女性として生きること
生まれ持った性を、自然に受け入れて生きている人は、
自分の性に対して、向き合う時間を持っている人は、
どれだけいるだろう。
私は最近まで、女性として生きていることを、嬉しく思えずにいた。
理由は様々ある。
妊娠できる身体であること。
搾取される側になりやすいこと、経済的に弱い立場になりやすいこと。
15歳の頃から5年ほど「私は母の失敗作だ」と思っていたこと、幼少期から人の目を過度に気にしていたことも、大きく関係している。
長い間否定していた“自己”には、当然“生まれ持った性”も含まれるのだから、女性らしい身なりや振る舞いを否定し嫌悪することは、ある意味自然なことだった。
私の育ち方と社会の在り方が、負の方向で組み合わさってしまい、男性から向けられる視線を過度に気にせざるを得なかったことも、事実だと思う。
女性をやめたいわけでも、男性になりたいわけでも、LGBTにあてはまるわけでもない。(Q+については、今はまだ触れないでおく。)
ただただ、女性として生きる日々を喜べないことが、私を縛っていた。
向き合い続け、やっと、女性として生きることを嬉しく思い始めている。
けれど、受け入れたのかと自分に問うとき、少し自信がなくなる。
そんな私が【女性として生きること】を受け入れるまでの過程を、今後時間をかけて、少しずつ話していこうと思う。
“自己”に“生まれ持った性”が含まれるのと同様に、
【女性として生きること】を受け入れることと【自分として生きること】を受け入れることは、同義だと感じる。
私の言葉が届く距離にいる人とは、性別も立場も関係なく、一緒に【自分として生きること】を嬉しく思っていたい。
私と同じように、女性である自分に違和感はないけれど、女性として生きることを嬉しく思えない人へ、
パートナーである女性を大切にしたい男性へ、
女性として生きる相手を大切に思う人へ、
ひとりの人として、相手に受け入れられたい人へ、
自分を好きになれない人へ、
これからの私の言葉が、心地よく吹く風になりますように。
女性として生きること
エッセイ 川内倫子さん『そんなふう』
エッセイ 川内倫子さんと滋賀県
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