックからパラリンピックに移行した気分、というのが正直な感想です。決定的に「何か」が折れていて、何もかもが違うように見えて、しかしどこか同じような「何か」を胸に秘めて臨んでいる。
かつて地面に投げ捨てた、ガラスのペン。透明で、キラキラしていて、ほのかに色づいていた大切なそれ。粉々に砕け散ったそれを、それと気づかず土を掘り起こして窯でうっかり焼いてしまい、偶然に帰ってきた陶器のペン。
ゆがんで、まだらに模様の入った不思議なペン。
極彩色に光り焦げた重油の臭いが漂う謎のペン。
日によって性質を気まぐれに変える想像のペン。
いまそのペンを握ると、あるときは働き、あるときは悩み、あるときは遊び、またあるときは思いを馳せます。そしてこの先、再びこのペンが折れたとしても――それはいつかまた帰ってくるのでしょう。次はどんなペンになるのやら。
それを想像すると、もう何も怖くない――というのはちょっぴり嘘で。だって、やっぱり折れたら痛いし。痛いのやだからってなんかニュルッとしたスライムペンとかになりそうで。折れたくなくて常時折れてるペンとか。それはとっても怖いなって。でも案外、透明で、キラキラしていて、ほのかに色づいていて愛らしいのかもしれなくて。世はこともなし。
みなさんの大切なものは、今どこですか。
いつか帰ってくるところは、ありますか。
懐かしんでいませんか、「おうち」と呼ぶべきあなたの元を。
われわれが深淵を覗くとき、深淵もまたわれわれを覗いているのだ……