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キャリアサイクルについて

はじめに

冒頭から余談で恐縮ですが、先日書いた記事に対して沢山の方からの「スキ」をいただいたのは何故だろうと思っていたら、お題提供元である日経COMEMOさんのマガジンに登録いただいたのですね。

これで私も「各業界キーオピニオンリーダー」の仲間入りですね(´_ゝ`)
ダッシュボードで特異点的な閲覧数をたたき出していて、さすがメディアの力はすごい、と改めて思いました。

それはさておき、昨日、Facebookにて私自身のキャリアに対するとある所信表明を行わせていただきました。
限定公開のため、内容は差し控えさせていただきますが、尊敬する諸先輩方や同志の方々からコメントやメッセージにて応援の声や、ありがたいことに協業のお話もいただきました。
具体的にどの様な形に繋げていけるかは、自分自身が成したいミッションに照らし合わせつつ取り組んでいきたいと思いますが、まずは改めてお礼申し上げます。

そんな中で、改めて自分のキャリアを振り返ってみると面白い事に気が付いたので少し筆を進めてみようと思い立ちました。
この4月から新しく社会人になる方や、部署を移動される方などもいらっしゃるかと思うので、なにがしかの参考になればと。
まずは少し私の過去について共有させてください。

フェーズ1(2003~2007):SE時代@東北・関東時代

私は1980年生まれで4年制大学までストレート卒業しており、就職氷河期真っただ中で社会に送り込まれた世代です。とはいえ、幸いにして出身の大学(会津大学)の先輩のおかげで、ほぼノー試験でシステムコンサル+SI部隊を持つ独立系の会社に就職できたのはラッキーだったとしか言いようがありません。

元々大学が珍しく公立のコンピューター専門大学だったため、即戦力的にOJTに送り込まれ、いきなりオープンソースのバグ解析を行わされたかと思うと、次には先輩のコンサル+SE+私というチームに入り納品間際にはSEの先輩が新婚旅行に旅立ち、コンサルの先輩と仕様を詰めながら一人でプログラムを書く羽目になるという、今にして思えば割と(色んな意味で)大丈夫か?と思うキャリアスタートでした。
その後、最近本も出た某メガバンクシステムリニューアル案件のN次請客先常駐リーダーとして入ったり、某放送キー局がワンセグ放送を始める際の番組編成システム構築のプロジェクトリーダーを務めたりしていました。

この番組編成システム構築中に、一旦心が折れかけてしまいました。正式な診断は受けていませんが、朝起きれない、思考力が半減する、などの症状からすると軽度のうつだったと思います。

ある時「あ、これはこのまま続けてたらまずい」と直感し、チームメンバーや上司などに「すみませんが、午後出勤とさせてください」というヘルプを出しました。また、おりしも忘年会シーズンで、取締役の近くで飲んでいたら異変を察知した取締役が、「どうしても糸川でしか出来ない仕事以外は全部やるな」と言ってくれて、サブリーダーとして入ってくれていた年上のメンバーがフルサポートしていただけた事が、私を救ってくれました。
仕事を投げ出せてラッキー、とは全く思えず、プロジェクトがいったん完了した時の振り返り会で、感謝の気持ちと「もっと出来たことがあったはず」という悔しさで、恥ずかしながら嗚咽を漏らしてしましました。

その後、システム保守がしばらく続いたのですが、気持ちは下に向いたままで、折しも会社が上場したタイミングでストックオプションによる小金も手に入ったので、一念発起して日本をめぐることとしました。
「日本一周したいんで会社辞めます」と言ったら流石に上司に止められて「余ってる有給と休業制度で行ってこい」と送り出されました。

そうして、3か月かけてこの当時住んでいた仙台から東北~関東~中部~近畿~四国と巡っていったのですが、下関まで来た時点で残り1か月、また、資金の底も付きかけていたので関門海峡の向こう側に九州の姿を眺めつつ折り返して仙台へ戻りました。

言うてもこの当時は20代中盤ではありましたが、会社の期待もそこそこ受けつつSEとしてのキャリアを積んでいた頃だったかと思います。
余談ですが、この当時触っていたプログラミング言語は、VB、Java、JavaScript、PHP辺りでしたね。Servletとかオブジェクト指向とか、そんなのが本格的になってきていた時代でした。

フェーズ2(2008~2012):マネジメント時代@北九州

旅から帰ってきた私を待っていたのは、相変わらずのシステム保守生活でした。恐らく、会社側としてもどう復帰させるか悩んでいたのだと、今なら思います。
そんな中で、北九州での仕事の話が舞い込んできます。
なんでも、市役所の中のシステムを再編する際のPMOが足りていないとのことでした。

ぶっちゃけ、その当時の私にはPMOはおろか、そもそも北九州市がどこにあるかすら怪しい状態でした(苦笑)
北九州地帯という表現なら地理の授業で聞いた覚えがあったのですが、それが「市」だったとは、怒られるかもしれませんが本当に知りませんでした。

そんな状態ではありましたが、私を必要としてくれるところがあるのなら、という想いで北九州へ赴任してきました。

その際の仕事内容について詳細は割愛しますが、ざっくり言うと「市役所側のサポーターとして事業者間の仕様やシステム間連携、プロジェクトマネジメントの支援」をしていました。
全体としては数十のシステム開発/切替プロジェクトが並行する状態でしたから、俯瞰するためのプロジェクト運営標準規約や、システム連携における考え方の基準などを作っていったりしました。また、個別のプロジェクトのマネジメント支援としても入り、リスク/課題の管理が適切に行われているか、抜け漏れがないか、などを定例会の中で確認していく役割でもありました。
途中からはデータ移行PM(プロジェクトマネージャー)の任も仰せつかり、全体のデータ移行計画の策定なども進めていきました。数十のシステムを一気にデータ移行させるためのスケジュール作成などは、今から振り返っても気が滅入ります(苦笑)

とはいえ、もちろん、これも一人で行っていたわけではなく、PMOチームの中の一人で、全体統括はPMの先輩が行っていましたし、さらに言えば、市役所自体による指揮系統も存在していました。

そうこうして、何とかシステム再編は完了したのですが、ここで重大な局面が。当時所属していた会社の福岡営業所が閉鎖されることになったのです。

とはいえ、当時私は北九州を離れられない理由もありましたので、当時付き合いのあった地場IT企業の部長さんに相談し、入社試験を受けさせていただき転職することとなりました。

転職先のIT企業では、再びSEとして顧客との仕様調整や、開発のためのフレームワーク製作など、それはそれで楽しい日々を過ごしていました。ぶっちゃけ心理的な安心感はこれまでのキャリアの中でトップクラスでした。
定年退職まで在籍していた人もいるIT企業なんて、この業界的には珍しい部類かと。これは改めて思うと、古くから製造業が発展し、そのシステム部門として切り出されたIT企業が多い北九州の一つの特色かもしれません。

フェーズ3(2013~2019):事業支援時代@北九州

そんな中、再び転機が訪れます。
システム再編プロジェクトでPMをやっていた先輩が、当時の会社の取締役が立ち上げるベンチャー企業に参画するそうで、その先輩からメンバーとして来ないか、という誘いを受けたのです。

先ほども書いたとおり、心理的な安心感はものすごく高い状況でしたから、これには正直迷いました。ただ、「ぬるま湯」感があったのは確かです。また、転職組でもある中で、組織内で浮いていたのも否めません。
そういった事情の中で、これもまた一つの経験だろうと思い、辞表を出した際にはその地場IT企業取締役の一人、たたき上げで次代を担うと社内でも目されている人から「いつでも戻ってこい」と言っていただけたのは本当にありがたい話です。

そしていざベンチャー界へ!と思ったのですが。
なんと「会社の立ち上げが遅れており、3か月待ってくれ」と言われたのです。繰り返しますが、辞表は既に出しています。
流石に「いつでも戻ってこい」と言われたその翌週に「もう少し延ばしてください」とは言えず、何とか伝手を辿ることに。

その当時、市役所でのプロジェクトで関わらせていただいていた課長・係長が、IT産業を振興するための財団に出向されていたこともあり、運よくそこの臨時職員(=アルバイト)として拾っていただき、これがきっかけで、ベンチャー企業に無事(?)ジョインした後も、そのベンチャー企業からの出向という扱いで財団の仕事を行うようになりました。

ベンチャー企業の社内SEとしてネット通販の受発注システムを一人で開発しつつ、財団の仕事をしつつ、という二足の草鞋を履く形での生活が続きます。そして、その財団の仕事の一つとして、北九州e-PORT2.0の推進役を担うことになりました。

今では130ものパートナー企業・団体がe-PORT2.0に関わっていただきつつ、北九州での産業創出のための取り組みを進めていっています。
昨年、日経の展示会で講演させていただいた際の様子はこちら。

このような取り組みを進めていく中で、北九州という地域を深く知り、関わるようになってきて、いまさらながら「このままの働き方で良いのだろうか」という想いが募ってきたのも事実です。noteを始めたころに書いたこちらの記事にもその想いは綴っています。

こちらの記事の最後は「さて、どんなものが出て来るかはお楽しみに(?)」と書いて締めくくっていますが、その最初の表明を、冒頭で書いた通り昨日行ったわけです。具体的なアクションプランはまだ明かしてはいませんが、少なくとも「北九州の人が胸を張って北九州を語る社会を創る」というミッションは変わっていません。そのための具体的なWorkは今から一つずつ創り上げていこうと思っていますので、まさに私自身の社会人人生としては今年(2020)がフェーズ4の始まり、と捉えています。

キャリアの周期について

これでようやく長い前振りが終わったのですが、改めて振り返ると、我ながらちょっと面白いのがそれぞれのフェーズは概ね6年を一つのサイクルとしています。(正確にはフェーズ2は、3年×2に分けられますけど)

石の上にも三年、とは良く言われ、行政や大企業の中でも3年での人事異動は割と多かったりしますが、その2サイクル分ですね。
仕事柄行政の方ともお付き合いが多いのですが、この3年サイクルというのは、かなり弊害もあるように感じています…が、それを書くのは本題とはそれるのでこれ以上の寄り道はまた改めるとして。

6年サイクルでキャリアを変えてきた私の感想としては、6年経ってくると所謂「コンフォートゾーン」に陥りがちになります。逆に言えば、余程優秀な人間でない限り、コンフォートゾーンになるには3年以上かかります。

コンフォートゾーンがそれ即ち悪、というわけではありませんし、6年以上継続されている方々を非難する意図も全くありません。業種や業界、会社の状況にもよって6年というのは変わってくるでしょうし、同一の職の中でもステージが変わっていく、という事も大いにあります。

何が言いたいかというと、上記の記事にも書いてある通り、「最も大事なのは、自分が今どのゾーンにいるのか、的確に診断すること」なのです。
良くありがちなのは「自分がラーニングゾーンだと思っていたら既にコンフォートゾーン」だった、ということです。
一方で、逆に「まだまだラーニングゾーンにいるにも関わらず、既にコンフォートゾーンにいる」と考えてしまう事もあり得る、という事です。ようやくパニックゾーンからラーニングゾーンに入ってきた段階で、その中での真髄を知ることなく、見切りをつけて違うキャリアに進んでいくようだと、いわば「半端もの」としてしか見られなくなってしまう恐れがあります。

この恐れは、流転を繰り返す私からしても重大なものです。「人生之学習」というのも一つの真理であり、慢心していないか、という問いかけは常に行っていきたいと考えています。
特にこれから社会に出られる学生の方々や、起業されようとする方はここは留意点かと。業界の課題を解決したい、という想いがある中で、学びきったと捉えていても実はまだ入り口に立っただけだった、なんてことはざらにあったりしますしね。。。

人生100年時代のキャリアの積み方

一方で、人生100年時代ともいわれています。そう考えると、私も今年で40歳になりますが、さすがに100歳までは働けないとしても、80までは頑張るとした場合、残り6サイクルは新しいことにチャレンジできるわけです。

これまでのキャリアは偶発性も高く、本当の意味で「自らこれをしよう!」と思ったのは今年からのフェーズなわけですが、それでも他に5つのキャリアを経験できるかと思うと、ちょっとワクワクしてきますよね。
その中には自らの意思できっちり決めるものもあるでしょうし、これまでのように偶然性が高いものも含まれるかもしれません。

正直、今の時点では全くの未知数ですが、これまでの積み重ねて来た「やるべきことをやりながらやれることを増やしていき、やりたいことを見つけていく」というスタンスを崩さなければ、きっと面白い事にはなるのでは、と考えています。

今年社会人になる方は、私よりもさらに4サイクル余白があるのは、とてもうらやましいですし、皆さんがどの様なキャリアを積んでいかれるか、楽しみですね。

終わりに

うちの母は、65歳を過ぎた今でも地元のスーパーでパートを続けるようなタイプなのですが(そろそろ辞めたいとは思いつつ、スーパーの社員から「居なくなられたら困る」と毎年引き留めにあって残留しているとのこと)、この間、とある件でLINEした返事が「人生はストレスあってなんぼ、ストレスのない人生なんてつまらないから」とか宣ってたのには、何となく「この母あってこの子あり」と我が身を振り返ってしまいました。

コンフォートゾーンを抜け出した先には、多くのストレスが待っていますが、私も母と同様、「ストレスの無い人生なんてつまらない」と思ってますので、これからも楽しくストレスを受けつつ散らしつつ昇華しつつキャリアを積んでいきたいな、と思います。

また、Facebookでの所信表明におけるコメントのやり取りの中で、"Multi-Jobs for One Mission"という言葉が生まれたので、これを胸に突き進んでいきたいと思います。
ぶっちゃけ、兼業とか副業とかいう言葉は割と最近どうでも良いと思っているのですが、この辺については、また改めて書く機会があれば。

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