満ち引きの駆け引き(1584字)

 このビルは、街の中で最も高い建物。三階建ての、高層ですらないビルが『最も高い』なんて。そして、最も必要とされていないなんて。最高の建物は、最高に皮肉が効いている。

 最も高い建物の、最も高い場所――屋上に、私はいる。所々破れているフェンスの、足下まで裂けている場所に、腰をかけて。こんな場所でも、街並みを一望することは出来ない。

 私の膝から下は、宙をぶらついている。爪先より下の方では、どろりとした闇がよどみ、その中に人が沈んでいるこの街で、『最も高い』場所にいる私だけが自由だった。

 遠くの方はまだ明るいけど、こちらはもう夜だ。頭の先だけ見えている太陽も、もうすぐ完全に沈むだろう。

 潮が満ちるまで、あと一時間。

「あ、いた」と、二度と聞きたくなかった声。

「うわ来た」

「『うわ』って」

「帰ってよ」

 彼は私の言葉を無視し、無許可で隣に座る。鬱陶しいことこの上ないけど、場所が場所なので強く拒否することが出来ない。

「ここ、そんなに面白い?」

「そう見える?」

「全然。……危ないよ。夜だし、屋上だし。変な奴でも出たら」

「もう出たんだけど。すぐ隣に」

 彼の言う通り、田舎で、しかも人目につかない廃ビルなんて、変な奴のたまり場には格好の場所だ。けれど、今のところその様子は無い。そもそも若者が、街には少ないから。

「ここなら、誰の目にも触れないと思ったのに。あんたに見つかったせいで台無し」

「だって俺、ここ入ってみたかったんだよ。そしたら、ビルの所有者のお嬢さんを見つけちゃったから」

「『元』ね。……その話、あんまりしないでくれる?」

 『お嬢さん』に『元』が付いたあの日から、私は何もかもどうでもよくなった。だから、私を『お嬢さん』たらしめるものから逃げ出した。逃げて逃げて、それなのに、行き着いた先はこのビルだった。

 何をこだわることがあるんだろう。私の居場所は、ここには無いのに。そんなものは、もうどこにも無いのに。

「遭難してるみたい」

 私は言った。

「どこに行けばいいのか、わからない」

 せめて、このビルが高層ビルだったらよかったのに。この街並みが、夜景と呼ぶにふさわしい景色だったら。でも、もしそうだったとしても、私には関係ないことだ。惨めな今の私には、惨めな街がお似合いだ。

「たしかに、遭難してるみたいだ」

 ずっと黙っていた彼が、ふいに口を開いた。

「ネオンはほとんど無いから、街は真っ暗。夜の海と同じ。それで、ここは孤立した島」

 私は、ハッとして彼をふり向いた。でも、彼は爪先を屋上の床に慎重に戻しているところだった。

「無人島行かない?」

「は?」

「こんなそれっぽい島じゃなくて、本物の島行こうぜ」

 私は、思わずがくりとうなだれた。やっぱりこいつは、ただのバカだ。

「現代日本にあるわけないでしょ」

「ここよりましなところは、あると思うけど」

 彼は、私の目の前に手を差し伸べた。『お嬢さん』だった頃すら、そんな風にされたことはなかった。

「どこへだって行けるよ。もうお嬢さんじゃないんだから」

 どこへだって。どこへだって……。私は、その言葉を何度も反芻した。反芻する度、私の手は彼の手に近付いていく。けれど、触れる直前で、私はその手を引っ込めた。

「行くけど」

「けど?」

「潮が引かなきゃ、行けない」

 私はまた、足下の景色を見下ろした。眼下の街では、まだ暗闇が沈殿している。まるで私を捕まえようと、待ち構えているみたい。

 彼には、私の言ったことがわからなかったかもしれない。でも、私の隣に座り直した。

「たしかに満潮じゃ、別の島に行けないもんな」

 彼は肩をすくめて、少しだけ笑った。

「朝になるまで付き合うよ」

 私は初めて、こいつの顔をちゃんと見てやろうと思った。けれど、出来なかった。今は、自分の顔を見られたくない。こんな、熱のこもった顔なんて。嬉しくてしょうがない顔なんて、こいつに見せてやるもんか。

 潮が引くまで、あと一時間。(了)



追記:
公募ガイドの『第73回 TO-BE小説工房』に応募したものです。(そして、落選したものです。)南無三。
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