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#87 「最後の授業」~アルザスの少年の話~

国語の教科書に載っていた話というのは、時間が経ってから考え直すと、小中学校で習った時とは、また違った捉え方ができるなぁと思います。「一切れのパン」に続いて、「最後の授業」もその一つです。

知り合いの「国語の先生」に聞いたら、ずいぶん前から「最後の授業」は教科書に載っていないとのこと。”諸行無常”は世の定めなので、取り上げる小説も時代によりウツロウのですね。「母国語」として何を学校で学ぶか・教えるかは、その国の歴史とその時の国際情勢が影響するのかなと想像してみたりします。

「母国」という言葉、耳慣れているので普段は気にかけることがありませんが、やはり「母なる国」という意味なんでしょうね。父親たる男性陣から異論は多分ないと思います。やはり子供にとって母親の方が身近にいるのは確かです。もし生まれてから一緒に過ごした延べ時間を計測したら、何倍になることでしょうか?もしかしたら、10倍以上違うかもしれません。母親は、子供のために具体的に色々気配りしてくれる優しい、愛情を最も感じる存在でしょうから、「母国」と呼ぶことに賛成です。決して、ヒガンデませんよ。お父さんたちだって、社会で一生懸命稼いで家族が安心してご飯を食べて明日も頑張ろうと思えるような環境を維持するために”縁(えん)の下”で頑張っているんだゾォーい、などと言ったりしませんよ(既に言っていますが、、、)。

『最後の授業』では、自分の”アイデンティティ”(正体:しょうたい)と”言葉”がテーマだったかと思います。どの国の言葉を使うかが大きいですが、その次に、「どんな言葉」を使うかも大切だと思います。「何を普段食べているかで、その人がわかる」というコトワザがあるようですが、「どういう言葉を普段使っているかで、その人がツクラレル」ともいえると思います。「言(こと)の葉(は)」に霊的な何かがのる言霊(コトダマ)があるかどうかは分かりませんが、少なくても、言葉にはその人の「姿勢」がにじみでていると思います。いつも優しい言葉を使う人は、優しい人だと思います。言葉を「学ばない」ことは、「知らないこと」ではないと思います。

教室で習った時、あの先生は最後、この物語に対してどんなコメントをしたかを覚えていません。もし今自分が教室で話すなら、きっと、「どの母国語でも、優しい言葉はヤサシイ。」と優しく言って教室を出て行っただろうなと思う今日この頃です。