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登山は好きだがメンドクサイ、あなたに

「あ~山登ってねぇわ~。体が鈍るわ~。久々に登っちゃうか~」などと言いながら、一向に山に行かない人がいるという伝説がある。いったいなぜなのか。取材班は急遽、木曽駒ケ岳のふもとに飛――ばなかった。

 メンドクサかったのである

 忙しい毎日に羽を休められる休日、なにゆえ体を痛めつけに行かねばならないのか。何時間も移動して山に辿り着き、また何時間も移動する……なんという矛盾。無駄の極みではないか。メンドクサイ。

 登山が好きだなんておかしい。昔の人は移動手段の制限ゆえ、仕方なくそうしていたのだ。必要もないのにわざわざ苦労するなんてばかげている。昔の人への冒涜だ。きみたち現代人は贅沢を噛み締めて生きて行け。メンドクサイな。

 だがしかし、山に登る人は後を絶たない。今までもこれからも。

 ロマンティックが止まった

 コンクリートばかりで飽き飽きしていた足が土の感触に打ち震え、ブルーライトにしょぼくれた目が森の緑を楽しみ、締め切った空間にうんざりした肺が生き生きと躍動する――なんて素敵な! 山を愛する人なら誰しも理解していただけるのではないか。

 そうでない人も、この感動に目覚められるのならこんなに幸せなこともない。それは原始的な≒本能的な喜びだ。信じられるのなら、裏切らない。その過程がいかにメンドクサイのだとしても。

 冬山でギュッと雪を踏みしめて幻想的な空間を味わっちゃったり(冬山は登ったことがない)、テント泊の朝、爽やかな空気のもとでコーヒーを飲んじゃたりなんかして(テント泊などしたことがない)、いつも通りのある日のこと、僕が突然立ち上がって「今夜、星を見に行こう」と言うなど(そんな相手はいない)。人生は夢だらけ♪(夢は失って久しい)

 僕の知らない物語。

 どうもメンドクサイことになってきた。目から汗が出る。

 登山の醍醐味とは――要素分解を試みる

 なんだいなんだい、さっきから聞いてりゃあ、あんさん。メンドクサイ~メンドクサイ~って念仏かい。念仏を聞かされる方の身にもなっとくれよ。まるであたしが死んでるみてぇじゃないかい。

 実際そうなのだ。楽しんでいる横でメンドクサイを連発するような人と、一緒にいて楽しいわけがあろうか。いやない。楽しみが殺されてしまう。

 登山好きの知人がおり、同道したこともあるが、こちらから誘うことはなかったし、これからもないだろう。登ると楽しいが、なにか不快感がつきまとう。もちろん口に出してメンドクサイなどと言ったことはないが、どうしても山登りをまるっと全肯定し、愛することができない。

 よろしい、ならば分解だ。不快な要素は取り除いてしまおう。

1. 非日常の体験(日常が自然と離れているほど効果はばつぐんだ)

2. 体を動かす行為である(おしなべて運動は心身の調子を整える)

3. 自己肯定感の回復(山頂に登ったぞ、目標達成したぞ、という達成感)

4. 社会的充足(仲間と苦楽を共にする。ソーシャルグルーミングの一種か)

 おかしい、全てが眩しく見える。尊くてありがたい。乾いた大地に潤いを与え給え。オーマイバハムーッ!! なんということなの。アナタのQOLはレッドゾーンよ。いますぐワーケーションでカイゼンしましょ! ハイ天国。


 孤独で怠惰な登山、それは

 まじめな話をすると、個人的には3と4の効果が薄かった。

 3についての登山あるあるとして、天候や体調の悪化で山頂を諦めるか否か――そして諦めずビッグトラブルに巻き込まれる、という話がよくある。それだけ山頂に土を踏んだというのは得難い感情なのだろう。だが山頂に来たときに真っ先に思ったのは「さて降りるか」だった。すまない。その感情を共有できない。写真を撮る気もとくに起きなかったし、この光景を誰かに見せたいという感情のゆらぎも観測されなかった。

 4について登山家はグループを主とするひとびともいれば、独りを好むひともいる。以前、両親に物心つくまえのことを尋ねてみたところ、どうやら独りでどこかへ消えてしまうのが常だったらしい。加えて泣くこともないため、扱いやすい一方でイザというときの管理コストはすこぶる悪いこどもだったようだ。

 自分の記憶では独りもくもくとゲームをやっているか、友達と野山を駆け回っていたはずだったが、その友達は幻想だったらしい。なぜ4を味わおうと思ったのか。社会人として生きるための偽装が過ぎたようだ。

 逆に、偽装するからこそ1と2が欠かせないのではないか。つまり運動を兼ねて非日常を体験するだけでよかったのだ。何も遠くへ行く必要はなかった。上を向いて歩こう。どこまでも。涙が零れ落ちないように。

 そして誰もいなくなった

 試しにGoogle MAPで自宅からの徒歩ルートでの所要時間を鑑み、6時間前後で往復できる距離まで歩いてみた。心が洗われるようだった。夜になるにつれ足が言うことを利かなくなる中、家までたどり着けたときは達成感までオマケでついてきてしまった。まさしく山登りで得たものと変わらない。翌朝に筋肉痛も発生してニッコリだ。

 自転車でも同様のことをした。風を切るというエッセンスが心地よかった。ゲームクリアだ。登山の醍醐味から苦々しい不快感を取り除き、甘い汁だけを抽出してやったのだ。

 買い揃えた登山用具たちはかわらず相棒として共にある。YAMAPプレミアム会員も何となく続けている。メルマガも何となく目を通している。離れたとはいえ、歩くことの楽しみを得た原典なのだから――と思ったら、TRAVEL TRAIL=歩く旅として特集が組まれていた。さすがおれたちのYAMAP先生。わかってくれる。

 ところで、大好きなコーヒーに欠かせないのは、苦みだと思っている。

われわれが深淵を覗くとき、深淵もまたわれわれを覗いているのだ……