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6.高郷見晴らしの丘 池ノ原展望台

今宵はどんなお酒を送ろうか~ 番外編最終回

【その酒は食べる米で出来ている】

喜多方の会津錦という酒蔵が掲げている酒の謳い文句だ。日本酒は通常、酒米という酒専用の米で造られることが多い。

だが、会津錦は全ての酒を食用の米で造る。

この蔵がある喜多方市高郷町は圓藤七海の母親の故郷だった。もともと村であったものの喜多方市と合併して町扱いになったのはここ最近で、記憶に新しい。

親戚の家に顔を出した七海と夫の達也は親戚に久しぶりの挨拶を終えて帰路についたところだった。七海の祖母が眠っている墓の前を車で通りすぎて、達也が口を開く。

「七海、昨日の北方風土館で泣いていた女の子が過去の自分と被って放っておけなかったんでしょう」

助手席の窓を開けて外を眺めていた七海は達也の顔を見ずに返答する。

「なんだ、達也にはバレてたんだ。失恋は意外にメンタルにくるし辛いから。私もああいう時期があったから分かる。放っておけなかった」

外を眺める七海の表情は無表情で変わらなかった。

圓藤達也と七海の夫婦はSNSで知り合った薬剤師仲間の船越晴之と楠木友里恵と福島県の会津の酒蔵を回っていた。

会津若松の鶴の江酒造、宮泉酒造、順々に酒蔵を巡って、中盤でたどり着いたのは喜多方の大和川酒造だった。

福島県の親戚の家に行くその都度、七海と達也は必ず大和川酒造に立ち寄っているが、時間を確保して有料試飲をするのは初めてだった。4人でわいわいと酒を飲みながらその土地の文化を知れることは七海にとって、楽しいイベントだった。

良い具合に酔っぱらってきた時、有料試飲のコーナーから、ふと蔵の日本酒冷蔵庫の目の前に立っている人影が目に入った。

若い女性だった。
恐らくここの土地の人間ではない。1人旅だろうか。
今にも彼女は泣きそうで目に涙を浮かべていた。

一体何があったんだろう。
全くの赤の他人のはずなのに、放っておく方が七海にとっては辛かった。

考えるよりも体が勝手に動いた。
この蔵に来ているということは、日本酒は嫌いじゃないはずだ。私に出来ることを彼女にしてあげたい。

つい、声をかけてしまった。

「日本酒お好きなんですか?」

ーーーーー

失恋をして傷心旅行に来ていたと話をしてくれた彼女に喜多方のとっておきの場所を教えてあげた。
手持ちの日本酒をあげちゃったけれど迷惑じゃなかったかな。

少しでも喜多方の旅を彼女が楽しめるように。
彼女にとってここが悲しい場所にならないように。

夫の達也は七海が買ったお酒を見知らぬ女性にあげてしまったにも関わらず、全く怒りもしなかった。

「七海、別に後悔ないんでしょ。それであの子が元気になればそれで良くない?」

彼はこれに限らず今まで七海の考え方を否定しなかったし、いつでも受け入れてくれた。本当に有難い存在だと七海は思っている。

「七海が会津で一番好きなお酒って何?」

達也は運転しながら冗談っ気に七海に問う。
うーん、と悩みながら七海は真面目に答えた。

「全部好きだけれど、味で言うなら南会津の花泉が好き。コンセプトだけで言うなら会津錦がダントツ」

それ一番じゃないじゃん、とハハッと笑いながら達也は七海にツッこんだ。

「会津錦良いよね。今日初めて蔵に行くから楽しみだわ。食べる米で酒造るコンセプト、俺も好きだよ」

山道の下り坂でスピードが上がりがちな道を達也はブレーキをかける。

「あ、待って」

七海が短い声で達也を制止する。
達也は間髪入れずに、はいはいと答える。

「あそこで景色見ていきたいんでしょ」

大丈夫、まだ先だから。という達也に言葉に七海は安堵した。山道の木々に囲まれた坂を下っていくとその場所は見えた。

簡素なベンチがあってちょっとだけ、切り拓けている。高郷町の絶景が見えると言ってもいい場所であんまり有名ではない、高郷見晴らしの丘。

「ここ寄ってからじゃないと関東になんか帰れないよ」

車のドアをバタンと閉めて七海はベンチに駆け寄って腰掛ける。この日は晴れていて、大粒の雲がバラバラと5月の青い空に散らばっていた。

「本当はドラッグストアに就職する前に病院に就職しようと思っていて会津の病院も考えていたんだよね。こっちの親戚の側にいたかったと言うか」

母親にお前は雪国じゃ生きていけないって反対されてアッサリ諦めたわ、と七海はぶっきらぼうに話す。達也にとってこの話は初耳だった。

「会津の祖母が気付いた時には末期の膵臓癌だった。腰が痛いって言い始めた時にすぐ気付いてあげられなかった。医療者なのに私何してるんだろうって」

当時、祖母が入院している期間はせめて出来るだけ顔を見たいと、七海は関東から祖母の顔を見に毎月会津まで足を運んだ。

癌の痛みが酷いからと投与量が増えていく麻薬。
普段の飲み薬に追加されてお薬手帳に記載されていく抗がん剤。
無機質にお薬手帳に記録されていった薬の名前は七海にとって、ただ、恐怖でしかなかった。

普段、薬剤師として関わっている仕事でよく知っているはずなのに。患者側になると何故、こんなにも違う感覚なのか。
一体、祖母はいつまで生きられるのだろう。

会いに行く度に彼女は痩せ細って小さくなっていく。
食事もろくにとれない。
それでも入退院を繰り返しながら必死に生きていた。

七海が心配をすれば、彼女に逆に心配をかけてしまう。会う度に顔色を隠して「元気?」「大丈夫?」と声をかけていた七海に彼女は一言告げた。

「ななちゃん…良い人いないんか?」

なんで、この人は。
自分が苦しくて辛いはずなのに、私の幸せを願っていてくれてるんだろう。祖母の手を優しく握った。

「ごめんね、いたら良いんだけれどね。見つかったら紹介するね」

七海は笑って誤魔化した。
それが七海と祖母の最後の会話だった。

祖母が亡くなったのはそこから1ヶ月後だった。
七海は祖母の葬式には参加出来なかった、というよりも参加しなかったという方が正しい。

当時、薬局の管理者で自分が忌引きで休みをもらえば会社に迷惑をかけると思っていた七海と、元々、七海の母自身が養子で七海とは血縁がない親戚。悪い意味で利害が一致した。

「私は行くけれど、仕事大変だと思うし七海は無理して行かなくていいから」

母親は七海に気遣ってくれたつもりだったのだが、あの時なんで無理に仕事を休んででも葬式に行かなかったのだろうと七海は今でも悔やんでいる。

心の中で祖母との決別が全く出来ていない。
会津に帰れば、祖母がひょっこり出てきてくれるのではないかと今でも錯覚してしまう。

「葬式ってとっても大切だなって思ったよ。これから生きていく残された人間の為にも。あの時、葬式に出ていたら、気持ちを精算してこんな複雑な気持ちを抱えずに済んだと思う」

清々しい景色を目の前にしながら七海は淡々と語る。
距離がそれなりに離れているはずなのに展望台からクッキリ見える新郷ダムはとても立派だった。

「七海は、会津のお婆ちゃんのこと、大好きだったんだね」

達也は車から引っ張り出してきたカメラのレンズの蓋を取りながら七海の横に並んだ。

カシャッと達也のカメラの音が鳴り響く。
ここの展望台から見える景色は季節や天気で結構変わるから来る度に達也は写真に納めてるらしい。

「もうちょっとしたら、行こ。帰り、会津錦の蔵に寄るでしょう」

ベンチに座りずっと黙って景色を見ている七海に達也は声をかけた。

そうだね、と七海は静かに腰をあげた。
展望台にひかれた砂利の音を立てて2人は車に戻る。

車カメラを後部座席にポンッと置いて達也は運転席に乗り込んだ。
同じタイミングで七海も助手席に乗り込む。車が発進すると、さっきまで眺めていた景色が後方に遠ざかっていく。

会津錦の蔵があるのは高郷町の西羽賀という場所だ。
七海の親戚の家とは少し離れた場所にある。
その先の只見川にかかる橋を越えたら会津坂下。

橋の手前の細い路地を左手に曲がってしばらく行くと会津錦と大きく書かれた家の壁面が左手に現れた。
その看板の真後ろには一軒家。銀色がかった屋根が太陽の光を照り返して少し眩しい。

その一軒家の玄関前スペースに車を停めて達也は車から降りる。玄関口へ向かいインターホンを鳴らすが、人は出てこない。

「……?留守なのかな。平日だけれど」

それを様子を見て七海はスマートフォンから電話をかけていた。電話で蔵にかけてみて出なかったら、もう諦めるしかない。

七海がかけている電話の向こうで「はいはーい、行きますね」と声がして、目の前の家の中からバタバタと足音が聞こえた。

玄関で引き戸を開けて出迎えてくれたのは小柄なお婆ちゃんだった。

「お酒の購入かね」

彼女の問いに七海は、ハイと頷いて「いいあんばい、ありますか?」と聞き返す。

「……ちょいっと待ってね」

そのまま、お婆ちゃんは向かいの納屋の奥へと消えていった。黙ってやり取りを見ていた達也は口を開いた。

「いいあんばいって…七海がここ数年くらいネット販売だの現地の酒屋だのって探し回っても見つからなかった酒じゃん。そんな長期間どこ探してもなかった酒、蔵にあるのかよ」

七海は視線は変えずに、首を傾げる。

「うーん…分からない。酒蔵ホームページの商品紹介には載ってなかったけど、もう現地の酒蔵での聞き込みしか希望はないなって思って」

そう言って七海はため息をついた。

七海が何故そこまでしてまで、あの酒を追うのか達也には分からなかった。

「いいあんばい」は1回だけ達也は過去に飲んだことがあった。美味しかったし好きな味ではあったけれど、秋田の新政みたいに有名でもないし万人ウケするような味でもない。

そう2人が待っている間に向かいの蔵からお婆ちゃんが瓶を抱えて戻ってきた。

「あったよ、姉ちゃん。蔵の奥に」

嬉そうにお婆ちゃんは瓶を持ち上げて七海に見せる。
それを見た七海はワァッと声をあげてお婆ちゃんの元に駆け寄った。

「ありがとうございます!どこ探しても見つからなかったので…本当にありがとうございます!」

お婆ちゃんからお酒を受け取って七海は財布からお金を出す。お金を払って七海は嬉しそうにお酒を受け取った。

「こんな、名も知れてないお酒の為にここまできてくれてありがとうね」

お婆ちゃんは七海の顔を見てニッコリ笑った。

会津錦の酒蔵を後にして七海は上機嫌だった。購入した「いいあんばい」の4合瓶を抱えて鼻歌なんか歌っている。

「良かったね。欲しいお酒見つかって」

達也は七海の鼻歌の合間に合いの手を打つかのように一言入れる。

「うん!このお酒、行けなかった祖母の葬式の翌月、四十九日の法事の日にたまたま催事施設で見つけたお酒で…お土産に達也に持って帰ったら美味しいって喜んでくれたお酒だったから」

七海の生き生きとした返しに達也はハッとした。

達也が「いいあんばい」を過去に1回だけ飲んだことがあったのは七海と付き合ってもなかった頃、七海の母の実家で用事があってそのお土産に買ってきてくれたからだった。
まさか、その用事が彼女の祖母の四十九日だったとは。

「うち、米農家だったし祖母も仕事一筋だったから…会津錦って食用の米でお酒造ってるし、あの時のお酒だと思うと思い入れ深くて。あんなに探して見つからなかったのに、今回見つかったの運が良かったのかも」

そう言って七海は酒のラベルを手のひらで撫でた。

達也は一瞬黙って車の運転を続けた。いや、たまたま運が良かったのではなくて「運命」だったんじゃないかと。

四十九日に手にしたお酒がそれ以来ずっと手に入らなくて結婚した今、蔵に行ったらその酒と再会することが出来た。
七海の祖母からの何かのメッセージだったんじゃないかって…そんなの考え過ぎか。スピリチュアルかよ。

そう考えながらも達也は言葉を飲み込んで心の中に閉まっておく。 

「また、あの時みたいに一緒に飲もうよ。いいあんばい」

達也の提案に七海は大きく頷いた。
山道を抜ける車の振動で瓶の中の液体が大きく揺れる。

2人が乗った車は高郷町を抜けて会津坂下方面に向かっていった。

ー 今宵はどんなお酒を送ろうか 番外編 最終回 【完】ー

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