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咲かざる者たちよ(第十六話)


 木製の風鈴が、扉が開くたびに心地よい音色を奏で、店内に響く。
扉には「営業中」と書かれた看板が揺れていた。喜多山が店に入ると、最初に目を向けたのは、フラワーショーケースでも、天井で静かに回る換気扇のプロペラでもなく、レジカウンターの奥にある部屋だった。風鈴の音に気付いた女性店員が、奥の部屋から落ち着いた声で「いらっしゃいませ」と挨拶した。その声を確認した喜多山は、とっさにその声に背を向けて入り口付近の観葉植物に視線を移し、背中で店員の気配を探った。蛇口を捻る水の流れる音や、硬いビニールをまとめるバリバリという音を背中越しに聞いた。そして、音が一瞬止まったかと思うと、突然服の擦れる音が近づいてくるのを喜多山は感じた。
 すると「あら、こんにちは。花の名前、わかりましたか?」と、上品な調子で声をかけられた喜多山は、即座に振り向いた。そこには、あの女性店員の姿があり、少し遅れて漂ってきた花の香りが彼の心を弾ませた。彼女の栗色の髪は片方の肩でゆったり三つ編みにされ、その毛先が彼女の胸に留めた名札を優しく撫でていた。名札に書かれた名前を見て、喜多山は思わず「マシマ…。」と声に漏らした。するとその女性店員は「あ、はい!眞島です!」と元気に両手で名札の両端をかざすように持ってにこりと微笑んだ。その底抜けに明るい表情に圧倒され少しも動けなくなっている喜多山に「花の名前、わかりましたか?」と眞島は再び尋ねると、喜多山は慌てて手帳のことを思い出した。ポケットに入れた薄汚れた手帳を取り出すと、何度も同じページを開けたせいか、型がついて背表紙の糊が割れて自然と花の絵が描かれたページが開いた。すると「わあ、綺麗。」と眞島は息を呑むような声で言い、喜多山に一歩近づいた。喜多山は、差し出した手帳を覗き込むように見る眞島を見ていた。

「リンドウですね。」

 眞島は喜多山を見上げて言った。聞き慣れぬ花の名前に困惑した様子の喜多山は、「リンドウ…ですか?」と聞いた。その時、眞島の大きな瞳に自分の影が映るのが見えた。「はい。間違いございませんわ。リンドウです。それにしても絵がお上手なんですね。色も綺麗。」そう言って眞島はもう一度手帳の絵を暫く眺めた。時折、彼女は指先で絵の色付けされた部分を優しくなぞったりもした。
 二十秒もの間、いや十五秒か、あるいはたった十秒程度だったかもしれない。しかし喜多山には、眞島が目の前で自分の描いたリンドウの絵に魅了されているその瞬間が、時間を忘れさせるほど長く感じられた。 
「あ、手帳ありがとうございました。あの…お役に立てましたか?」と前屈みだった眞島は姿勢を正し一歩後退した。眞島は細くしなやかな指を前で組み、その指にきらりと輝くピンクゴールドの指輪が映えていた。「切り花にするなら、ウチで仕入れましょうか?」と、少し首を傾げながら問いかける彼女の表情を見つめる喜多山は、内心で情熱の炎を燃やしながらも、表面上は冷静さを保っていた。会話を続けるうちに、眞島の指輪の輝きは次第に喜多山の意識から消え去っていった。
「自宅の前にリンドウが咲いているんですね。花瓶に活けてみてはいかがでしょう?リンドウもきっと喜ぶはずです。…花瓶をお持ちですか?」と、眞島はいつものように美しく落ち着いた声で尋ねた。「空いた醤油の瓶くらいなら…」という喜多山のぼそぼそとした返事を聞いた眞島は、思わず微笑みながら、「醤油の瓶なんかに活けたら、リンドウさんが怒っちゃいますよ」と笑った。喜多山は恥ずかしさと眞島の笑顔への憧れが交錯し、耳たぶが林檎のように真っ赤になった。

 花屋を後にし、商店街を抜けた先の石段に腰掛けた喜多山は、手帳の絵のページを開きながら、眞島と過ごした時間を何度も心に描いていた。手に提げたビニール袋には、少量の食料と透明な花瓶が入っていた。
「リンドウ…。」と小さく呟いた喜多山は、眞島が指でなぞった通りに絵をなぞった。
 ほんの一週間前、喜多山は同じように手帳を広げ、同じ石段に座っていた。その時は、自らの命を絶つ決意を固め、悲惨な過去を誰かに残そうと手帳に事細かく記していた。しかし今、喜多山はそれらが全てが夢だったように感じながら、手帳を開き、そこに描かれた絵をぼんやりと眺めていた。花屋の女性店員である眞島との会話が胸に蘇り、喜多山はその思い出に胸をときめかせていた。初めて経験する女性への特別な感情を胸に秘め、彼の心は喜びで満ち溢れていた。頭の片隅では、自分がこの孤独な花に執着する理由、死への淡い憧れ、そしてそれらを凌駕するほどの眞島への熱烈な想いのすべてを理解していた。しかし、今はすべてを忘れ、喜多山は手帳に描かれた藍色に染まるリンドウの蕾を見つめながら、無意識のうちに眞島への思いを抱くことを選んでいた。

『このリンドウはまだほんの小さい蕾にすぎないが、いつか必ず咲かせることをここに誓う。』と喜多山は日記に書いた。
 自分にとって生きるとは何か?生き抜くとは何か?そして咲くとは、枯れるとは、散るとは何なのか?リンドウとの出会いは喜多山の生と死に対する思考を深めると共に、自分自身の死までの道のりをもっと丁寧に紡いでいかねばならないと強く心に響かせ、ぎゅっとペンを握りしめた。

 喜多山の目に映る自宅アパートの前で揺れるリンドウは、以前とは比べものにならないほど特別に見えた。今や、ただ揺れる一本のリンドウに、眞島の存在が感じ取れるほどだった。そして喜多山は鋏の刃をリンドウの茎にあてた。眞島から教わったように斜めに切るや否や、すぐに花瓶の水にそれを入れた。
「だって、息ができない時間が続くとリンドウさんが可哀想ですもの。」と微笑んで言った眞島のことを思い出していた。喜多山のリンドウに対する思いは眞島への思いを現していた。喜多山は花瓶に活けたリンドウを部屋へ持って帰り、机の上にそっと置いた。その小さな蕾を持つリンドウは、何かを待つかのように落ち着かずに静かに佇んでいた。

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