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「緋い約束、さよならは刹那」後編

※前編は下記リンクよりお読みいただけます。

 ミヤの行き先は、今日は設備点検の関係で立ち入り禁止になっていた高校の中だった。閉められた門を軽々と飛び越えて中に入ってゆくミヤに続いて、アイリも素早く塀を登って追い続ける。走りながら二発、銃撃するも、ミヤは容易くそれを避ける。
「それが本気? なんだ、大したことないなぁ。期待して損した」
 煽る彼女をアイリは睨みつけた。
「そうやって舐めてかかると痛い目に遭うわよ」
「それ、こっちのセリフー。あたしはまだかすり傷一つ付いてないよ?」
「馬鹿ね。すぐに形勢逆転するわ」
 アイリはまた銃口をミヤに向けた。力んだ手で照準を合わせ、人型悪魔の急所である心臓を狙う。しかし、強張っているせいか、上手く引き金を引けない。
 相手は超級悪魔。本気で殺らなければこちらが殺される。それなのに、何故か躊躇いが生まれてしまう。
 何故? ミヤは残酷な事件をいくつも引き起こした悪魔だ。早急にカタをつけてしまわなければ、被害は広がるばかりだ。
 アイリの迷いに付け入るように、ミヤは再び鍵爪を伸ばす。アイリはそれをギリギリで躱し、体勢を崩して床に転んだ。
「くそ、動きづらい!」
 アイリはヒールの付いたパンプスを脱ぎ捨て、ストッキングのまま廊下を掛ける。ミヤの行き先は、どうやら空き教室のようだった。

 室内での戦闘は身動きが取りづらいが、仕方がない。彼女を追って教室に入ると、ミヤはひょい、と身軽に体を浮かせ、机の上に座って脚をゆらゆらさせた。
「この空き教室で何回も一緒に過ごしたよね。ねえ、楠神アイリ?」
「お前の本性を見抜けなかったのは私の過失だ。ここでカタをつけてやる」
 アイリは距離を詰め、心臓に銃口を向けて一発、二発と撃つ。その度にミヤは易々と銃弾を捌き、流麗なほど無駄のない動きでこちらを攻撃してくる。アイリはそれをなんとか躱し続けるも、体力は消耗していき、六発分込められていた聖弾はとうに使い果たしてしまっていた。予備の弾をリロードする隙などない。アイリは何とか身を守るため、咄嗟に教卓の裏に周った。

 命の危険を感じたのは初めてだった。顔から血の気が引くのを感じ、冷や汗も止まらないまま、予備の聖弾を取り出すも、手は震え、弾を込めることが出来ない。ストッキングはぼろぼろに汚れ、血の移った白衣は肩からずり落ちてきている。その一方で、ミヤは傷ひとつ付いておらず、息の上がった様子も全くない。
「どんな気分? 天才エクソシスト様」
 ミヤはアイリに近付いて、教卓に肘を付き、手のひらに頬を乗せて笑みを浮かべた。禍々しい赤に染まっていく夕焼けの教室で、二人は黙って見つめ合った。
 これが、SSS級悪魔。浜村女史の言った通りだった。手に負える相手ではない。エースであるアイリですら傷一つ付けられないのなら、特例班が束になって掛かったところで、これを完全に祓うことは不可能だろう。
 それに、ここまで来てなお、迷いがあった。被害者を断罪するかのような犯行内容。先程見たあの派手な女子の件も、穂高のために突き止め、復讐させようとしていたようにしか見えなかった。そして、今まで共に過ごした時間の全ても、嘘であったとは、思いたくはなかった。
「ミヤ」
「あれれ。どうしたの、さっきまでヤる気満々だったのに」
「あなたは、なぜ、人の代わりに断罪をするの」
 ミヤはアイリの質問を鼻で笑った。
「そんなことしてないよぉ。ただ、気持ちイイだけ。自分中心に世界が回ってるって勘違いしてるような奴を痛めつけるのって、最高に愉快なんだもん」
「それでも。あなたのしていることは、通常の悪魔の行動原理とは異なる部分が多すぎる」
「そりゃあ、あたしはこの世で二人といないレベルの超級悪魔だもん。SSS級? っての? 普通の悪魔と同列に語らないで欲しいワケ」
 ミヤは呆れたように肩をすくめた。
「残念だけど、あんたが期待するようなやっさしー悪魔じゃないよ? 何を期待しちゃってるの? あ、疲れて頭おかしくなっちゃったかな」
 アイリは、そうかもしれない、とぼんやり思った。そしてそのまま、手にしていた銃を手放した。
「ミヤ、私にあなたを撃つことはできない。殺すなら殺しなさい」
 どうせ、勝ち目もないのだから、武器など持っていても無駄だ。
「ええ? あたし、女を堕落させたのって初めて! しかも天才エクソシスト様かぁ、いい気分」
 ミヤは舌なめずりをして、ニヤリと笑った。
「殺しなんてしないよ、あんたは奈落まで堕ちるんだから」
 そう言って狂気的に笑い声を上げるミヤをよそに、アイリは彼女の方に歩み寄り、そのまま抱きしめた。
「ミヤだけだった。嘘だったとしても、私をただの人間として見てくれた人」
 友達なんていなかった。いらないと思っていた。でも、ミヤに出会って、アイリはそれを望んでしまった。
 天才エクソシストとしてでもなく、はたまた目立つ容姿のクォーターとしてでもなく、何のレッテルも貼らずにただ一人の人間として向き合ってくれたのは、ミヤが初めてだったのだ。
「……それが悪魔の手口だからね」
「それでも私は救われてしまったんだ。もし私の方が強かったとしても、ミヤのことは、殺せなかった」
 なにそれ、とミヤは大きく溜め息を吐いた。
「じゃあ、一緒に奈落に落ちる?」
「は?」
 アイリは思わず腑抜けた声を上げた。一緒に?
「あんたはエクソシストをやめる。あたしは悪魔の所業をやめる。そうしたら、ずっと一緒にいられるよ」
「でも……」
 私は、エクソシストでないなら、何になれるのだろう? ずっと、悪魔を祓うために生きてきた私が。それに、特例班にも面目が立たない。
 黙り込んだアイリに、ミヤは失望感を滲ませた。
「できないならこの関係はおしまい。あーあ、なんか冷めちゃった」
 言い捨てて、アイリの腕を解いてミヤは去った。アイリはそれを追うことができず、床に座り込んでぼうっとその背中を見つめていた。

 夜空に星々がぽつりぽつりと灯り始めた頃、ようやくアイリは高校を出た。ふらつく身体をどうにか支えながら自宅に戻ると、アイリは床に倒れ込んだ。
 じんわり視界がぼやけて、涙が溢れる。違う、泣く権利なんて私にはない、とアイリは唇を噛み締める。
 独断で動いた挙句、少しも歯が立たなくて、挙げ句の果て、悪魔に救われたなどと口走って。最低だ。相手は大量殺人犯だというのに。……どうしてまだ、あの言葉が頭から離れないのだろう?
『一緒に奈落に落ちる?』
『そうしたら、ずっと一緒にいられるよ』
 あの時のミヤは、何か期待しているように、見えた。どうして悪魔の肩を持つようなことばかり考えてしまうのだろう。

 アイリは身体を起こして、スマホの電源を入れた。すると、鬼のような量の着信履歴が入っている。と、その時本部から電話が来た。
「はい、楠神です」
『楠神! 無事だったか。怪我はないか? それと、勝手な行動をした自覚はあるだろうな?』
 班長の厳しい叱責に優しさが滲んでいるのに気付いて、アイリは心を痛めながらも、咄嗟に嘘を吐いた。
「はい、ご連絡できず申し訳ありません。実は笹倉と話している最中に電源が切れてしまって。目撃したところを気付かれた時に攻撃されましたが、それ以外の怪我はありません」
『そうだったか。勝手な交戦はしていないだろうな?』
「……悪魔の後を追って交戦になりました。現場は高校です。聖弾の回収はできていません」
 アイリの言葉に、班長は深い溜め息を吐く。アイリの胃はキリキリと痛んだ。
『お前も相手の強さについては理解していたはずだ。今回は無事だったから良かったが、下手したら命を落としていた。自分のしたことを分かっているのか』
「重々承知しております。申し訳ございません」
 アイリは俯いた。本当に、何をしているのだろう。自分が不甲斐なくて、消えてしまいたくなる。
『……とにかく、今日はゆっくり休め。詳しい話は明日以降だ』
「ありがとうございます。……そういえば、被害者の安否は?」
『発見が早かったのもあって、生きている。初めての生還者だ。よくやった、楠神』
「……そうですか。それは、良かったです。では、失礼します、ご苦労様です」
 電話を切って、ふう、とアイリは溜め息を吐いた。明日、自分は今日の状況について根掘り葉掘り尋ねられるだろう。それを考えると、頭が痛かった。

 不意に、また電話が鳴り出した。誰だろう、と見てみると、遠方に住む実母からだった。
 電話に出ると、『アイちゃん!』と母の悲痛な声が聞こえた。
『良かった、無事で本当に良かった。さっきアイちゃんの上司の人から、アイちゃんと連絡が付かないって電話をもらって、本当に生きた心地がしなかったのよ』
「……もう。班長もお母さんも、大袈裟。携帯の電源が切れちゃっただけだよ」
『それなら、いいけれど……。ねえ、アイちゃん。こんな危険な仕事、やっぱり女の子のすることじゃないわよ。おばあさまのことなら、気にしなくていいわ。お父さんはダメだったけど、孫が能力を持って生まれたからって、躍起になっているだけだもの』
 いつもならば、自分の意思だから、と突っ撥ねるところだった。何かにつけて『女の子だから』と口にする母のことが、アイリは苦手だったし、自分の才覚を見抜いてくれた祖母を悪く言われるのも嫌だった。
「……そう、かな」
 でも今は、反論する気にはなれなかった。自分には、向いていないのかもしれない。悪魔を祓えないどころか、肩入れまでしてしまった自分には。
 アイリの心情を知る由もない母は、高い声を張り上げて『そうよ!』と言った。
『アイちゃん、地元に帰ってらっしゃい。アイちゃんなら他の仕事でも十分やっていけるわよ。ああ、お役所のお仕事なんてどうかしら、お隣の芳子さん家のお兄さんもお勤めらしいわよ』
 あれやこれやと提案してくる母の声を右から左に流しながら、アイリは頭の片隅で、明日、仕事を辞めようと思っていると相談してみようか、などとぼんやり考えていた。

 翌朝、アイリを待っていたのは叱責と、現場の詳細についての尋問だった。
「あの後、高校の調査に入り、聖弾痕と血痕を夜通し掛けて隠滅した。
 楠神の処分については、上と話し合い、懲戒処分として減給・出勤停止とすることになった。こうなってしまった以上、潜入調査も中止だ。戦力を失うのは惜しいということ、問題行動をした自覚もあるということで解雇には至らなかったが、そのくらいのことをしたということは知っておきなさい」
「はい。私も反省した上で、近いうちに退職のご相談をしようと思っていたところです」
 アイリの返事に、班長は唖然とした。
「……それは、本気か? たしかに無断での交戦はいけなかったが、私は初めて被害者が生還したこと、悪魔の特定に成功したことを高く評価しているぞ。何も辞めなければならないようなことではない」
 今度はアイリが驚く番だった。班長の言葉に、お世辞はない。本当に評価されているのだと分かるからこそ、嬉しさよりも、これから嘘を吐くつもりであることが、申し訳なく思えてくる。
 しかし、真実を話すことはできない。まだ、ミヤの本当の目的を訊けていない。それに、昨日のあの言葉の真意も。
「……出勤停止期間に、よく考えて結論を出します」
 ようやく絞り出せたのは、そんな当たり障りのない言葉だった。

 尋問のために会議室に呼ばれて入ると、どうやら何処かとテレビ通話が繋がっているらしく、浜村女史が画面の向こうの誰かと何やら話しているのが見えた。
 ……英語だ。アイリは背筋が凍る思いがした。十中八九、名家のエクソシストだろう。もう、協力への承諾を得られたのだろうか。
『なるほど。対象がSSS級悪魔である旨について理解できた。簡潔な説明感謝する』
「いいえ。こちらこそ、ご協力感謝いたします」
 流暢に英語を喋っていた浜村女史は、こちらに気付くと、顔を上げて微笑んだ。
「お疲れ様です、楠神さん」
「……浜村さんも、お疲れ様です」
 アイリは顔が強張る顔で必死に笑みを浮かべた。
「ああ、こちら、英国名家のアルバート・クラークさんです。こちらの捜査に協力していただきたい旨をご連絡したところ、詳しい内容を教えて欲しいとのことでしたので、今日の会議にも参加していただくことになりました」
「そう、なのですね……」
 クラーク家。それは、アイリが迎え入れられたいと願い続けていた、三大名家のうち一つの家だった。アルバートは現頭領の弟で、アイリも幼い頃に会ったことがある。あの悪夢の日、前頭領と話していた、『致命的な欠陥』という言葉に頷いていたのが、この男だった。まだ二十代半ばにして一族で一目置かれていた男。
 上級悪魔祓いの最年少記録はアイリが保持しているが、彼にはS級悪魔を何度も単独で祓った実績がある上に、SS級悪魔祓いの実績さえある。彼は地位も名誉も持っていた。
 アイリが顔が曇るのを隠せないでいると、不意に早口の英語が耳に飛び込んできた。
『そこにいるのは楠神アイリか?』
 心臓が跳ね上がるように嫌な動悸がして、アイリは硬直した。冷や汗が伝う。
「……お久しぶりです、アルバート様。ご記憶に預かり恐縮です」
『久しいな』
 アルバートはそう一言返したのみで、他には何も話さない。自分は彼にとって取るに足らない存在なのだと、暗に示されているようだった。

 重苦しい沈黙を破るように、班長や茅原、武田らが会議室に入ってきた。
「これから、楠神への聴取を始める。まず、遭遇現場について。悪魔が力を使って少女に危害を加えた場面を目撃したとのことだが、その時の詳しい状況を共有するように」
 班長のその言葉を皮切りに、アイリは昨晩のことを少しずつ話し始めた。穂高と被害者が悪魔と居合わせていたこと。被害者が倒れた時のこと、悪魔に付けられた傷跡のこと。そして、悪魔の特徴のこと。
 他のことについては事実に忠実に話したが、悪魔の特徴だけは、なるべくミヤに結びつかないような特徴を列挙した。例えば、大きな鍵爪を持っていること、甲高い声で話すこと。嘘も混ぜた。特定の生き物の形はしていないだとか、大柄で自分との体格差が大きかっただとか。
 でも、あながち嘘ではないかもしれない。変化することくらい、SSS級悪魔には容易いことのはずだ。
「なるほど。これで大きく捜査が進展したな。ご苦労」
『詳しい情報共有感謝する』
 班長の言葉に続けて、アルバートもそう言った。その言葉は一見親身なようだったが、どこか冷たさを孕んでいた。
『皆さん、ご安心を。クラーク家の手に掛かれば、SSS級悪魔でも敵ではありません。
 さて、これからの段取りについて、相談しましょうか』
 指を組み、にこやかにこちらに笑いかける彼が、アイリには、今まで対峙したどの悪魔よりも悪魔らしく思えた。

 アルバートの来日予定が決まり、アイリは謹慎期間に入った。当然、潜入捜査も中止だ。とはいえ、突然辞任するわけにもいかないので、教師としてはあと二週間勤務することになった。
 あの日から、ミヤは学校に来なくなった。当然といえば、当然だろう。実力は相手の方が上とはいえ、エクソシストに正体がばれた以上、余計な接触は防ぎたいはずだ。
 不可解なことに、穂高はいつも通りだった。もしかしたら、あの後接触して記憶を消されたのかもしれない。あんなことがあったにもかかわらず、彼女は平穏そのものだった。

 二週間の間、アイリはずっとミヤの姿を探していた。高校への勤務が終われば、すぐに街中に出て近辺を歩き回った。時には都心の方にも出向いた。手掛かりも何もない状態ながら、今までの被害現場を周ってみたりした。
 人混みの中ですれ違った地雷系ファッションの少女に、思わず立ち止まり、振り向いて手首を掴んだこともあった。
「ミヤ……」
 しかし、その少女は全くの別人だった。怪訝な顔をする彼女に、アイリは慌てて手を離した。
「すみません、知り合いと似ていたので間違えました」
 そうですか、と表情を変えずに返して、少女は立ち去った。その後ろ姿を見つめながら、アイリは胸が締め付けられる思いがした。
 もう二度と、会えないのかもしれない。でも、それが必然だ。どうしてそんなにも縋っているのか。自分の感情で窒息してしまいそうだった。

 その日も、アイリは街中を歩いていた。渋谷のあの上級悪魔と対峙した場所の付近を歩いていた。人気のなかったあの場所も、日中は賑わっている。この中では探すのは難しいかもしれない、と思ったその時、不意にその中に、アイリはずっと探していた者を見つけた。
 人混みを掻き分けて必死に歩く。やや俯きながら歩くその少女は、今度こそ間違いなく、アイリの知るミヤだった。
「ミヤ!」
 呼び掛けに気付いて顔を上げたミヤの表情を見て、アイリは硬直した。
 ミヤの頬には、静かに涙が伝っていた。アイリは思わず彼女を抱きしめた。
「もう二度と会えないかと思った。良かった」
 ミヤは震えていた。ぼろぼろと雫を溢しながら、彼女はアイリの胸に顔を埋めた。
「どうして、呼び止めたの。今度こそ祓うつもり? あんたなんかに敵う相手じゃないって分かったでしょ」
「祓うつもりに見える?」
 ミヤは顔を上げて、小さく首を振った。
「見えない」
 アイリはふっと頬を緩めた。
「ミヤ、どこか静かなところで話そう。私はあなたを祓うつもりはない。ただ知りたいの。ミヤが抱えているものを」
 ミヤは静かに頷いて、アイリの手を引いて歩き始めた。
「え、何処に行くつもり?」
「あたしの方がよく知ってる。静かなところ」
「そう」
 ミヤの手は、冷たかった。初めて悪魔に触れたから、それが悪魔特有のものなのか、それともミヤの心理的なものなのか、アイリには分からなかった。

 ミヤに連れられて来たのは、寂れた路地裏の廃ビルだった。錆び付いた階段を登って、鍵の掛かっていないそのドアを開けると、埃っぽい殺風景な空間が広がる。家具はなく、薄汚れた壁と黒ずんだ床だけの部屋だ。
「あたし、ここを根城にしてたの。って言っても、持ってたもの全部いらなくなって捨てたから、何もないんだけどね」
 ミヤは窓枠を指で拭いて、そこに腰掛けた。アイリはその向かいの壁に寄りかかる。
 物憂いな表情で、ミヤは語りはじめた。
「……あたしは、五世紀前、西洋の小国で人間として生まれた。人間だった頃の名前はもう忘れてしまった。ただ、覚えているのは、胸を焼くような孤独感と、禁忌に触れてしまったことだけ」
 滔々と、無感情に語られるのは、ある少女の昔話だった。
「悪に染まったあたしは、人ならざるものになった。欲望のままに人を堕とし、その快楽を糧に生きていた」
「悪魔は、人を堕落させないと生きていけないの?」
「ものによる。生来、下級悪魔は大抵生気を吸って生きるものだし、上級悪魔は人間を堕落させるもの。生理的欲求ってやつかな。罪を重ねるほど力は強大になる」
 ミヤは己の右手に目線を落とした。
「そして、五百年もの間、あたしは人間を堕落させ続けた。罪を犯させ、快楽に溺れさせ、そうして幸福を奪い、自分の力に変えてきた。
 超級と呼ばれるほどに至るまで、さほど時間はいらなかった。少なくとも二百年前には、他の悪魔に恐れられる存在になっていた。古い悪魔が葬られたことも原因かもしれないけどね」
 昔は信仰の力が強かったから、とミヤは溜め息を吐いた。
「そうやってのらりくらり世界中を回ってたけどね、ある時虚しくなったの。あたし、なんでこんなことしてるんだろうって。
 きっと人間だった頃の感情が消えてなかったんだね」
「だから、他人の代わりに殺人を犯すようになったの?」
 アイリの問いにミヤは何も答えなかった。けれど、それが無言の肯定であることが彼女にはわかった。
「アイリ、あたしは、孤独なんだ。強くなると、人間も同胞もみんな相手にならないの。みんな簡単に堕落して、つまんないの。
 誰かに必要とされてみたくなって、あたしなりの方法で実現しようとした。けれど、代わりに人を殺したところで、誰もあたしを満足させてはくれなかった」
 ミヤは立ち上がり、アイリの頬に向かって手を伸ばした。
「でも、もうわかったよ。あの日、あんたと戦ったときに。あたしは、必要とされたかったんじゃなかったんだ。愛ってやつが、欲しかっただけ」
 両手でアイリの頬を包み込み、額に短いキスを落とす。呆気にとられたアイリに、ミヤは泣きそうな顔で微笑んだ。
「もう一度聞くよ。あんたを奈落に落とすことになるけど、一緒にいてくれる?」
「ずるいな、ミヤは」
 アイリはミヤの手を取り、真っ直ぐにその赤い瞳を見つめた。
「私に近付いたのも、エクソシストの動向を探るためでしょう? 全部、嘘だったんでしょう? それなのに、調子が良すぎる。本当かもしれないけど、まるごと信じることなんてできない」
「そうだね。これで全て信じるほど、あんたはポンコツじゃない。ましてや全てを捨てることになるんだから、警戒して当然だ」
「でも、今の言葉を含めて全部、嘘でもいい」
 言いながら、アイリはようやく、自分の本心に気付いた。
 本当の目的だとか、真意だとか、そういうものを聞き出していないから会わなきゃいけない、なんて使命感ではなかった。ただ、ミヤがもう、彼女にとってかけがえのない相手になってしまっている、それだけのことだ。
 エクソシストとしてどころか、人として間違っている。大量殺人犯と一緒に居たいだなんて。それでも、心から望んでしまった。奈落に落ちてでも、それがいいのだと。
「行くところがないのなら、私の部屋に来ればいい。名前も変えて、前からの友人だったことにしよう」
「……それなら、水上ミヤにしようかな」
「流石にそれは」
「あは、分かってるって。冗談だよ」
 その笑顔がようやく明るくなったのに気付いて、アイリの心も晴れたような気持ちがした。
「苗字、気に入ってたんだけどなー。仕方ないか。容姿も変えないとだめかな」
「容姿は、いいんじゃない。ファッションはもう少し地味な格好の方がいいと思うけれど」
「誰よりも目立つアイリにそれ言われたくないー」
 軽口を叩き合いながら、二人は軽やかに階段を下って、街中へと繰り出していく。これから降りかかる大きな困難に、まだ気付かずに。

 ミヤとの共同生活は、それまでを顧みると考えられないほどに穏やかで心地良いものだった。殺風景だったアイリの部屋には家具が増え、ミヤの趣味らしいぬいぐるみなども置かれている。悪魔であるミヤには食事は必要ではないものの、食べることは好きらしく、食事の質も上がった。
「料理ができる悪魔なんて初めて見た」
「ふふん、あたしも出会ったことないよ。まあなにせ超級悪魔ですから」
「それは関係ないのでは……」
 ミヤの作る料理は、彼女の生前の影響なのだろうか、どこか遠い国の味がした。知らない味だけれど、素朴で、懐かしい味。
「美味しい」
 アイリが呟くと、ミヤは得意げにピースをした。

 ミヤは別の高校に転校する、という設定にすることになり、アイリが主導して手続きを終えた。手続きのために登校したミヤを見て、あれやこれやと噂する生徒たちだったが、ただ一人、穂高は違った。
「夢園さん!」
 駆け寄ってきた穂高にミヤは驚いて固まった。
「穂高さん、どうしたのぉ?」
「あのっ、仲良くしてくれて、嬉しかったです。転校先でも、元気でね。……その、連絡先交換したりとか、してもいいかな」
「あ、ありがとう」
 ミヤは戸惑いながらも、可愛らしく小首を傾げた。
「実はぁ、スマホ水没しちゃって、いま修理中なんだよねぇ。ごめんね?」
「あ、そ、そっか……そしたら、あの、これ、私のID! 書いて渡すから待ってて!」
 穂高が急いで書いたそのメモを受け取ると、ミヤは目を細めた。
「うん。ありがとう、穂高さん。さよなら」
「うん……! また連絡してね!」
 手を振る穂高に、ミヤは手を振り返しながら、メモを強く握った。その横顔は、少しだけ寂しげだった。

 高校への勤務の最終日、アイリは生徒たちが用意してくれた花束とメッセージカードを持って帰路に着いていた。生徒たちにはあまり好かれてはいないと思っていたが、ミヤとの生活を始めてからどうやら親しみやすくなったらしく、最後には惜しまれながらの別れとなった。
 出勤停止期間はまだあと半月ほど残っているが、そろそろ本格的に今後について考えなければならないな、とアイリは頭を捻った。ミヤの存在を隠蔽している以上、エクソシストには戻れない。今回は潜入だったが、教師になるのもありかもしれない、などと考えていた、その時だった。

 自宅付近に、特例班の精鋭たちが集っていた。茅原や武田、笹原。それに、班長まで来ている。異常事態だ。
「何があったんですか!?」
 アイリが慌てて四人の元に駆け寄ると、四人は揃って武器を構え、矛先をアイリに向けた。冷や汗が背中を伝い、動悸が激しく鳴る。
「アルバート氏が、お前の発言の矛盾に気付いた。我々としては、説明を聞いてもなお信じがたいが、嫌なことに辻褄が合っている。
 ……お前は、悪魔を庇っているのか?」
 班長の刺すような目線に、アイリはたじろいだ。何も言えなかった。庇っているのは事実であり、矛盾に気付かれた以上、下手な受け答えは通じない。必死に思案を巡らせるも、特例班は冷徹だった。
「無言は肯定と捉えるぞ。今、アルバートが家宅捜索に入っている。今お前が隠している情報を吐けば、追放だけで済ませてやるが、隠し通す場合は……な?」
 言外に、処刑沙汰であることを示されているのだと、その圧で分かった。
「……とにかく、私も部屋に行かせてください。嫌疑を掛けられたままでは気が収まりませんから」
 自分が処刑される程度ならいい。だが、どうにか突破しなければ、ミヤの命はない。
 居ても立っても居られない心地で、アイリは班長の目を真っ直ぐ見据えた。
「……構わない。お前には、聞きたいことがたくさんあるからな。
 それに、いつまでも外に居ては身体が冷えてしまう」
 最後の言葉に班長の温情を感じて、アイリは改めて、この人たちを裏切ったのだという事実を突きつけられた。それでも、どうしても譲れないものがある。
 激しい動悸が収まらないまま胸に手を当て、アイリは深く呼吸をした。

 部屋にはアルバートがいて、ミヤは既に拘束されていた。部屋には戦闘の痕跡があり、双方ともに傷を追っていたが、特にミヤの傷は深かった。
 アイリは悪寒を覚えた。彼は、こんなにも強かっただろうか。単身でミヤを拘束できてしまうなんて。アイリも彼も同じく、悪魔祓い第一級だが、アルバートは既存の枠組みでは評価しきれないほどの才覚を持っているのだ、と嫌でも分かる。
 アイリは思わずミヤの方に駆け寄ろうとするも、班長に制止される。
「来たか、楠神アイリ。この状況をどう説明する?」
「何かの誤解です。ミヤは、私の友人です。勝手な真似をしないでください」
 アイリはアルバートを睨み付けたが、彼はそれを鼻で笑った。
「言い逃れできると思っているのなら、哀れだな。お前はこの悪魔に誑かされ、嘘の証言をした挙句、自分の部屋に保護したのだろう。証拠を洗いざらい話してやろうか?」
 アイリは黙ってアルバートを睨み続ける。彼は口角を歪めた。
「不審な点は三つだ。
 まず、悪魔との遭遇時、報告した直後に都合よく携帯電話の電源が切れ、連絡が取れなくなったこと。明らかに不自然だ」
「あのときは本当に電源が付かなくなったんです」
「禁じられていた独断の戦闘を行うのに都合が悪かったと言った方が説得力がある。本当に電源が付かなくなる直前なら、必要最低限の情報共有ができているのは不自然だ」
「だから、電源が……」
「ただしこれは、予測であり証拠とは言えない。
 次に、格上の超級悪魔との戦闘にもかかわらず、お前は脚にしか傷を負っていないということだ。その気になれば簡単に命を奪えたはずだが、そうしなかったのは何か事情があったと見て間違いない」
「……!」
 たしかに、命の危険さえ感じたし、死を覚悟もした。それなのに、明らかに怪我が軽すぎる。手加減されていたのか?
 ミヤを見るも、彼女は何も言わず、無表情で虚空を見つめているのみだ。
「そして、最後に、お前の証言だ。容姿の情報が曖昧すぎる。超級悪魔、特に位の高いものは、人間に紛れていることが多い。今回の事件の内容からしても、非人型であることは考えにくい。私がお前を疑ったのはそれがきっかけだった。
 お前は捜査中にこの悪魔に人間として出会い、肩入れしていたのではないか?」
「あ……」
 アイリは膝から崩れ落ちた。言い逃れできない。誤魔化しようがない。アルバートの指摘は、真実を突いていた。
「お前は元々エクソシストとして大きな欠陥があった。それは、危うい正義感だ。
 我々は、悪魔を祓うことに、『それが悪魔であるから』以外に理由を持ってはならない。正義感にさえ付け込む、それが奴らのやり方だからな」
 ――アイリは、一番最初に上級悪魔を祓った時のことを思い出した。
 あの悪魔は、多くの人間を廃人状態に陥れた凶悪な相手だった。被害者家族の嘆きを聞いて、彼女は格上とも思われたその悪魔に挑んだのだ。
「異論はないな? この悪魔は、今ここで祓う。生かしておけば、何をするか分かったものではないからな」
「嫌、やめて……ミヤは悪くない……」
 懇願するアイリを無視して、アルバートと特例班の皆が戦闘体制に入る。
 不意に、ふ、ふふ、と不気味な笑い声が上がって、思わず全員が動きを止めた。笑い声の主は、他でもないミヤだった。
「ミヤは悪くない、だってぇ。ほんと、頭の中お花畑だね? 楠神アイリ」
「ミヤ……何言ってるの?」
「可哀想。洗脳するの、すごい簡単だったよぉ。この子、ぜーんぶミヤの言うこと信じちゃうんだもん」
「……楠神は、お前に操られていたとでも?」
「ち、ちがっ」
 班長の言葉に、アイリが否定しようとするのを遮って、ミヤは得意気に笑った。
「ぴーんぽーん。あの子にはいい操り人形になってもらっちゃった。嘘の証言とかもぉ、あたしが刷り込んだのをちゃぁんと言ってくれたんだぁ。ほんとにいい子ちゃん」
 嘘で自分を庇おうとしてくれているのだと、アイリにはすぐにわかった。その気になればミヤは彼女を殺せたし、記憶だって消せた。そんな非合理的なことをするわけがない。
 実際、アルバートは信じてはいないようだった。
「お前にとってあれが、必要だったとは思わないが」
「悪魔のすることに合理性なんてあるわけないじゃーん。変なの。あんたが一番分かってるでしょ?
 あたしはただ、いい玩具を見つけて遊んでただけ」
「……そうか。まあ、いい。それが本当なら、お前が消えたらあれも正気に戻るだろう」
「ふふ、ちょっと時間かかるかもだけどね?」
 拘束されているにもかかわらず、ミヤは不敵に笑った。
「それで? 祓うんだっけ? まあ、いいよ。長く生きすぎてちょっと飽きてきた頃だし。
 ね、大人しく祓われる代わりに、ちょっとだけアイリと話させてくれたりしなーい? 最後だしいいでしょ」
「……監視下で一分だ。手短に終わらせろ。不審な行動を見せたら即祓う」
 アルバートがそう言ったので、アイリは驚いてバッと身体ごとアルバートの方を向いた。
「どうせ洗脳も奴が消えれば解ける。最後の慈悲だ」
 その言葉を最後まで聞くより先に、アイリは立ち上がってミヤの方へと駆け寄った。
「ミヤ……」
 けれど、何を言うべきか分からなくて、口を噤んでしまう。周りに監視されている以上、下手なことは話せない。
「アイリ。あんた、相当馬鹿だね。こんな状況で庇おうとするとか」
「ミヤこそ……!」
 ぼろぼろと涙を落とすアイリの頬を拭って、ミヤは微笑んだ。
「まあ、洗脳したのはあたしなワケだけど。でも、操られてるとはいえ、あたしのために泣いてくれるのは、けっこういい気分」
 監視されている手前、言いたいこともろくに言えなくて、アイリは黙ってミヤを抱きしめた。
「ふふ。かわいいなぁ、アイリは。……でも、そろそろお別れだよ」
 ミヤはアイリの頭を優しく撫でた。
「……さよなら、ミヤ」
「さよなら、アイリ」
 ミヤのその台詞の直後、アイリは彼女から引き剥がされ、眩いほどの聖力がミヤを包む。フラッシュのように一際大きな光に思わず目を瞑る。
 目を開けた瞬間には、もうミヤの姿はなく、鮮やかな緋色の煙だけが残されていた。

 連続殺人事件は解決し、街には平穏が戻った。超級悪魔であるミヤに洗脳されていた、ということになったため、アイリは特例班からの追放も免れたが、彼女はエクソシストを辞めることを選んだ。
「たくさん迷惑も掛けてしまいましたし、それに、自分がエクソシストに向いてないって、よく分かりました」
「そんなことはない。むしろ、超級悪魔を前に正気を保てる前提だった私たちがいけなかった。いくら実力があっても、楠神はまだ、こんなに若いのに。私たちが、守らねばならなかった……重荷を背負わせてすまなかった」
 心底申し訳なさそうに、苦渋の表情を浮かべた班長に、アイリは、そんなことは、と首を振った。
「信頼してくださって、気に掛けてくださって、嬉しかったです。大変お世話になりました」
「ああ。こちらこそ。これからはもっと、自由に生きなさい」
 班長は目を細めた。去っていくアイリを見つめるその姿は、巣立つ雛鳥を見ているかのように、穏やかで、どこか寂しげだった。

 あの悲劇の日から、アイリは呆然と過ごしていた。地元に帰って来なさいと母はうるさく言ってきたが、アイリはどうしても、この部屋を離れたくはなかった。
 あの緋色の煙は、すぐに消えてしまって、何も残らなかった。それでも、ここにはミヤと過ごした刹那が、それでも確かな時間が、残っている。ミヤのお気に入りだったぬいぐるみを抱きしめて、アイリは夜な夜な泣いた。

 タッパーに詰めてくれたお手製の惣菜も無くなって、近いものを探しにスーパーに行って買って来ても、美味しく感じない。レシピを教えてもらっておけばよかった。もう一生、あの味は食べられないのだ。
 思えばミヤの写真は一枚も残していなかった。一枚くらい、撮っておけばよかったのに。いつか姿形すべて忘れてしまったら、ミヤが存在していたことさえ、思い出せなくなるのだろうか。
 そもそも、ミヤが特定されてしまったのだって、自分のミスなのに。自分が、ミヤを殺した。自分が手を伸ばさなければ、きっとそのままでいられた……。

 そんなことを考え続けて、夜も眠れなくなって、貯金も底が見え始めた。
「……何やってるんだろ」
 ミヤが繋いでくれた命を、生活を、どうしてこんな風に消費しているのだろう。
「……働くか」
 せめてバイトくらいはすべきだ。眠れないのだから、夜勤にでも入ろう。アイリはスマホを手に取って、求人を調べ始めた。

 バイト生活を始めて、二ヶ月が経過した。コンビニと、ピッキングの掛け持ち。愛想は良くないが、仕事覚えが早かったので重宝された。
 生きるために稼いで、生きるために金を使って、同じような日々の繰り返し。そんなある日、何気なくポストを確認すると、不在票が入っていた。
「……何か注文したっけ」
 記憶を手繰るも、思い当たる節はない。アイリは不審に思いながらも、仕事の入っていない時間帯に再配達を指定した。
「山河急便でーす」
「はい、少々お待ちください」
 アイリがロックを外してドアを開けると、そこには可愛らしい箱を持った男性配達員が立っていた。よく見ると、空いた穴から花が見える。
「サインお願いします」
「あ、あの、本当に私宛ですか?」
 花を贈ってくるような相手に心当たりはない。だいたい、今日は記念日でもなんでもないというのに。
「はい、楠神アイリ様でお間違いありませんよね? 水上ミヤ様からのお荷物です」
 その言葉に、アイリは思わず「えっ」と声を上げ、慌てて口を塞いだ。
「あ、その、分かりました、サインですよね。これで大丈夫ですか?」
「はい! ありがとうございます。割れ物ですからお気を付けてお持ちください」
「はい、ご苦労様です」
 ぺこりと頭を下げて、すぐにアイリは部屋に戻って荷物を確認した。
 箱を開ければ、陶器のシンプルな鉢植えに、丸い真っ赤な花がいくつも咲き誇っていた。添えられたカードには『ジニア、百日草』の文字がある。
「なんで花なんか……」
 不思議に思いながら、添付されたメッセージカードを開くと、そこには文字がびっしり、字数制限ギリギリにまで書かれていた。
『いつまでも一緒にいられるとか能天気に思ってないし、きっとこれをあんたが読む頃には、私はそこにいないと思う。だからこれに託すことにした』
 その言葉を見て、合点がいった。ミヤは、分かっていたのだ。二人の関係が、いつまでも続くものではないこと。
『この五百年で一番残酷なことをしたと思ってる。でも、あたしにとっては、この五百年で一番満たされる時間だった。あたしを見つけてくれてありがとう。奈落に落としたあたしの言えることじゃないけど、どうか這い上がって、生きて』
「……私だって、生きてきた中で一番満たされた時間だったよ、ミヤ」
 届かないことは分かっていても、声に出さずにはいられなかった。
「許されないとしても、ミヤに出会えて良かったって思うんだよ。置いて、行かないで、欲しかった……」
 メッセージカードに額を寄せて、アイリは弱々しく呟いた。
 仕方のないことだったのだと分かっている。アルバートの深い洞察力と強い聖力には敵わなかったことも、大量殺人を犯したミヤには、贖罪が必要だったことも。
 だから、進まなければならない。彼女が命を賭して残してくれた未来を、これから一人で切り開かなければ。

 アイリはジニアの鉢植えを手にして、そっと抱きかかえた。花の方に添えられているカードには、『不在の友を想う』『古き良き時代』『いつまでも変わらない心』という花言葉が記されている。
「不在の友を想う、か……」
 百日草は、その名の通り百日以上も咲く花らしい。自分の代わりに置いて欲しい、という意味だろうか。
「ねえ、ミヤ。私、生きるよ。ちゃんと生きる。約束するから」
 アイリは今度はその緋い花に向かって、そう宣言した。そこにはもう、先程までの弱々しい彼女はいなかった。
 贖罪が必要なのは、彼女自身も同じだった。ミヤは自身を犠牲にすることで罪を贖った。それなら、自分は。
「生きて、誰かを助けて、そうやって、あなたと共に抱えた罪を贖う」
 開いていた窓から吹いた風が、小さく花々を揺らした。

 *

 春になって、とある高校に、長い金髪の女性教師が赴任した。すらりとした容姿に西洋人風の顔立ちはよく目立って、着任してすぐに校内で噂になるほどだった。
 前職を辞めてどうして教師になったのか、と、ある生徒が尋ねた。すると彼女は少し考えたのち顔を上げ、遠くを見るように目を細めてこう言ったという。
「裁くより分かり合いたいって思ったから、かな」

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