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『大菩薩峠』から『釈迦』へ

三隅研次監督が、『大菩薩峠』の次に取り掛かったのが、本郷功次郎主演の『釈迦』だった。
『大菩薩峠』が特段仏教的色彩が強い作品であるとはいえないにしても、人間の生き死にの問題が底に流れているという意味では、連続性を感じずにはいられない二作品ではある。
(以前書いた、『大菩薩峠』に関する記事はこちら。)

『釈迦』は、タイトルの通り、釈迦国の王子として生まれたシッダの誕生と、悟りに至り人々に教えを説いていく姿が描かれる作品。歴史的事実に必ずしも忠実な作品ではないとはいえ、シッダを思い悩ます飢える民の姿などは臨場感をもって映像化されている。
『釈迦』では、シッダとその教えを受ける者にまつわるエピソードがいくつか描かれるが、今回は、シッダと一王子のエピソードを取り上げてみたいと思う。

『大菩薩峠』では、仇討ちする者/仇討ちされる者の関係性を演じていた、本郷功次郎と市川雷蔵は、『釈迦』では救う者/救われる者の関係性に移行する。
本郷功次郎が演じるのはシッダであり、市川雷蔵は無事の罪を着せられて、失明するまでにいたった一国の王子を演じている。
自身の息子(市川雷蔵が演じる王子)に対する恋心を拒否された継母は、逆恨みし、夫(王)に讒訴することによって、息子を窮地に追い込む。この事実は、のちに夫(王)の知るところとなり、妃は死刑を言い渡される。しかし、シッダの教えに導かれた息子はその悪行を許し、継母の処刑をやめさせる。その姿勢が報われたのか、王子の眼はもとの視力を取り戻すにいたった。

一方、『大菩薩峠』においては、市川雷蔵演じる机竜之介は視力を取り戻すにはいたらない。生き別れた息子の顔をもう一度見ることは叶わず、死者に取り憑かれながら、孤独な旅を続けるしか選択肢は残されていなかった。

『釈迦』における本郷功次郎は、シッダを演じる人物にふさわしく、真面目で堅物な人物のようにうつる。しかし、スクリーン外の素顔はというと、必ずしもそうではなかったようだ。長く大映の宣伝マンをつとめていた中島賢の回顧録『スタアのいた季節』(講談社)によれば、「本郷功次郎の素顔は、スクリーンの中の生真面目で堅物のヒーローというイメージとは違っていた。真面目ではあるが、堅物ではなかった。彼は実によく遊んでいた。すなわち、女遊びが派手」(P.186)だったようである。また、次のような記述もある。

「勝新太郎は別格として、遊んだ女性の数で本郷功次郎をしのぐ男優を私は知らない。それほどの放蕩を尽くしたわりには、彼の何がそうさせるのか、女性問題でのトラブルをほとんど聞かなかった。女性のほうも遊びと割り切って楽しんでいたということなのだろうか。」(P.186)

こういう人物がシッダを演じていた、というコントラストを頭に留めながら『釈迦』を観ると、また違った味わい方ができるかもしれない。

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