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『あの頃。』感想/推しと暮らし、日々と光

(※ネタバレあり)

推しとの出会いはほんの小さなありふれた偶然から始まることもあれば、でもそんな小さな出会いが劇的に人生を動かすこともある。
それは推しに限らず、ありとあらゆる出会いに言えることかもしれないけれど。

松坂桃李さん演じる劔さんは志したはずの音楽活動も上手くいかず、バイト漬けの侘しい暮らしの中、友人が置いていったDVDをきっかけに、松浦亜弥さんの魅力にのめり込んでいく。

こういう時いつも思うことがあって、わたしが何かに強烈に救われる時っていうのは悲しみや苦しみに傷付いている時で、不幸があったから心に刺さる感動は、果たして純粋なのだろうかということだ。

何かに元気をもらえることは素晴らしいことだ。なのにそれを強烈に享受するためには不幸(またはそれに準ずる状態)でいなくてはならないとしたら、救われるために傷付く、そしてその癒しのための存在を愛することは、純粋な愛といえるのだろうか。

「推し」という言葉は多くの人に共通言語として扱われる強い普遍性を持っていながら、そこに根差す芯は人によって異なる不思議な言葉だが、わたしにとってはそういった苦悩性を孕んだ言葉でもある。

そして愛、ないし愛に近しい感情の暴力性と、推しという存在にそれを向けることの難しさ、デリケートさについても考える。

世の「推されがちな人々」、いわゆるエンターテイナーやアーティスト、アイドルは、表舞台に立つことで、その作品や活動、または本人の容姿や人格に対して、誰かに好意を向けられることが仕事の一部となっている。

そして当然、対象への愛の向け方はファンによって三者三様だ。
愛情は用法容量を守らないと、暴力になるし、毒にもなる。度が過ぎると迷惑になったり、ともすればストーカーのようになったりしてしまう。

アイドルは愛すべき対象であるにも関わらず、ひとりの人間で、赤の他人でもあるという、不思議な距離の元に立っていて、
そしてファンに求められるのは節度のある愛情を、適度に注ぎ続け、適切な距離から応援をし続けること。

愛という爆弾が「信頼」という、どこにも保証されていないか細い糸で成立している関係。
それは常に自分の在り方が間違っていないか、近付きすぎていないか、かなりの自制心と柔軟性を持ち続けていないと、到底成り立たないように思う。
だからこそそこには、他にはない人間関係の、尊さも業も生まれるのだと思う。


作中、劔さんがあんなに好きな松浦亜弥さんのファンを辞めようとするシーンが頭に残っている。

今がいちばん楽しい。でも、このままでいいんだろうか。
本来、音楽で何かを成すことを志していたはずなのに、音楽なんかそっちのけでアイドルの応援を続けている現状。

推しへの応援によって自分の暮らしが破綻していくことは、たとえば「全てを犠牲にしてまで応援している」というような、愛の強さを示す証拠としても扱うことができるかもしれない。
けれどわたしの場合はきっと、推しが我々に光を与えてくれているにも関わらず、それに応える暮らしをすることが出来ていない自分の、不甲斐なさや申し訳なさを思ってしまうだろう。

ライブハウスで働き始めた物語後半でサラッとバンドマンにベースを褒められるシーンが、とても地味だけど印象に残っている。それは推しに出会って恋愛研究会。を結成したことで、自身の音楽活動が潤った証明のシーンだからだ。
推しや、推しがくれるものへの向き合い方は人それぞれだけれど、自分の人生の中でそれを糧にできることは、シンプルに人間関係として、とても尊いことだと思った。これもまた、推しに限らないことかもしれない。

それとバンドレコーディングの時に「今がいちばん楽しい」とひとりごちるシーン。
誰かが地獄にいる時に自分が充実していたり、逆に誰かが幸福にいる時に自分は絶望していること。それが悪いだとか、何というわけではないのだけれど、なんだかとても人生だと思って、物語の本筋にはあまり関係ないかもしれないけれど印象に残ったシーンだ。

実話が元になっているというのは知っていたので、どうしてもそのことを前提に観てしまったわけだけれど、日々をきちんと前向きに生きていけば、人生は劇的になりうるのだと改めて思った。

長谷川白紙ことぱゅちゃんの劇伴も良かった。ぱゅらしさを随所に感じつつも、きちんと映画に寄り添っていて、音楽が流れるたびにぱゅちゃん頑張ったね〜〜〜って気持ちになった。
あとでか美ちゃん出てた!でかちゃん観るとほっこりする。同い年だし色々と縁もあるから勝手に親近感湧いてる。

以上、『あの頃。』感想でした。

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